『水のかたち』 エージングの味わい
宮本輝の新作である。主人公は更年期を迎えた志乃子。夫と三人の子がいるごく普通の家庭の主婦である。門前仲町に住んでいる。近所の喫茶店が閉店するので、その店の女主人から亡夫があつめたというガラクタ(骨董)を譲り受けることになる。好きなものを持っていけと言われ、志乃子は年代物の文机と手文庫、そして志野焼の茶碗を選ぶ。いずれも、汚れたり欠けたりしているが、志乃子を惹きつけるものがあった。
これを発端に、志乃子の人生の車が新たな方向に動き出していく。志野焼の茶碗は三千万円の値打ちがあるものとわかる。手文庫の底には、終戦直後、北朝鮮から苦難を乗り越え脱出した人の手記や写真が入っていた。志乃子は、骨董の持主であった喫茶店の女主人に伝えようとしたが、引越しして行方はわからなくなっていた。その骨董は実際、三千万で売れた。手文庫の底にあった手記の持主は捜したが、こちらも不明である。しかし、その人物に助けられ船で脱出した女性の子が、息子(理容師)の知り合い(指導者)であることがわかる。
といったことで、平凡な主婦にもさまざまな人との出会いが始まり、あらたな人生が開けていく。以上が、上巻のおおよそ内容である。
宝くじにあたるようなことが続いて起きる。そういう人生を歩むのが志乃子である。貰った骨董が大金になる。そこから新たな人生が開けていく。姉にも転機が訪れる。知り合った女性はジャズシンガーとして独り立ちする。息子たちも自立していく。ちょっと意地悪そうな女性もいるけれど、悪人はひとりも登場しない。いい人ばかりである。おとぎ話のようである。作者は、やさしいまなざしで中年女性の人生をほんわかと描く。
一方で、北朝鮮から命からがら帰国したという過酷な体験も描くわけだが、それとても、一人の立派なリーダーに導かれてのスリリングな脱出劇であり、いい話となっている。
エージングということばがある。一般に老化とか加齢といった意味で用いられる。しかし、これでは半分の意味しか表していない。エージングには熟成という意味もある。時間を経ることにより味わいが増す。酒やチーズの発酵がそうである。発酵が進むと青臭みが消え、まろやかで深い味わいとなる。
五十歳を迎えてあらたな発酵が始まり、それが人生の深みとなっていく。歳をとることは老化といったマイナス面だけがあるのではない。歳をとらなきゃわからない新たな歓びとなる世界があるんだよ。著者はそんなことを言いたいのだと思う。
いくつもの蘊蓄が傾けられる。コーヒーや紅茶の入れ方、糖尿病の糖質制限食、骨董、なつかしいジャズ・・・。糖質制限食の話は私にとっては参考になる。血糖値が高い。糖質は減らそう。ビールは糖質オフとかの発泡酒に変えようかしらと考えている。
ついでのひとこと
以前、書いたことがあるがもう一度繰り返す。著者へのお願い。『流転の海』をはやく完結させてほしい。
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