孤立死はわれわれが選んだ社会のありよう
このところ孤独死とか孤立死がマスコミを賑わしている。親子で餓死していたとか、ミイラ状態で発見されたとか。ニュースキャスターは、昨今の都会の人間関係の希薄さを、さも深刻そうな顔をして解説している。
あほか。そういう死に方は昔からあった。近所のアパートでウジが集った状態で発見されたとかなんどもその手の話は耳にした。マスコミが採りあげなかったから話題にならなかっただけで、ずっとあった。これからも孤立死はあり続ける。ひとり暮らしや孤立した状態がある限り、こういう死に方は避けられない。
むろん、安心確認だの定期的な見周りは必要だろう。それを行政やボランティア組織がやるとしても限界がある。近所付き合いがあっても、そう毎日顔をあわせるわけではない。
孤立死はわれわれが選択した社会のひとつの現象である。戦前の家制度のもとでは家長を頭とするファミリーの範囲内でさまざまなことを始末した。ひとりが病気になれば、そのファミリーが面倒をみた。よほどでないと孤立死などはなかった。それが戦後になると家制度が崩壊した。ファミリーが極小となり、いわゆる核家族となった。それは、家制度の煩わしさから解放されことでもある。
そんなことをつくづく感じたのは、母親の戸籍謄本である。母親が亡くなり、誕生からすべての戸籍謄本を取り寄せたのだが、母が誕生し、結婚のための除籍までが記載された謄本は、七ページにもわたっているのだ。登場する人物は二十六人。私の祖父が戸主で、ああこれが家長制度下の戸籍かと感心した。今なら、子が結婚すれば籍が抜ける。二世代までしか記載できないようになっているので、戸籍謄本はたいてい一枚になる。多くてもせいぜい二枚だろう。
戸籍謄本に象徴されるような時代なのだ。核家族となる。少子化が進む。必然として独居老人が増えることになる。
と、まあ、だれでも孤独死や孤立死の可能性があるということだ。
しかし、ウジがわいた状態で死ぬなんてことは避けたと思う。そういう死に方が嫌なのではなく、遺体の始末をする人のことを考えたら、死の直前あるいは死後ただちに発見されるような状態が望ましい。てきとうな見張り役のネットワークをつくっておくとか、安否確認のシステムを構築しておくとか・・・そういう仕組みは必要だろう。いずれわが身にもふりかかる問題である。
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昔は生産の場、生活の場として、イエ、地域という共同体がありました。農家、職人、商いといった家業があり、衣食住といった生活に自前でまかなわなければならないところが多かった時代です。それがサラリーマン化とともに、イエは生産手段を失い、消費の場になってしまいました。それでも会社が疑似共同体として機能していた頃は、家庭も再生産(教育)の場として何とか維持されていましたが、新自由主義とやらいう資本主義の先祖がえりによって、それも崩壊しかかっています。金、物欲に人を縛り付ける現在の体制を無化すべく、生きていきたいものです。
投稿: けやき | 2012年4月 1日 (日) 15時03分