どの宗教が安心か(続き) お客さまは神さま
先週13日(土)、安心して入信できる宗教について書いた。その続き。
ユルイのがいい。もちろん厳しい修行もあってもいいが、それは当人が望むことが前提で、死に至るような厳しい修行を強要してはならない。
どの宗教も独善的な傾向がある。独善的だからこそ信仰になるのだから、ある程度は致し方ないとしても、独善を通り越して極端に排他的になるのはどうかと思う。お釈迦さまを信心していたとしても、クリスマスを祝おうが、神社や弁天様に詣ろうが、ラマダン断食をしようが、いいじゃないかと思う。キリスト教の神父が数珠をもってお寺に詣ってもいっこうに構わない。そのくらいの許容度があってもよい。それによって信仰心が揺らぐわけでもあるまい。神様や仏様に嫉妬だの狭隘な精神は似合わない。
新興宗教のなかでも、ユルく度量の大きい宗教はある。宗教というより人生相談所か的な色彩の濃いところもある。簡易かけ込み寺である。そういうのがいい。
私は軟弱だから、どうしてもユルイ方向に行く。私の神さまは緩いのを赦す。
神さまで、三波春夫を思い出した。
三波春夫は「お客さまは神さまです」と語った。なにをばかな、客におべんちゃらを言うなという意見が多かった。そんな意見には耳をかさず、神さまといい続けた。
私は、おべんちゃらとは思わなかった。三波本人はそのことばを信じていたと思う。
お客さまは神さま。手を抜くとそれがわかってしまう。なんだ、今日の公演は手抜きじゃないか、つまらない、次は行くのをよそう。
手抜きを察知するのが観客という神さまなのだ。それがわかった。天網恢々疎にして漏らさず。だからいつも一所懸命やらなければならない。お客さまは自分の演技をきちんと評価する神さまだと気づいた。で、そのことばどおり一所懸命やった。だから、三波春夫は国民的人気歌手であり続けたのだと思う。
神さまは自分自身の心の中にいる。どの宗教でも同じである。信仰は自由である。
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