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八起寄席 

「八起寄席」は新春顔合わせ。場所はグリーンホールではなく、南相模原市民館。こちらの方が収容人数は多い。4団体の幹事が高座にあがる。

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 最初に演者と演目を挙げておく。所属団体も。

 古今亭文菊(落語協会)   高砂や

 瀧川鯉橋(落語芸術協会)  二番煎じ

 立川談修(落語立川流)   転失気

 三遊亭兼好(圓楽一門会) 片棒

 演目はおなじみの古典噺。 評判のよいトリネタも複数入っている。新年だから、各演者、力も入っている。

 鯉橋の「二番煎じ」がよかった。火の用心と夜回りをする旦那衆が、寒いから番小屋で酒を飲み始める噺。ところが、夜回りの役人がやってきて、酒や鍋を隠すのにどたばたになる。冬に演じられる。落語にしては大人数が登場する。そのキャラをうまく際立させていた。情景が目に浮かぶ。うまいものである。

 トリの兼好もよかった。「片棒」は難しい噺である。木遣りがあり、手古舞いのお囃子がある。歌って、口三味線で太鼓をうち、笛を吹いたりしなければならない。踊りもある。熟練を要する。かなりのテクニックがないと客席を沸かせることはできない。兼好はいつもの陽気さで見事に演じた。たいしたものだ。場内、笑いと拍手で溢れる。

 文菊の張りのある声、談修の丁寧な語りもよかった。満足の落語会であった。

 ついでのひとこと

 談修の談志エピソードが面白かった。

 師匠の談志が喉頭にメスをいれたとき、一週間は声を出すことが禁じられた。手持ちのホワイトボードでの筆談。「昨日もらった籠盛りのフルーツはどうした?」と談志がボードに書いた。弟子の談修は、そのボードに「家に届けとました」と書く。すると、談志はまっかになって怒った。ボードをとりあげて「お前は、喋れるだろう」とすかさず書いて見せた。ごもっとも。談修はあわててあやまったそうだ。

 あはは、これにちかいことは、しばしばある。

2026年1月19日 (月)

桂文珍独演会

 桂文珍独演会に行ってきた。毎年麻生市民館で開催されるこの会は19年目になったという。来年で20回。長く続いてきた。1000人収容できる大ホールが満席になるから文珍人気は息が長い。上方落語では、80過ぎた文枝と77の文珍がずっとリードしている。

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 今回の演目

    AI・ルモンド

      仏馬

  百年目

AI・ルモンド」は新作。老人はスマホだのAIにはついていけない。それをマクラでおもしろおかしく語る。まあそのとおりである。チャットGPT(チャッピー)はその能力に驚くが、慇懃無礼なところがある、と。これはわたしも感じる。

 ホログラフのチャッピーがやってきて、あれこれ解説するのだが、食い違いが生じる。タイトルの、ルモンドの部分は、問答に聞こえる。それで、ルモンドにしたと語っていた。世界という意味ではない。チャッピー問答。古典噺「こんにゃく問答」のアナロジーである。

 トリの演目は「百年目」。大ネタである。使用人を厳しく育てている番頭さんが、隠れて花見にいく。芸者をあげての舟遊び。気を緩めて踊っていると、ばったり旦那とでくわしてしまう。万事休す。うなだれて店にもどるのだが、クビになると観念する。翌日、旦那から上に立つ者の心得、部下の育成を諭される。といったストーリーである。中間管理職の人たちには人気があると言う。ふーん、わたしはちょっと説教臭く感じるのだが。だから、その部分をこってりやるか、さらりとやるかで、噺の印象は違ってくる。文珍はさらり派である。

 すこし戻って、チャッピーの話。

 文珍は80近くなっても最近の政治や世相まで目配りを怠りない。それをギャグにしてマクラで語る。これが愉快。チャッピーもやり玉にあげる。丁寧で親切。それを前面に押し出す。そこがちょっと、と感じるのはわたしも同様。

 優等生的なんだよね。たまには「ごちゃごちゃ言うんじゃねえよ!」ぐらいの捨てセリフがあってもよい。

 いちど、「それだけの情報では回答はできません。もう少し情報をください」との回答があった。ハイ、ワカリマシタ。落語からすこし逸れた。

 ついでのひとこと

 印象に残った時事ギャグ。大阪も同時選挙となる。維新は都構想を訴える。将棋に関係があると文珍さん。が成ってになる。そのこころは、になる。

 

2026年1月17日 (土)

「ペンギン・レッスン」

 終映ぎりぎりで「ペンギン・レッスン」を観てきた。

 今から50年前のアルゼンチンが舞台。社会情勢は混乱しており、軍事クーデターが勃発する。イギリス人のトム・ミッシェルはブエノスアイレスの中学で英語を教えることになる。混乱により、学校は一週間休みとなる。これ幸いとトムはウルグアイに旅行する。そこで知り合った女性と海岸を散歩すると、重油にまみれたペンギンを見つける。連れて帰って洗ってやると元気をとりもどした。海に帰そうとするが、ペンギンはトムから離れない。しかたなし、トムはペンギンを飼うことになる。

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 これが発端。ペンギンはトムだけでなく、掃除係の女性にも懐いていく。ファンタジー・フィクションかと思うが、これが実話をベースにしたものという。映画では当時の映像も映し出される。

 トムの教える生徒たちは学業に身が入らない状態。それでも、熱心に英詩を教えるのだが、うまくいかない。ペンギンを連れていくと生徒たちは次第に英語と向き合うようになる。このあたり、むかし観たロビン・ウイリアムス主演の「いまを生きる」を彷彿させる。

 単なるペットとの交流を描いたものではない。軍事政権は秘密警察により反政府の動きを警戒する。不審人物はたちまち拘束される。清掃係の孫娘も行方不明になったりする。警察に拘束されたようだ。トム自身も一日だけだが捕らえられる。そうした厳しい環境下でも。ペンギンは愛らしく動き回り、人々の気持ちをほぐしていく。

 チラシを見ただけの印象はほんわかしたアニマルセラピーものと思っていたが、そうではなかった。厳しい政治環境下の社会や人たちの姿を描いている。いい映画だ。

2026年1月15日 (木)

生田寄席 春風亭一朝

 生田寄席に行ってきた。今回は春風亭一朝独演会である。

 一朝といえば、江戸落語の名手として知られている。江戸っ子の気風、威勢が小気味よい。後期高齢者になったが、勢いは衰えていない。人気も60過ぎてから上がっていったような気がする。今回も、超満員になった。

 今回は、イッチョウケンメイはなかった。小さなトラブルがあって、そこの部分を飛ばした。

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  演目は、前半「三方一両損」 中入り後「紺屋高尾」。

三方一両損」は大岡越前もの。ケンカ早い男が登場する。もう一方は頑固者。両方とも江戸っ子気質。ケンカを始める。大きな声で言いあう。こういう噺は、一朝、得意のネタである。

 越前ものではよくできたストーリーで、オチもおもしろい。おおくは食わない、たった一膳。大岡越前の洒落である。

紺屋高尾」もおなじみの噺。後半、軽く済ませたような印象があった。

 膝が悪いとマクラで語っていたが、正座はできる。ただし、足を伸ばすと痛みがはしる。高座を降りるときはうまく立ち上がることができない。痛そうだった。

 高齢となるとどこかぐあいが悪くなる。一朝さんはヒザ。わたしは目。

 目をつぶって聴いていたのだが、隣の妻につつかれた。寝てねえのに。

 ついでのひとこと

 弟子の一花がNHK落語新人賞をとった。一花は忙しくなった。もうひとりの弟子・一之輔は引っ張りだこ。

 最近、ふたりとも遊んでくれないとぼやいて、客席を笑わせる。

2026年1月13日 (火)

モグラたたき

 ゲームセンター(ゲーセン)にはさっぱり行っていない。

 かつて、しょっちゅう行っていたかというとそんなことはない。たまに、である。カーレースとか、クレーンゲームなど、ことごとくダメ。うまくいかない。太鼓たたきもからっきし。勝負になるとか、そこそこサマになるのは、モグラたたきぐらいである。

 あれは単純でよい。モグラの頭をおもいきりひったたく。我を忘れて夢中になれる。わずかな時間で息がはずむ。

 コノヤロー! バカ部長! クソー! とか声をだせば、それなりのストレス解消になる。

 新宿の街をあるいていたら、ゲーセンの看板をみつけた。写真がそれ。

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 感情解放区とある。感情が解放できるということか。それほどではなかろうが、ストレスを多少は解放できるのは間違いない。

 気になったのは現在のゲーセンにどんなゲームがあるかということ。ローテクのモグラたたきなどなくなってしまっているかもしれない。どうなんだろうか。

 

2026年1月11日 (日)

狛江寄席 市馬の芸

 新春最初の落語は狛江寄席。場所は狛江エコルマホール。狛江の駅前だから、冷たい風が吹いても寒いってことはない。

 最近、柳亭市馬を聴いていない。あの声を聴きたいけど、新百合ヶ丘界隈ではやっていないからお預け状態だ。小田急沿線の狛江でやるのを知って、あわててチケットを買った。座席は後方しか空いてないが、致し方ない。

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 友人から、12月の浅草演芸ホールの市馬がすごく楽しかったとメールがきた。歳の瀬の噺といえば「掛取り」である。借金取りを気持ちよく追い返そうと知恵をしぼる。もともとは軽妙な三河万歳で掛取りを帰してしまうオチとなるが、市馬はこれを三橋美智也バージョンにした。これが大受けした。のどが自慢の市馬が歌うのだから拍手喝采となる。何回か聴いたことがある。

 これを美空ひばりバージョンにした。今回が初めてかどうかはわからないけど、なるほど、ひばりか。初めて聴いた友人は感動した。8曲、メロディで歌った。もういちど聴きたくなって翌日も出かけたという。

 すごい。わたしも聴きたい。今年の暮は、市馬を追っかけてみよう。

 で、今回の狛江寄席の演者と演目

 柳家三三   看板のピン

 ロケット団   漫才

 柳亭市馬   妾馬

 三三はこのあたりでやるときは、マクラは小田急線ネタになる。いくつかの面白い小噺を長めにやってから「看板のピン」。おなじみの軽い噺である。客席を盛り上げるのが上手い。きょうは、荒川のほか、全部で4席の掛け持ちだそうだ。売れっ子は忙しい。

 ロケット団の漫才は名人級である。M-1グランプリ優勝の連中と比べてみてもこちらの方がはるかに上である。時事ネタが多い。大谷と大仁田を繰り返して勘違いするネタが面白かった。

 で、トリの市馬。初場所が始まるということで、のどならしは、呼び出しの声、そして相撲甚句。これだけで、客席は大歓声となる。

  演目は「妾馬」。「八五郎出世」とも呼ばれるめでたい噺である。よく演じられる噺だが、市馬がやると一味ちがう。王道を行く芸である。

 いいひとときだった。今年の暮れは「掛取り」を聴きに行こう。うまくそうなるかはわからないけど。

 ついでのひとこと

 新年のラジオ深夜便の「ミッドナイトトーク」を聴こうとしたら、出演の柳家さん喬が体調不良のため、代わりに柳家喬太郎が出演した。喬太郎なら文句はない。

 

2026年1月 9日 (金)

ゴシゴシ、シャカシャカ シャコシャコ

 歯を磨く音はどう表現したらよいか。

 口にくわえるだけで歯が磨ける自動歯磨きが発売さるたとの新聞記事があった。毎日新聞の見出しは「ロボが歯をゴシゴシ」とあった。ゴシゴシには違和感がある

 ゴシゴシでは強すぎる、タワシで磨いているようなイメージ。歯の表面や歯茎を痛めてしまうのではないか。マンガで、シャカシャカとしていたのを読んだことがある。こっちのほうがよい。

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 わたしはちょっと高い練り歯磨きを使っている。茶渋のような汚れがとれると、歯科衛生士に勧められて試供品をもらった。ブランド名はアパガード。ステイン(よごれ)がとれるような気がする。あらためてドラッグストアで買った。これが1000円以上する。練歯磨きにしては高すぎる。でも、汚れがとれるなら、それほど高いわけではない。しばらくしてピカピカになった。きれいになったと歯科衛生士にほめられた。

 ということで、後期高齢者とは思われないほどの若々しい歯になっている。健康面でほめられるのは口の中だけだ。

 朝夜、気持ちよく磨いているわけだから、音はシャカシャカだろう。他のオノマトペをさがしてみたら、シャコシャコがあった。こちらのほうがいいか。優しく磨いているような感じがする。少女が磨いているような・・・。

2026年1月 7日 (水)

パスワード入力ができない

 クレジットカード決済でパスワード入力を求められることがある。

 入力画面が暗くて数字が分かりづらい機種がある。見にくい。パスワードが覗き見されないようにする配慮だろうけど、要らない。目が悪くなった年寄りへの配慮が足りない。いじわるだ。

 画面を明るくしてくれと言うが、できないとかやり方がわからないとの返事がくる。やり方を知らないだけだろうが、困ったものだ。顔を近づけ、ときにスマホの明かりをかざして入力する。次回までに明るくしといてね、と言って立ち去る。次回はたぶん明るくして置いてくれるだろう。

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 バリアフリーだの合理的配慮だのと言われているが、実際はなかなか進んでいない。

 階段に手すりはあっても劇場内の階段には手すりはない。掴まり棒を設置しているところがある。これはありがたい。どこもそうすればよいのに。

 新しい施設でも、必ずしもバリアフリーになっていない。動線がわるい。表示が小さい。たとえばトイレがどこにあるか、デザイン優先で、申し訳程度の小さな表示になっている。視力が弱い人やシニアの視点が欠けている。

 先日、コーヒーショップに入ろうと開閉ボタンを押したのだが、開かない。なんども押してみたがドアは開かない。しばらくすると、中にいた女性から、どうしたんですかと声を掛けられた。事情を話すと、開いてますよとの答え。驚いた。目が曇っていたのでドアが閉まっていたと勘違いしたのだ。

 そのくらい私の眼はわるくなっている。メガネを変えようか、変えてもなあと思うが、とりあえず、老眼鏡を新調した。

 新年早々、眼科医に行った。年末に行ったばかり。めんどうだけど、仕方がない。

 きょうは七草。市民館前の広場では七草粥をふるまうイベントが開かれた。写真はそこに展示してあった七草。麻生区の野山では七草が採れる。自然が残っている。

 七草粥ははっきり言って不味い。味わうのは遠慮した。

 

 

2026年1月 5日 (月)

「世界一不運なお針子の人生最悪な1日」

 ことし最初の映画はフレディ・マクドナルド監督の「世界一不運なお針子の人生最悪の1日」。アートセンターで観てきた。

 この監督、まだ二十代。学生時代につくった短編がコーエン兄弟に評価され、この映画をつくることになった。もちろんコーエン監督ファンである。といったことをチラシで知った。

 コーエン映画が好きなら、そりゃ、ぜひ観てみたい。タイトルの「不運なお針子」から女性向きのけなげな女の子の物語を連想したら、たぶんそれは間違い、コーエン流のブラックなサスペンスに仕上がっているに違いない。もちろんユーモアも。以上が、観る前の予想。

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 主人公のバーバラはスイスの田舎町でお針子をしている。店に戻る途中で、麻薬取引の現場に出遭う。売人たちは血まみれで倒れている。白い粉が入った紙袋と拳銃も転がっている。そして大金の入ったトランク。

 バーバラには三つの選択肢があった。金や拳銃を横取ってしまうか、警察に通報するか、それとも見て見ぬふりをするか。三つのチョイス。選択の物語である。

 それぞれの選択が描かれる。さて、どうなるか。

 お針子の裁縫箱には、糸や針、そしてハサミなどが入っている。これらの小道具が活躍する。登場人物はクセモノである。まともな人間は登場しない。このあたりがいかにもコーエン風である。ちょっと笑えるが、ユーモアはいまひとつ足りないような気もするが、ま、気にするほどのことはない。

 いびきをかく客がいた。期待した内容ではなかったんだろうな。

 繰り返すが、けなげな乙女の純情物語ではない。クライムサスペンス、コーエンタッチを楽しむ映画である。

 わたしの好みは、悪意をユーモアで包んだような映画や小説である。

2026年1月 3日 (土)

ドッペルと粗忽長屋

  落第(留年)することをドッペると言う。学生のころ、よく使った。いまどきの学生が使うかどうかはわからない。落ちる、下降するといった意味だと思ってきた。

 ここ数年、ドッペルゲンガーということばを聞くようになった。留年のドッペるとは関係あるのか。たぶん、その派生語だろうと理解した。ところが、意味を調べてみると違う、

自分と同じ姿形の人物を見ること。自己像幻視。また、同時の場所で目撃される同一人物。」と新明解国語辞典にある。全然違う。語源的にも違うようだが、よくわからない。

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  すこし考えてみた。ドッペルには二重という意味もある。落第なら二度同じ学年を繰り返すから二重。ああ、そうか、ドッペルとは英語だとダブルになる。ドッペルゲンガーは、自分自身に出会う、自分が幻覚的にあらわれることをいうのだから、二重、ダブルとなる。わたしは経験したことがないけど、そういう精神作用を言う。

  ここで、一転して落語のはなし。「粗忽長屋」という有名な噺がある。仲間から、お前の行き倒れの死体があるから引き取りに行けと言われる。わけがわからないけど、行ってみて、遺体を見ると確かに自分のようだ。遺体を抱き上げ、「確かにお前は俺だけど、抱いてる俺はいったい誰なんだろう」というのがオチ。ちょっとシュール。見事なオチである。

  そんなことを思い出した。これもドッペルゲンガーの一種じゃないかと、精神学者に訊いてみたい。どのように解説してくれるのだろうか。

2026年1月 1日 (木)

あけましておめでとうございます。

 元旦は初詣。近所の十二神社に出かけた。現在の場所に移転してどのくらいになるのか、ピカピカだった社殿も落ち着いた風合いになってきた。

 鈴緒は、正月は縛られて鳴らすことはできない。無粋だが、参拝者の回転を考えれば。こういう手もある。9時前だったので参拝客は少なかった。

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 賽銭を投げ入れ、昨年の無事を感謝する。目が悪くなり、老化は進むばかりだが、さしあたって足腰に問題はない。家族も元気だ。

 家では、録画した番組を観る。「ドキュメント72時間」の年末スペシャル。普通の人の暮らしぶりや生き方に少し感動する。この少しがよい。

今夜から3日間、「TBS落語研究会」がある。ビデオ予約した。明日から、少しずつ聴く。駅伝よりこっちだな。

 それと、もう一本。映画祭のボランティア仲間から、NHKEテレで映画「小学校~それは小さな社会~」をやるから観て! との連絡があった。知らない映画。これも予約録画した。

 ということで、この数日はビデオ三昧(というほどではないけれど)になる。コーヒーショップで読書もいいけれど、目が悪くなったので長い読書はムリ。ぼんやりするだけだけどね。

 

 

2025年12月30日 (火)

「石炭の値打ち」

 ことし最後の映画はケン・ローチ監督の「石炭の値打ち」。ケン・ローチ監督ファンは多い。アートセンターの客席はほぼ埋まった。

 50年近く前の1977年、テレビ用に制作した映画である。上映時間は168分。途中休憩がある。今どきの映画からするとそれほど長いわけじゃないけど、年寄りにはトイレタイムがあるのはありがたい。

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 舞台はイギリス、南ヨークシアの炭鉱。炭鉱ものといえば、落盤事故とか閉鎖による労働争議がテーマになるものが多い。今回の「石炭の値打ち」は二部構成となっており、二部が落盤事故を扱っている。

 一部は、1976年、チャールズ皇太子が視察に訪れたときの話。なにせ皇室メンバーを招くのだから準備は大変である。炭鉱労働者は経営者を冷ややかに眺めたりするだけだが、経営側は大わらわとなる。花を植えたり、ごみの始末をしたり、ペンキを塗ったり、修繕をしたりする。ちょっと笑えるが、いずこもそんなものか。そうした姿を淡々と描いている。

 二部は、落盤事故そのもの。爆発が起き。8人が坑内に取り残される。安否不明。懸命の救出作業が始まる。幹部社員、救助隊、家族の動きを映し出す。

 一部も二部もドラマチックには描かない。非常事態であるけれど、救出劇を感動的には映し出さない。静かである。このあたりが、ケン・ローチ風。

  労働者をみつめるまなざしが優しい。経営者側の人間も悪役にしてはいない。そほあたりの視点がケン・ローチの持ち味だとあらためて感じさせてくれる;

 ついでのひとこと

 ケン・ローチの名が知られるようになったのは、アイルランドの内戦を描いた「麦の穂をゆらす風」以降である。それ以前も多くの映画をつくってきたが、日本ではあまり知られていない。

 川崎市ミュージアムでは初期のケン・ローチ作品を収集してきた。ときどき上映会を開いていた。わたしはそれをいくつか観てきてきた。それが2019年の台風で水没してしまった。ダメになったのか修復可能かどうかはわからない。

2025年12月28日 (日)

 捨て鉢になるにはあまりにも・・・

 自暴自棄になることを「捨て鉢になる」という。投げやり、破れかぶれと同類である。にっちもさっちもいかなくなってどうにでもなれというという気持ちを表す。

 なぜ、鉢を捨てるのだろうかと、疑問が浮かんだ。調べてみると、いくつかいわれがある。

 修行僧が托鉢につかう鉢を捨てることからきているという。厳しい修業をギブアップしてしまう。

 もうひとつは、鉢は果つが変化したもの、やけっぱちのぱちと同じ。これに捨てるがついて、意味を強めた。

 ふーん、そうかと半分納得するが、半分は腹に嵌まらない。

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 こんどは、チャットGPTに訊いてみる。

 捨鉢(シャハチ ステバチ)。修行僧が食べ物も命への執着さえ捨て、もはや托鉢の鉢すら不要と覚悟する境地。

  がけっぷちに立つ、究極の覚悟を意味している。こちらのほうが深い。説得力がある。

 それが、やけっぱちになるまでには、かなりの飛躍があると思うが、そのあたりはよくわからない。

すてばちになるには余りにも明るすぎる」という歌謡曲の一節を思い浮べる。タイトルは「銀座の雀」。森繁久彌や加藤登紀子が歌った。

 この歌、捨て鉢になるなと歌う。「赤いネオンのあかりさえ 明日の望みにまたたくのさ」と。希望を持とう、ということだ。

2025年12月26日 (金)

「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ」

 年末は暇だ。会合も忘年会も終わり、大掃除ぐらいだろうが、大した掃除はしない。年賀状書きも止めた。

 となると、映画。正月映画は暮れの内に観ることになる。

 さして興味はないのだが、かといって見逃すのも面白くない。「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ」を観てきた、ジェームス・キャメロン監督は「アバター」に賭けているように力を注いでいる。

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 蒼い肌の先住民ナヴィが暮らす星パンドラに、地下資源を求めて地球人が襲撃するというストーリー。地球軍は人間とナヴィのアバターを作って潜入させる。荒唐無稽な話だが、展開は単純、原住民と侵略者との闘いである。

 上映時間は長い。3時間半近い197分。先に観た「女性の休日」は71分だから2時間違う。1時間ぐらいカットできるとおもうが、眠くはならなかった。みどころは最後の30分。激しい戦いが続く。地球軍はノルマンディ上陸作戦のような大量の兵器で襲う。ナヴィは海洋生物、怪獣にまたがって迎え撃つ。これが迫力がある。CGを駆使した画面は流れるように美しい。このシーンだけでも、観る価値がある。すげえ、のひとこと。

 ハリウッド映画の常道となるが、家族愛、家族の絆を押し出している。そのあたりは、わたしなどうんざりするのだが、ま、文句を言うほどではない。家族愛は、そうありたい理想でもあるのだから。

 

2025年12月24日 (水)

「女性の休日」

 ある女性に「御主人はいかがされてますか」と問うと、「あれは主人ではありません。パートナーです」ときっぱり返された。しばし絶句。「パートナーですか、たいへん失礼しました」とかろうじて答えた。そうか、そうなのかと、男女平等なのだと、わずかばかり納得した。

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 アートセンターで「女性の休日」を観てきた。アイスランドはジェンダー平等先進国である。それがどのように実現されたかを描いたドキュメンタリーである。

 客席は8割が埋まった。ほとんど女性。男性は10人もいない。ま、そうだろうと納得する。

 1975年にさかのぼる。アイスランドはその他のヨーロッパの国と同様に男女差別の国だった。家事は女の仕事とされ、仕事の現場でも差別され、低賃金だった。

 この現状を打破しようと女性たちは異議をとなえるようになった。強硬派はストライキを主張したが、多くはそれに反対した。ストライキでは人は集まらない。多くの人が参加できるよう休むこと、休日をとることを選択した。集会に参加するか、話し合いの場をもつとか、ゆるやかな運動にした。

 10月24日が実行日となった。夫は戸惑いつつもパートナーの休日を受け入れた。皿洗いをするとか子供の世話をするとか、あるいは仕事の現場に赤ん坊を連れて行くとか。90パーセントの女性が運動に参加した。工場や公共機関の機能はストップした。

 この日をきっかけに、女性の地位向上とか新たな働き方の取り組みが始まった。映画は、その後の改革を紹介している。それほどうまくいったのかと疑問もわくのだが、結果として男女平等は進んだ。

 この映画からアリストパネスの「女の平和」を連想した。女性のセックスストライキというかサボタージュが、夫たちの、アテナイとスパルタの戦いを収めたというギリシャ喜劇である。映画評をいくつか目にしたが、「女の平和」に言及するものはなかった。

 ふーん、この国の文化度は低い。だから、と言いたいこともあるが止めておく。

2025年12月22日 (月)

ダイキチー KOMEHYO

 買取りの新聞折り込みが目立つ。テレビCMでもイッコーの「ダイキチー」がうるさい。あれで、商売になるのかと、疑問に思っていたのだが、実際にはちゃんとしたビジネスになっていることを知った。

 一週間ほど前の日経新聞が、中古市場は91兆円という記事をのせていた。中古のブランドバックや高級時計のビジネスが広がっている。海外から客がたくさん押し寄せている。

 日本の中古品に偽ブランドはほとんどない。新品同様に手入れされている。爆買いというほどではなかろうが、値が張るから結構な市場規模になる。

 メイド・イン・ジャパンではなく、ユースト・イン・ジャパンなのだ。

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 中古品というと、コメ兵を思い出す。古着ショップである。名古屋の大須、大須演芸場のちかくにコメ兵があった。むかしはダサい古着ショップだった。いらんものはコメ兵へがキャッチフレーズだった。それが東京に進出し、垢抜けした店構えの店に変身した。

 新聞チラシもおしゃれ。店名はKOMEHYO。50年以上前のコメ兵を知っている人間には驚きである。

 私の頭の中を、戦後の、70年ぐらい前の大須観音界隈の賑わいがクルクル回っている。

 

 

2025年12月20日 (土)

「エディントンへようこそ」

 2020年5月を思い出すと、気分が重くなる。非常事態だか緊急事態が宣言され、移動が制限されたり、施設が閉鎖されたりした。病院への見舞いもできなかった。ひどかった。のちに中国はゼロコロナ政策をとった。あれよりはマシだったけど、いくらパンテミックとはいえ、もっと冷静な対応があってもよかった。世の中が異常なパニックの中にいた。

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エディントンへようこそ」を観てきた。2020年5月のアメリカ西部の田舎町を舞台にした映画だ。

 エディントン市長とジョー保安官(ホアン・フェニックス)はマスクをするかしないかで対立する。保安官は市長選挙に立候補する。市は他の問題でも揺れている。警官による黒人男性圧殺事件により「ブラック・ライブズ・マター」運動が広がっていた。

 ジョーは権威をもって対処する。ところが家庭となると、妻は精神が不安定な状態にあり、妻の母親も陰謀論にとらわれている。近隣住民も悩ましい。ジョーの行動を撮影し、SNSで拡散する。そうこうしているうちに、市長とその息子が射殺される。犯人は?

 後半となるとよくわからない。あやしい人物が見え隠れする。ジョー保安官の混乱もある。どどっと混沌とした世界となる。そして、ジョー保安官は発熱し、咳が止まらなくなる。映像は現実なのか、ジョーの幻覚なのか。

 もういちど観てみないとわからないのか、観てもわからないのか、わからない。

 ことの大小はあるが、あの数年はみな世界中が精神を病んでいた。陰鬱としたナーバスな空気が支配していた。おかしな時代だった。

2025年12月18日 (木)

「落語家の業」

 快楽亭ブラックという落語家がいる。寄席には出ない、テレビにも出ないから知名度は低い。出ないというより、出禁である。一部のマニアックなファンによって支えられている。

 かつて、ギャンブルで2000万ほどの借金が露見して、師匠・立川談志の逆鱗に触れ、立川流を追い出された。弟子にも借金をさせて返済に走るようなこともあった。それが薄暗い路地裏に生息する小動物のように生き延びてきた。

 言ってみれば、路地裏芸人、地下芸人である。

 もともと、落語はうまい。その芸に惹かれるファンも多い。路地裏ではコンプライアンスは緩い。毒舌を吐きながら笑いを取ってきた。

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 その快楽亭ブラックをとりあげたドキュメンタリー映画「落語家の業」が上映されている。ユーロスペースまで出かけて観てきた。ばかばかしくて面白かった。

 こまかなことは省く。名古屋の大須演芸場が差し押さえになった事件がある。それにブラックは絡んでいる。このエピソードが映画の見どころである。税務署の執行官による強制執行の直前、高座にあがり、実況中継をした。このシーンは以前、ネットでみたことがある。鈴々舎馬るこがビデオを回した。念のため言っておくが滞納したのは席亭であってブラックではない。ブラックは面白がって高座にあがった。執行官の真剣な顔つきが可笑しかった。こういうのを笑いにしてしまうのが、ブラックの芸風である。

 大病をしたがまだ生きている。路地裏の小さな寄席で、テレビでは見せられないような落語を演じている。

 上映がおわると、めずらしく拍手と笑いが起きた。

2025年12月16日 (火)

セイノカミ 屋根吹替

 セイノカミは地域によって呼び名がちがうが、道路ばたに置かれた石像である。道祖神のひとつ。岡上にあるセイノカミの石像の屋根を吹き替えるというので、行ってみた。

 岡上では、どんど焼きをセイノカミと読んできた。石像は、辻とよばれる交差点の脇に置かれており、その近くでどんと焼きが行われてきた。それで、どんと焼きもセイノカミと呼ばれるようになったものと考えられる。地域によって謂われはあるようだが。

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 写真は吹き替え前のもの。去年の12月に吹きかられたもので屋根の藁は茶色になっている。もともとは五輪塔だったが、それが崩れて路ばたに置かれていた。それを横にしたまま祀ったもので、それに屋根が葺かれるようになった。

 引き換え作業は簡単。藁や支える柱もとっぱらう。新しい柱で支えをつくり、藁で屋根をつくる。手順は簡単だけど、けっこう手間がかかる。

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 わたしは途中で失礼した。

 岡上、川井田地区のどんど焼きは1月24日午後3時、和光大学前のたんぼで行われる。諸事情あって、ここでのどんど焼きは、最後になるかもしれない。ぜひお出かけいただき、どんど焼けを楽しんでもらいたい。

2025年12月14日 (日)

鶴川落語 正蔵・喬太郎

 ここ数日、ひどく寒い。風が冷たい。木枯らしとはこういうものか、夏の長い猛暑で忘れてしまっていた。温かくして出かけたが、手袋の指先から凍えていく。ホカロンを持ってくればよかった。

 鶴川落語。今回は林家正蔵、柳家喬太郎二人会。人気の噺家だからチケットは早々に完売となった。どんな演目になるか。年末だから、「芝浜」とか「掛取り」が定番となるが、ま、やらないだろうな。

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 今回の演目

  正蔵    雛鍔

  喬太郎  紙入れ

  喬太郎  時そば

  正蔵   浜野矩隋

 鶴川での喬太郎のマクラは、決まって箱根そばネタである。箱根そばは小田急沿線にある立ち食いそば屋。ここのコロッケ(カレーコロッケ)をかけそばに乗せる。この組み合わせがいい。タマゴでもかき揚げでもない、トッピングの意外な組み合わせを語る。何度も聞いた。マンネリだけど、ま、いいか。喬太郎自身は箱根そばより、小諸そばの方が好みらしいが・・・。

 そこから、すんなり「時そば」に入った。喬太郎らしいひねりがあるかと思ったが、古典噺どおりの展開、オチとなった。

 正蔵は「浜野矩隋」。先々代の円楽が得意としていた。現在よく演じられるかどうかは知らない。たまに聴くことがあるからそこそこにはやられているのだろう。

 腰元彫りの彫師の噺である。矩隋が名人と言われるまでになるかを描く。父親に負けないほどの彫りの技術を身に着けるが、その前に母親は自ら命を絶ってしまう。

 ちょいとトリビアな話題となってしまうが、母が死ぬのはかわいそうだと死なせないストーリーもある。こっちの方が多いやり方が多くなっているような気もする。

 正蔵は、簡単に命を絶つストーリーとしている。本来のやり方である。悲劇的な雰囲気はなかった。悲しくもない。正蔵のホンワカしたキャラがストーリーをやわらげているのだろう、持ち味である。

 ところで、今回、「マッテマシタ」とか「タップリ」と声をあげる客がいた。やたら声をあげる。うるさいほど。

 やめてもらいたい。一回で十分。励ましの掛け声になっていないことが、わからんのかねえ。

 

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