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2013年7月14日 (日)

 キリストと親鸞   放心流宗論

 イエス・キリストは、などと書き始めると、オマエには似つかわしくないと言われそうだが、今回は宗教の話を少々。

姦淫の罪を犯した女性を石打ちで糾弾しようとした群衆に対し、イエスは「罪なき者は石もて打て」と語った。群衆はそれを聞き、みな、何もせずそこから立ち去った。ヨハネの福音書のなかの一節である。
 罪のない人だけが打擲しなさい。ただし、罪ある人はダメよ。イエスらしいレトリックである。人間は原罪を背負っている。つまり、みな罪ある人、罪のない人などひとりもいない。それに気づけば、誰も打擲できない。なるほど、うまいこと言うものである。

話は変わって、我が国の浄土真宗について。法然・親鸞に「悪人正機説」がある。「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というアレである。
 悪人がまず救済されるなんてのはおかしいと誰もが思う。どうして親鸞はそんなことを言ったのだろうか。みな疑問に思う。しかしじっくり思索を巡らすと、ごく当たり前の考えだということに気づかされる。じっくり思索してもそこにたどり着けない人もいるかもしれないので、ちょいと解説しておく。
 ここでいう悪人とは凡夫のことである。人はみな、ねたみそねみをもった凡夫である。至らぬ存在である。みな自分は善人だと思っているかもしれないけれど、実は、凡夫、悪人なのだ。その凡夫である衆生を救うのが阿弥陀仏である。それを悪人正機と言っただけのことだ。

自分を悪人ではなく善人だと思い込んでいると、この説は理解できないが、人間みな凡夫(悪人)だと自覚できると、なるほどと納得する。そしてそれに気づくと、不遜のもそう思い込んでいた自分を恥じることになる。

あんたかてアホやろ、わてかてアホや。みなアホで、凡夫(悪人)と気づけば、おかしくもなんともない、まっとうな考えだと腹にはまる。

 この悪人正機説はイエスの罪なき人は石もて打てとつながる。みな救済されるべき罪ある人であり凡夫である。イエスも親鸞も、根っこでつながっている。私にはそう感じられる。
 イエスと親鸞がどこかで出会っていれば、互いに理解し合い、握手を交わしているのではないかと、ちょっと妄想をたくましくしている。
 放心流宗論の一端である。

 宗教ついでに、落語噺に「宗論」がある。まくらで出てくる川柳がある。

 宗論はどちらが勝っても釈迦の恥

 どちらが負けてもでも意味は同じ。釈迦をイエスに置き換えても同じこと。これを説明するのは面倒なので止めておくけれど、まっとうな宗教なら他の宗教に対しては許容的であると思う。根っこの部分で通じあっている。

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