ダーク・シャドウ 七〇年代の東海岸物語
ヴァンパイア映画である。
ヴァンパイアものはあふれている。毎年、いくつも映画化されたり、小説になっている。昨年は「モールス」「フライトナイト 恐怖の夜」がそうだった。いずれもリメイク版である。なぜこんなにヴァンパイアものがもてはやされることについては、このブログでも書いたことがある。
吸血鬼という恐ろしい存在だが、弱点がある。太陽は苦手である。立ち入れない聖域がある。永遠の命を持つというけれど、人の血がないと飢え死にしてしまう。キャラクターもつくりやすい。愛嬌のあるヴァンパイアもいる。
「ダーク・シャドウ」はティム・バートンが監督した。鬼才である。主演はジョニー・ディップ。
二百年前、コリンズ家は水産業で大富豪になった。御曹司バーナバス・コリンズ(ディップ)はメイドに手を出すが、彼女は魔女だった。恋人は殺され、自らはヴァンパイアにされ、棺に閉じこめられ埋められてしまう。それがひょんなことで棺は掘り返され、現代に甦る。といっても一九七二年である。コリンズ家は没落していた。
バーナバスは缶詰工場を造り、コリンズ家を再興しようとするが、かつて棺に閉じ込めた魔女はライバルとなって、それを妨害する。
日本なら江戸時代の若旦那がオイルショック前の時代にタイムマシンでやってきたと想像いただければよい。映画の舞台はアメリカ東海岸。アメ車に乗ればポップスの名曲「夏の日の恋」やカーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」が流れる。
バーナバスはカーペンターズと聞き、大工かと返答する。そりゃそうだろう。テレビにも文化にも戸惑う。その落差が面白いのである。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と同じである。
ヴァンパイアだから太陽は苦手。サングラスに傘で外出する。紫外線を嫌う現代のご婦人はひょっとするとヴァンパイアかもしれないというのは冗談だが、なんとなくおかしい。
物語はたわいない。おとぎの国のようなファンタジー物語なのはティム・バートンの持ち味だから、承知の上である。もっとハチャメチャになるのか、あるいは七〇年代の風俗を全面に出すかと思ったがそうでもなかった。
ついでのひとこと
この映画に、一族を守るとか、ファミリーの結束力とか裔(ちすじ)、血は水より濃いという幻想が、無意識のうちに流れているのに気づかされる。「ファミリー・ツリー」とも共通する。
ヴァンパイアは、ヒトの血を吸わないと生きられない。血を吸われるとヴァンパイアになるものもいれば、死んでしまうものもいる。そのあたりの区別はどうなっているのだろうか。
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