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 桂文珍独演会

 桂文珍独演会に行ってきた。新百合ヶ丘では毎年やっている。今年で18回目になるという。ながく続いているわけで。来年も1月にやるというチラシを渡された。

 弟子の桂楽珍が開口一番を務めた。座布団返しもやる。若くはない。貫禄十分。63歳だそうだ。

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 文珍師匠の今回の演目。

 ぴ~

 富久

 七度狐

ぴ~」は、不都合な発言を消すあの音のこと。ギャグをつなぎ合わせた小噺アラカルトであって、ストーリーはない。こういうギャグは文珍の得意とするところである。

富久」はおなじみの古典噺。最近やるようになったそうだ。

トリネタは「七度狐」。上方の噺で、関東ではそれほど聴く機会はない。以前、テレビの落語番組で聴いたことがある。ライブでは初めて。

 二人連れの旅人が茶屋で失敬した木の芽和えの鉢を草むらに放り投げると、鉢はそこに寝ていた狐の頭にあたってしまう。狐は怒って仕返しをする。旅人を化かすという噺である。一回やられたら七度化かすという執念深い狐で、旅人は散々な目に遭うことになる。

 この噺には三味線、太鼓といった鳴り物が入る。それがふつうらしい。にぎやかな高座になるわけで、大看板にふさわしい演目と言える。

 ということで、愉快なひとときとなった。客席はほとんど後期高齢者だった。女性が多い。

 老婆はいつも休みである。老婆の休日

2025年2月13日 (木)

「ブラックバード、ブラックベリー、私は私」

  上映ぎりぎりとなって、ジョージアの「ブラックバード、ブラックベリー、私は私」をアートセンターで観てきた。

 ちょっと笑える、カリウスマキタッチの映画である。原作は女性、監督も女性、主人公も女性であるけれど、ことさらフェミニズムを強調した映画ではない。

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 雑貨屋を営むエテロは48歳の独身。ブルーベリーを摘んだりして独り暮らしを楽しんでいる。ある日、配達に来た中年男と唐突に関係をもつ。処女喪失。むろん秘密である。最近疲れると言うと、村の女たちは太 りすぎだの更年期障害だのと口さががない。配達員の男との関係は続くが、結婚する意志はない。愛ということばに騙されない、自由に生きていきたいと思う。そんなエテロだが、からだに異変を感じる。子宮がんを疑い、大きな街の病院で診断を受けることになる。

 といったストーリー。私は私といった毅然とした姿が印象深い。ラストのどんでん返しのようなような展開に驚く。ユーモラス。なるほど、そうくるか。いい結末である。

 ついでのひとこと 日本アカデミー賞候補作

 日本アカデミー賞の優秀作品が発表された。最優秀賞のノミネートである。

「キングダム 大将軍の帰還」「侍タイムスリッパー」「正体」「夜明けのすべて」「ラストマイル」の5作品。「キングダム」は観ていない。この中では地味だが「夜明けのすべて」がよかった。原作も読んだ。

 外国作品賞は「哀れなるものたち」「オッペンハイマー」「関心領域」「シビル・ウォー アメリカ最後の日」「花嫁はどこへ?」の5作品。「花嫁」は観ていない。この中なら「シビル・ウォー」がよかった。「哀れなるものたち」もよい。それより「夜の外側」がなぜ入っていないのか。「人間の境界」もリストアップされてもよい。「関心領域」よりこっちだな。

2025年2月11日 (火)

「夏の庭 The Friends」

 相米慎二監督が亡くなったのは2001年、20年以上前になる。いまだ相米作品を熱く語る人は多い。海外での評価も広がっている。いくつかは4Kリマスター版ととなっている。

  そのデジタル化された「夏の庭 The Friends」をアートセンターで観てきた。30年ほど前、1994の作品である。

 この映画をわたしは観ていない。あのころは仕事で忙しかったので見逃した名作は多い。原作は、通勤電車の中で揺られながら読んだ記憶がある。

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 小学生の三人が、死に興味を持ち始める。死ぬとはどういうことか、人はどんなふうに死ぬのかといった疑問を抱く。近くの一軒家に住むおじいさんがもうすぐ死にそうだという声を耳にし、その家を見張ることにする。夏休み、サッカーの練習の合間に家を覗く。日々の行動を追う。最初は、見つかって追いたてられたりするが、そのうち、おじいさんの家に招かれるようになる。そして、荒れ果てた庭の草を抜き、花を植えたりするようになる。

 おじいさんから、戦争体験や家族のことなどを聴いたりする。

 おじいさん役は三国連太郎。共演者は、戸田菜穂淡島千景。ちょい役で鶴瓶、江本明なども出ている。

 相米監督作品には子役が多く登場する。子供のつかいかたがうまいと言われる。大の子供好きと思われるが、相米監督の弟子である足立紳は意外なことを語っている。映画の現場では子供たちとうまくいっていないというか、コミュニケーション不全のところがあった、と。

 子供たちとの会話がうまくいかない。ところが、撮影となるとそれなりの指示をして、できあがってみれば上手く子供たちの演技を引き出していた。

 そういうものなのか。クレーのカメラから俯瞰したショットが多い。子供たちは駆ける。走り回る。あらためて相米イズムを感じた。

 ついでのひとこと

 日本映画大学の卒業制作映画の上映会がイオンシネマであった。新百合ヶ丘ならではのイベントである。5本の短編(ドラマ2本、ドキュメンタリー3本)が上映された。驚いたのは、ドキュメンタリーの監督は全部中国からの留学生であった。二本は中国が舞台になる。

 映画大学の学生の半分以上は留学生だと聞いていたが、まさにそれを裏付けるような上映会となっていた。レベルは高い。卒業生は日本に残るか帰国するか知らないけど、どこでもきちんとした映画づくりができるんじゃないかな。基礎はしっかり身につけている。

 

2025年2月 9日 (日)

『癲狂院日乗』

  車谷長吉が亡くなって10年がたつ。

  車谷長吉の本を好んで読んできた。ゆっくりした流れの中を漂っているような気分になる。中身は、率直。露悪的であったりする。恨み辛みも平然と書いているところがおもしろい。

癲狂院日乗』を読んだ。昨年出版されたものだ。「日乗」とあるように日記である。公開を前提として書かれたものだが、書かれては困る人いる。とりわけ嘆き悲しむのは叔母。著者が亡くなり十年がたち、その叔母も亡くなったので出版に踏み切ったと、連れ合いの高橋順子があとがきに記している。差しさわりのある編集者なども一部を記号にしている。

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 平成10年4月から始まっている。強迫神経症に悩まされている。妻とは仲がよい。「順子ちゃんがいないので淋しい」と書いたりしている。ほぼ1年にわたっての日記である。

 面白いのは伊藤整文学賞を辞退した経緯。ただ伊藤整が嫌いだっただけ。賞金の壱百萬を棒に振る。意地っ張りなのだ。

 この年、『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞を受賞する。こちらは素直に、というか喜んで受ける。そして直木賞バブルとでも言うべき日乗が続く。

 作家は犬、編輯者に追い立てられたり、餌をあたえたり、食わせてもらったり、出版社の飼い犬なのだと嘆く。笑える。

「日乗」というと永井荷風の『断腸亭日乗』がある。あれより断然、おもしろい。車谷を知らない人にも奨めたい。

2025年2月 7日 (金)

嘔吐と点眼

 嘔吐した。久しぶりのことだ。昼に食べた鶏肉がザラザラ、貝の実に砂が混じったような味わいだった。おかしい。それから30分後に吐いた。食あたりなのか、わからない。

 映画を観るのをやめて、家でひっくり返っていた。気分は悪く、その夜は何も食べずに寝た。翌日、気分はいくぶん回復したが、胃のあたりが重い。腹は減っている。でも、あまり食べたくない。きな粉入りのヨーグルトを胃におさめた。体重が2キロ近く減っていた。

 4日後、目の治療をした。網膜の黄斑部分にステロイドを注入するものだ。1年半前、黄斑変性の手術をした。しかし視力は回復しなかった。眼底が腫れているのでその部分を鎮める注射なのだが、回復の見込みは少ないと眼科医は言う。ならばやらない方がよい。でも、かすかな期待で注射してもらった。

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 注射だから短時間でおわる。でも、感染予防が必要なので、事前事後の抗生物質の点眼をする。一日4回、朝昼晩夜。私の場合、緑内障で3種の点眼をしているので、点眼はややこしいし、面倒だ。間違えないかと聞かれるが、ま、たまに間違える。忘れることもある。

 結果は、わずかに改善したように思うが、期待通りではない。しばらくすれば元に戻ってしまうだろう。齢だからと、あきらめるしかない。

 映画館などには足元に注意して行くことになる。本も大きな活字のものにする。耳で聴く本のサイトもあるが、こちらは読みたいものがない。

 NHKの「らじるらじる」を聴くことが多くなった。

 

2025年2月 5日 (水)

 孤独か連帯か

 新型コロナウイルスが発生して中国の武漢は都市封鎖された。あれから5年たった。都市封鎖と聞き、カミユの『ペスト』に注目が集まった。パンデミックで封鎖された都市での物語である。文庫本は版を重ね、出版界はカミユブームとなった。

 その後、カミユへの関心は静まり、知る限りでは、新潮社の月刊誌「波」に内田樹の「カミユ論」が連載されている程度である。

 わたしは若い頃からカミユを読んできた。それなりの意見を有している。と言いたいところだが、なにせ昔のことだから忘れてしまっているし、抜けも多い。

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 カミユの短編で、孤独と連帯をテーマにしたものがあった。なかなか興味深いものだった。ところが題名を思い出せないのだ。あれ、なんだっけ。絵描きが倒れ、カンバスには小さな字で走り書きがあった。書いてあったのは、孤独なのか連帯なのか判読できなかったといったあらすじ。

 日本語だとずいぶん違うが、フランス語だと、Solitaire(孤独)Solidaire(連帯)。一文字違うだけなのだ。意味は真反対。

 それがなんという短編なのかわかった。『転落・追放と王国』のなかの「ヨナ」。30ページほど。ヨナは、画家として順調、家庭は幸せだったが、なんとなく行き詰まりを感じていた。周りに感謝しつつも不安をだった。

 そして、倒れて意識不明となる。私は死んだと思っていたが、死んだわけではない。そこまでは書いてない。

 若いころは、こういう文章に惹かれる。ちょっとかっこいいとも思う。

 といったことと少しずれるが、かねてより次のような問いを考えている。

 世の中は不条理だ、生きる意味はない。〇〇〇 生きていく。

 この〇〇〇のなかに適切な接続詞(接続表現)を入れよ。

 ふつうなら、「だけど」ぐらいなる。私は「だから」としたい。

 なぜそうしたいのか。ここでは詳細は書かない。カミユなら「だから」と答えるのではないかと想像するのだ。カミユを読んだ人は理解してくれるのではないか。

2025年2月 3日 (月)

「リアル・ペイン」

 6年前、ポーランドに行った。ワルシャワと南部のクラフクを巡る一週間ほどのツアー。アウシュビッツは心に重かった。が、総じて楽しい旅行だった。

リアル・ペイン~心の旅~」をイオンシネマで観てきた。ポーランド旅行の話である。アメリカに住むデビットとベンジーはいとこ同士。30代。亡くなった祖母のふるさとを訪ねる目的でポーランドツアーに参加する。

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 デビットは妻と子と幸せな家庭を築いている。まじめな若者だ。一方、ベンジーは独身。陽気で自由奔放な生き方をしている。デビットはベンジーに振り回されることはあるが、仲はよい。上映5分ぐらいで二人の性格はわかる。

 ワルシャワでツアーメンバーと合流する。ガイドはイギリス人。老夫婦、未亡人、そしてルワンダの青年。ルワンダの大虐殺事件を体験し、のちにユダヤ教に入信した。

 列車で南に向かう。ベンジーは一等車に乗ることが気に入らない。強制収容所にいくのに豪華な列車に乗るのは抵抗がある言い、別車両に移ってしまう。デビットは仕方なしにベンシーにつきあう。ところが寝過ごしてしまう。あわてて降りて、反対車線の列車でもどる。なんとか無事ツアーメンバーと巡り会うことができた。

デビットはガイドに文句を言うシーンがある。史跡もいいが、そこに住む人たちの声が聞こえないとかクレームをつける。ガイドは困惑する。

 強制収容所跡地はアウシュビッツではない。別の場所。ここで亡くなったユダヤ人たちに思いを馳せる。ことば少なになる。気分は重い。リアル・ペイン、心に刺さる。

 その後、メンバーと別れ、祖母が住んでいた住居に向かう。

 車窓には広大な麦畑が広がる。この畑は国の東側にあるウクライナにつながっている。ウクライナでも同じような光景だろうと想像できる。しかしロシアの話題は出てこなかった。

 流れるのはショパンのピアノ曲。しょっちゅう聴こえる。日本人の耳に馴染んだ曲が多い。ショパンといえばポーランド、ポーランドといえばショパン、である。

 監督・脚本はデビットを演じたジェシー・アイゼンバーク。ベンジーを演じたキーラン・カルキンの情緒不安定な演技が印象的。「ホーム・アローン」の主役の坊や、マーコレー・カルキンの弟だそうだ。

2025年2月 1日 (土)

「オークション 盗まれたエゴン・シーレ」

 黄斑変性の手術を受けて1年半になる。歪みは8割方なくなった。2割は残っている。手術としては成功なんだろうが、視力は回復しない。眼底がでこぼこになっている。片目では新聞が読めない。見出しも読めなくなった。老化といえばそれまでだが、やっかいなことだ。

 昔の仲間と会食した折り、黄斑変性による歪みをエゴン・シーレの絵のようだと説明した。エゴン・シーレって誰か、だれも知らなかった。おまえら、絵画の教養はないのかと、毒づいてやった。スマホで、エゴン・シーレ 自画像、と入れてみれば、最初にヒットする絵がそれ。斜めからの画像だが、片目だけ大きい。これに鼻の下を異様に長くすると変形した画像になる。あるいは、クレヨンしんちゃんのママ・みさえ。大きな片目だけのイラストを想像してみていただきたい。そんなふうに見える。

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 で、話は変わって、映画。アートセンターで「オークション 盗まれたエゴン・シーレ」を観てきた。かつてナチスに奪われ行方知れずとなっていたエゴン・シーレの絵がみつかり、オークションにかけられるという内容である。

 エゴン・シーレの絵は「ひまわり」。ゴッホの「ひまわり」に触発され描いたとされるが、SOMPO美術館に展示されている「ひまわり」とはまったく異なる。ゴッホはひまわりをたくさん描いているからどのひまわりに触発されたのかはわからない。以前、オランダでたくさんのゴッホの絵をみた。ひまわりだけでも20以上あったような気がする。枯れたひまわりが多かった。

 映画は、労働者のアパートでエゴン・シーレの「ひまわり」が見つかったところから始まる。ナチスに奪われ、ながく行方がわからなくなっていたものだ。

  パリのオークションハウスで働く競売人のマッソンは鑑定を依頼され、元妻とともに労働者のアパートを訪ねる。贋作ではない。以前、そこに住んでいた家族が所有していたもののようだ。ナチスが奪ったものが、戦後、その住民の手に渡った。所有者はすでに亡くなり、遺族はアメリカに移り住んでいることがわかる。その労働者は、所有権を主張せず、前の所有者の遺族に譲りたいと言う。あれこれあって、マッソンはオークションにかけるところまでたどり着く。

 オークションなら欲の塊のような人物ばかり集まる。最初に見つけた労働者は幾分かの分け前を主張することができるが、無欲であり恬淡としている。無欲と強欲の対比が面白い。ついでに言うと、私も欲はない。欲はむかしに捨てた。

 サブタイトルにエゴン・シーレとあるが、代表作の「自画像」も「哀しみの女」も出てこない。

 

2025年1月30日 (木)

「雪の花」

 松坂桃李主演の「雪の花  ともに在りて」をイオンシネマで観てきた。

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 江戸時代の末期、福井藩でも天然痘が流行っていた。町医者の笠原(松坂桃李)は治療にあたっていたが治癒させることはできなかった。京都の蘭方医から、西洋では、種痘という予防接種で感染を防いでいるとのことを聞く。最新の医学であるが、それを行うには西洋から種痘の苗を取り寄せる必要がある。笠原は藩主や幕府の許可をえなければばらない。苗の入手に奔走し、ようやく許可を得ることができた。

 このあたりの史実は本で読んだことがある。映画はわかりやすい。説明的でもある。だけど、NHKの歴史ドキュメンタリー番組の再現フィルムを観ているようで、映画的なわくわく感はない。

 後半、牛痘のウミを子供に植え付けるなどとんでもないと抵抗があったり、子供を冬の山越えをさせなければならないなどの波乱がある。でも、ま、展開はわかっているので、ハラハラ感もない。登場人物は控え目で、礼儀正しい。ま、そうなんだろうけど。

 この映画のいいところは音楽である。気持ちよい。エンドロールで加古隆とあった。なるほどと納得。

2025年1月28日 (火)

「敵」

 筒井康隆は90歳になった。寄る年波には勝てず、妻ともども老人ホームに入った。老人ホームは超高級。介護は手厚いし、食事もよい。が、それだけではものたりない。外出ツアーで豪華な中華料理に舌鼓をうつ。食べる量は減ったが。食欲はある。健啖。 そんな近況を新潮社の雑誌「波」に書いている。

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 筒井康隆原作の「」を、テアトル新宿まで出かけ観てきた。監督は吉田大八。原作は30年近く前の書かれたもの。私は読んでいない。

 フランス文学の教授であった渡辺儀助(長塚京三)は妻を亡くし、独り暮らしをしている。朝食もきちんと作って食べ、豆を挽きコーヒーを飲む。歯磨きも怠りない。掃除洗濯もこなしている。金銭管理も問題ない。死ぬまでの収支計算も出来ている。たまにバーにでかけ、かつての教え子たちと飲む。家にも編集者や教え子がやってくる。前半は、老後としては理想的な姿が描かれる。

 これが崩れていく。現実と幻想が交錯するようになる。性的妄想もあって、亡き妻があらわれ、儀助の言動をなじったりする。

 さらに、よくわからぬ敵の襲撃を恐れるようになる。敵は北から突然襲ってくるらしい。妄想か。認知症とひと括くりにすることもできるが、この妄想の描写がおもしろい。

 DIE WITH ZEROという考えがある。金銭面で言えば、すっからかんで死ぬ。貯金も借金もなし。貯えがあればそれを使い切って死ぬ。相続税などとんでもない。

 ということで、儀助はそんなふうに生き、死んでいくことができるのか。映画は最後まで映し出している。

 独居老人にはお薦めの映画だ。

 

 

2025年1月26日 (日)

「ザ・ニュースペーパー」

  ザ・ ニュースペーパーのライブに行ってきた。

  人気の社会風刺コント集団であるが、知らない人が多い。テレビに出ないから知名度は低い。しかし、推し活というか熱烈なファンもけっこういる。ライブを追っかけている。千人近く収容できる町田市民ホールはほぼ満席となった。

  テレビに出ないというより、テレビに出せないと言うべきか。テレビ局は風刺の過激さにたじろぎ、敬して遠ざける。

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 まず登場したのが松下アキラ演じるトランプさん。でたらめな発言で再登場を自慢する。暴走するトランプである。当然、石破さんも登場する。これが似ている。いじけたようなしゃべりで笑わせる。自虐ネタが多くなる。岸田さんはもともと似てなかったが、引退したせいかそれらしく元気にふるまう。こう書いてみても、どんな様子なのかうまく伝わらない。YOUTUBEでその一端を観ることができるから、そちらご覧いただきたい。

 WARUというグループの討論会のコントがある。プーチン、ネタニヤフ、金正恩、習近平のそっくりさんによるでたらめの会話。習さんはほとんどしゃべらない。

 おなじみの、ある高貴な一家のコントもあった。定番だった「朝まで生テレビ」のパロディコントはなかった。

 だらだら紹介したが、なんといっても出色は小泉純一郎のネタ。「私は鼻筋は通ってますが、話の筋は通っていません」というギャグはなかったけど、さすがの小泉さんである。こちらはテレビに登場したことがあるので、ご存じの方も多いと思う。

 寒い中、ばかばかしいコントを楽しんだ。

 ついでのひとこと

 開演前、携帯電話の電源を切れとか、ホール内での飲食はダメとかのアナウンスがある。最後に、後頭部をハンマーで殴らないでくださいと、付け加えた。軽いギャグだが、事件が起きたのは町田の法政大学。地元ネタということで、付け加えたのだろうか。

2025年1月24日 (金)

「室町無頼」

 応仁の乱の5年ほど前の一揆を描いている。応仁の乱はよくわからない史実で、だらだら十年以上続いた。それ以前から飢饉や疫病で京都の町は荒れており、幕府はタガが外れていた。

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大泉洋が演ずるのは兵衛という牢人(浪人)。苦しい庶民は金を借りて暮らしているが、金貸しの取り立ては厳しい。さらに苦境に追いやられている。兵衛は無頼漢ではあるけれど、なにかと庶民の面倒を見ており、評判が良い。さらに、かえると呼ばれる少年・才蔵に武術の修行をさせる。

 兵衛と対立するのは、京都の治安を任されている道賢(堤真一)。前半は、この対立と才蔵の修行の様子を描いている。

 後半は一揆のシーン。これが迫力がある。民衆が松明をかざし、徳政(借金棒引き)を求めて京の町におしかける。「一期は夢よ ただ狂え 天下を燃やせ」とアナーキーな叫び声をあげて踊る。のちの、ええじゃないかを彷彿させる。

 活劇部分は、サム・ペキンパーの西部劇を思わせる。さらにマカロニウエスタンのようでもある。エンリコ・モリコーネの音楽が響いてくるような雰囲気。ちょっとワクワクする。

 ということで、終盤の一揆のシーンが面白い。大画面じゃないと味わえない。スカッとする娯楽映画である。

2025年1月22日 (水)

「八起寄席」

 柳家権太楼が食道ガンの治療を受けていることを公表した。十数年前にも大病をした。ま、いい歳だからと括られてしまうが、はやく高座に復帰してもらいたい。

 TBSの落語研究会の高座を映した番組を正月三日間やっていた。そのビデオを観た。権太楼は「百年目」。圧巻の高座だった。

 相模大野に出かけて「八起寄席」を聴いてきた。新春は、4つの流派(協会)の幹事役が登場する。毎年、たのしみな落語会である。

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 今回の演者と演目

 瀧川鯉橋   蔵前駕籠  

 三遊亭兼好  雑俳

 古今亭文菊  鮑のし

 立川談修   紺屋高尾 

 鯉橋は軽く「蔵前駕籠」をやって、残り時間はお座敷芸。ものまね、形態模写である。羽織を裏返しに着て、手ぬぐい、扇子、座布団で、恵比寿や大黒のまね。めでたい芸である。最後は鶴。扇子をくちばしのように見せる。似ている。最後に鶴のひとこえ。上手いものだ。 

 いつも書いているから、兼好、文菊はとばして、トリの談修。「紺屋高尾」だった。紺屋の職人が花魁に惚れるというおなじみの噺。談修はいつものように細部まで丁寧に演じた。誠実でまじめ。噺家らしくないと言うと叱られるかもしれないけど、そういう持ち味である。

「紺屋高尾」と似たような噺に「幾代餅」がある。骨格は同じ。どうちがうのかよくわからない。一方は紺屋、もう一方は搗き米屋の職人。なれそめが異なる。花魁の年期があけるのは来年の3月。もう一方は3月15日と日にちまで細かい。深いところで根本的な違いがあるのかもしれないけど、しろうとにはわからない。どうでもいいけど、気になると言えば気になる。

 冒頭の権太楼、わたしより学年は一つ上。きょうの演者からすれば父親のような存在だ。

2025年1月20日 (月)

まちがっているかもしれない

 哲学に可謬主義という考えがある。簡単に言うと、あらゆる理論は誤っているかもしれない。間違っていないかどうか、検証しなければならなし、反論には、きちんと反証しなければならない。しごくまっとうな考えである。可謬主義は反証主義ともいう。

 絶対正しいということはありえない。ニュートンの万有引力もいつでもどこでも正しいわけではない。アインシュタインの相対性理論がその隙間をついた。

 この可謬主義を俗っぽく実社会に反映させてみると、誰もが間違う。間違っていないなら、きちんと反証しなければならないということである。

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 なぜこんなことをもちだしたかというと、昨年、ようやく結審した袴田事件である。

 検事総長のことばに違和感を抱いた。謝罪ではなかった。犯人は袴田被告に間違いはない。証拠には自信がある。検察が証拠をねつ造したという判断には不満がある。捜査に誤りがなかったけど、長く拘留され、裁判が長期に及んだことを考慮して上告をとりやめることにした。そんな趣旨だった。

 強引に犯人に仕立て上げたという疑いもあるが、それは置いといて、間違っていたとは口が裂けても言えないらしい。長くなったから、ま、このぐらいにしたいとるわ、といったところ。だから謝ることもなく、上告を断念した、無念であると。

 検事総長の発言からしばらく経ったが、こころのなかにこの発言がくすぶっているので、あらためてブログで書くことにした。

 みずからの組織は無謬である。無謬でなければならないから無謬であると言い張るっているのだ。謙虚さが欠落している。

 大河原化工機事件にもそんな匂いがする。検察の暴走だが口が裂けても間違っていたとは言えないらしい。これではふたたび同じような過ちを犯すのではないか。

 過ちは誰もが犯す。誰だって間違う。間違いと指摘されたら、謙虚に検証する。反証できなければ間違っていると答える。

 大仰に、正義を問うているわけではない。間違いはある。それに気づいたら素直にただすなり、謝ればよい。それだけだ。

2025年1月18日 (土)

どんど焼き

  麻生区では、どんど焼き(賽の神)が11日から25日にかけて15ケ所で行われている。どこよりも多いのではないか。昔は14日に行っていたが、いまは土日にやることが多くなった。同時開催だと消防団も忙しいから分散となる。

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そのひとつ、岡上の谷戸でのどんと焼きに行ってきた。写真は焼かれる前。正月のお飾り、お札、だるまなどが納められている。他と比べだるまが多い。かつては書初めの半紙もあったが、燃えて飛び散ると火災になるおそれがあるとのことで見かけなくなった。

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1月18日には、麻生不動のだるま市がある。関東三大だるま市のひとつ。盛大に行われる。焚き上げられるだるまは、去年、麻生不動で買ったものと思われる。

 隣の多摩区では26年ぶりにどんど焼きを復活させたとの記事を地域紙で見つけた。麻生区に負けてられないという機運が感じられる。けっこうなことだ。

  室生犀星に、こんな句がある.

 くろこげの餅見失ふどんどかな

2025年1月16日 (木)

 生田寄席 柳家小せん

 今年初めての落語は、生田寄席柳家小せん独演会である。

 この生田寄席で小せんを聴いたのは二年半前、演目は「ガーコン」だった。よく覚えている。「ガーコン」は川柳川柳の持ちネタで、ひたすら軍歌を歌いまくるという変な噺。川柳のてっぱんのネタで、人気があった。これを小せんが引き継いだ。軍歌ではなく、戦前の昭和歌謡を歌う。歌がうまいので心地よい。最後は戦後のジャズになるのは川柳と同じパターンである。あとで、小せんさんによくやるのかと訊いてみたら、たまに気が向いたらやるとのことであった。

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 さて、今回の演目

 柳家小じか  狸の恩返し

 柳家小せん  味噌蔵

 柳家小じか  犬の目

 柳家小せん  河豚鍋

 小じかは小せんの弟子。まだ前座だが、貫禄がある。声の響きがよい。これはいい落語家になる。そんな予感がした。

 小せんは、手慣れたもの。体形は痩せているが、こちらも声がよい。歌がうまいが、きょうは歌の見せ場はなかった。いや、「味噌蔵」で「磯節」一節ほど歌った。

「河豚鍋」はこの時期の演目。河豚鍋は旨いが、当たるかもしれない。旦那と河豚鍋を囲むことになったが、毒にやられる恐れがあるので、なかなか口をつけることができない。お菰さんがやってきたので、これ幸いと河豚を与える。お菰さんの跡をつけて、食べて大丈夫だったかを確かめる、といったストーリーである。

 食べるのではなく、いかに食べないかのやりとりが笑える。小せんらしさがよく出た噺だった。

 家に帰って夕食のメニューは、河豚ではなく、鮟鱇鍋だった。鮟鱇もわるくない。

 

2025年1月14日 (火)

「シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録」

 昨年、唐十郎が亡くなった。その追悼で、唐十郎と劇団の活動を描いたドキュメンタリー映画がアートセンターで上映された。そんな映画があることは知らなかった。監督は大島新

 時代は2006年から07年にかけて。唐十郎は『海底二万哩』に触発された「行商人ネモ」の台本を書き上げ、それを舞台にする。そのプロセスである。

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 わたくしごと。『海底二万哩』を読んだのは小学6年のとき。なにかの賞品でもらった。ジュール・ヴェルヌの本はいくつか読んだが、最初に読んだ『海底二万哩』がいちばんおもしろかった。登場人物は潜水艦の艦長ネモ。唐のタイトルもそこから採られている。

 書いたシナリオは劇団員によって清書され、製本される。稽古は一見、和気藹々としている。唐はにこやかに笑う。唐の笑顔がいい。それが突然機嫌を損ね、怒り出す。すさまじい怒鳴り声。劇団員は震え上がる。が、怒りは長くは続かない。ふたたびもとの稽古に戻る。

状況劇場を解散した後の唐組。劇団員を20年も続けているベテランが二人いる。その二人が緩衝役となって、唐組をまとめている。メンバーの給料は安い。当て書き(出演者にあわせて台本を書くこと)の団員だけがもらえる。あとはちょろちょろ。俳優といっても大道具小道具、食事の世話などなんでも行う。そうやって舞台が作られる。

 大阪での公演初日までが描かれる。劇団運営とは大変なものだと思う。唐のようなエキセントリックなリーダーについていくは厳しい。しかし、団員は唐の魅力に引きつけられて組を離れられないでいる。それがなんとなくわかる。

 エンディングで、この映画は70パーセントがノンフィクションで20パーセントがフィクション、あとに10パーセントはどちらかわからないと字幕がでる。演出もあるってことか。唐の振る舞い自体が演劇的なんだと理解する。

唐は芝居という仮面を外されない人生を生きてきたのだろう。

 

2025年1月12日 (日)

地下水道

 リニア新幹線の工事が行われている。水だの泡だのが出たといったことで、工事が思うようには進んでいない。

 ひとごとと思っていたら、リニア新幹線はわが麻生区の下を、それもそれほど遠くないところを通っていると知った。地上からではわからない。

 都市の地下にはいくつもトンネルが掘られている。新百合ヶ丘と百合丘の間には大きな水道管が埋設されている。それを「川崎の水」という記録映画で知った。川崎の生活用水、工業用水として神奈川県の山間部から水が供給されているのを描いたものである。

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 写真にあるのがそれ(百合丘駅近くの駐輪場から撮った)。真ん中あたりの空き地に巨大な水道管(導水)が埋設されている。その上を津久井道(世田谷街道)と小田急線が走っている。津久井湖から長沢にある浄水場まで直径3メートル以上の水道管がつながっている。

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  もう一枚は、上の写真の反対側(浄水場方向)を写したもの。以前、水道局所有の土地と表示があった。なんのための用地かわからなかった。

  地下水道は戦後まもなく作られたものだが、それだけでは賄えず、現在では相模湖、宮ケ瀬湖、丹沢湖からも引かれている。

  見えないところに都市のインフラがあることをあらためて知った。

 ついでのひとこと

  新百合ヶ丘には横浜とつながる地下鉄が作られることになっている。完成までに10年といわれるが数年前も10年と言っていたから、いつになるかわからない。私が生きているうちに完成するのだろうか。ま、無理やろうな。

2025年1月10日 (金)

「太陽と桃の歌」

 スペインのカタルーニアの農村。桃農園を営むファミリーの物語である。

 ずっとこの地で桃をつくってきたが、地主から収穫後に土地を明け渡すよう迫られている。その土地にソーラーパネルを設置しようとするのだ。父親は絶対反対だが、この際だから止めてもいいのではないかと思う家族もいる。桃農園の経営は大変である。鹿や兎による獣害がある。桃を仕入れる業者の値引き要請も強くなっている。このままでは成り立たなくなる。

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 そんな現状をドキュメンタリーのように映し出す。ファミリーのいくつかのエピソードを積み重ねていく。これといった展開、起承転結はない。

観客はただ農村風景や無邪気に振る舞う子供たちの様子や家族の諍いを眺めるだけである。

 緊迫するのは、卸売り業者への抗議集会ぐらい。トラクターで集まった農民は門前に桃をブチまける。いまの価格ではやっていけない。買い取り価格の値上げを要求する。これが効を奏するかどうかはわからない。桃は日本のものとは種類が違うようだ。固そう。生食よりジュースか缶詰用か。

 農地が工場用地になっていく光景はどこの国でも見られる。都市化が進めば、住宅地になったりするのは致し方ないだろう。ソーラーパネル程度ならいいのではないかと寛大な気持ちになってしまう。

 が、農業を考えれば背後に深刻な問題がある。日本の農地もずいぶん減った。農業従事者も少なくなった。酪農もやめる人が急増している。経営が苦しくなっている。輸入飼料の高騰である。円安が拍車をかける。なんとかしなければならないが、国の支援は乏しい。食料安保は重要といいながら、一方で軍需予算を大幅に増やしている。

2025年1月 8日 (水)

『文化の脱走兵』

 学生のころ、50年以上まえのことだが、エセーニンの詩を読んでいた。なんども読みかえした。今も、その一部をそらんじることができる。

 奈倉有里の『文化の脱走兵』の中にエセーニンにふれた部分があるとの新聞記事を目にした。いまどき、エセーニンを知る人はほとんどいない。わたしにはなつかしい。読んでみた。奥付を見ると、著者はゴーリキー文学大学卒、翻訳を多くしている。まだ40そこそこと若い。

 ここ数年に書かれたもの。ウクライナ侵攻後のロシアへの想いなどを綴っている。声高に、反プーチン、反戦争を叫ぶことができない市民の様子である。

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 エセーニンについて書かれた部分は少ない。「脱走兵」というフレーズはエセーニンからの引用であるが、わたしは知らなかった。読んでいないか、読み過ごしたのか。

 ・・・僕は国でいちばんの脱走兵になった。

 エセーニンは1916年に動員させられる。第一次大戦のさなか、ロシア革命のちょい前。衛生兵だった。鉄砲を撃つことはなかったようだ。二十歳そこそこの青年は揺れる社会の中を生きた。生き抜くことはなくわずかな詩を残して逝った。

 本書では「源氏物語」に触れた章がある。ロシアでも出版されている。与謝野版から翻訳である。その翻訳者とのつながりが生まれたことを書いている。ロシアは遠い国になっているが、文学面でのつながりは強い。ロシア文学は広く長く、日本でも読み継がれてきた。

 それにしても、特別軍事作戦。どれほどの戦死者がでているか、ロシア政府は発表していないのでわからない。何万ではきかないかもしれない。脱走兵はどれほどいるのか。兵役に就く前に脱出した若者は多かった。

 ついでのひとこと

 書棚に並ぶ『エセーニン詩集』を取り出した。開いてみると、字が細かい。読む気にならない。元の棚に戻した。死ぬまでにふたたび開くことはあるまい。もう読めない。捨てないけど。

 さらにひとこと

 奈倉有里さんは読売新聞の読書委員になった。どんな本を紹介してくれるのだろうか。

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