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2012年3月 5日 (月)

富士の高嶺に雪は降りける

江戸時代に富士山が大噴火したのは宝永年間のことである。西暦でいうと1707年、宝永大地震があり、その49日後に噴火した。頂上ではなくどてっぱら、後に宝永火口と呼ばれる場所から噴煙は上がった。火山灰は江戸の街でも五センチに達した。川崎では十五センチという記録がある。ものすごい噴火だったことが伺われる。それ以後、幸いなことに噴火は起きていない。静かな姿で横たわっている。

富士を詠んだ有名な和歌がある。「田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にそ 富士の高嶺に雪は降りける」(山部赤人)である。これは万葉集。後に百人一首では「田子の浦に うち出てみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」と少し変えられている。どっちがいいかわからぬが、富士の雄大で美しい姿を描写した秀逸な和歌である。

ところが、これは畏怖の歌ではないかとの説がある。山折哲雄氏は、噴煙をあげる富士の姿を見て、ああ、きょうは大きな噴火もせず、頂には雪が積もっている、すこし安堵した、そういう気持ちを詠み込んだものというのだ。

意表を突かれた。へー、そんな解釈もできるんだ。富士といえば、現代人は絵はがきのような美しい姿しか思い浮かべないが、いにしえの人には、災害をもたらす恐怖の山と映っていたということか。

噴火の歴史を『理科年表』で調べてみた。おおきな噴火は781年、800年あたりで起きている。延歴年間である。山部赤人は736年に亡くなっているので、この噴火は見ていない。縄文時代からたびたび噴火している。赤人の時代は大きな噴火はしてないにしても、噴煙を吐いていた可能性はある。いつ噴火するかと恐れながら眺めていたのか。

見方を変えると、解釈も違ってくる。「田子の浦ゆうち出ててみれば」は、急いで浜に掛けだして富士を見たわけだが、美しい姿が見たかったのではなく、今日の富士はどんな塩梅か、噴火のおそれはないか確かめたい気持ちだった。そんな風にも読みとれる。山折氏の解釈が正しいかどうかはわからないけれど、そういう見方があるってことを知っておいても無駄ではない。

さらに言えば、万葉集から小倉百人一首への改作は、選者である藤原定家の富士に対する思い(定家が少し変えたという前提で)のあらわれとも考えられる。つまり定家のほうが、赤人よりも富士の噴火の恐れを強く引きずっている可能性が高いと思われるからである。

 現代人はのんきである。富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も・・・・とか、富士の白雪ゃノーエ富士の白雪ゃノーエと、歌ってるのだから。

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