遊女の墓 みなふるさとに
従軍慰安婦問題がマスコミをにぎわした。今後、どう議論が進むのかわからないけれど(たぶん、尻切れとんぼになる)、慰安婦は朝鮮半島の女性だけではなく、日本女性もたくさんいた。
明治以降、日本の海外進出(交易)にともない、多くの女性が東南アジア全体に娼婦として売られていった。出稼ぎでもあった。
それらの女性は、からゆきさんと呼ばれた。九州からの女性が多かった。映画では、今村昌平監督の「女衒」、熊井啓監督の「サンダカン八番娼館」などがからゆきさんを描いている。
宮本輝の『慈雨の音』(『流転の海』第6巻)に、余部鉄橋の上から散骨をする場面がある。ヨネばあさんの遺言、自分の遺灰を海に撒いてくれということで余部に行く。何かを書きつけた和紙も一緒にということであった。和紙には俳句がしたためられてあった。
遊女の墓 みなふるさとに背をむけて
王鞍知子の句とのことだが、初めて聞く名で、どのような俳人かは知らない。この句からサンダカンを連想した。王鞍は山崎朋子の著作にヒントをえてこの句を作ったのではないかと思った。
映画「サンダカン八番娼館」は山崎朋子のノンフィクションが原作である。かつてからゆきさんだった女性を訪ね歩くという内容である。サンダカンはボルネオ島にある。山崎朋子には『サンダカンの墓』という著作があり、その中で娼婦の墓について書いている。といっても、読んでいない。本多勝一の『ルポルタージュの方法』のなかでこの著作についてコメントしているのでたまたま知っているだけのことである。
本多勝一は山崎朋子の著作の良い点と、学んではいけない悪い点を挙げている。悪い点のひとつに、強引な解釈を挙げ、それをとがめている。
娼婦の墓は全部日本に背を向けている。ひどい仕打ちをした日本になんか帰りたくない、背を向けて拒絶しているのだと山崎は書いている。ところが実際にそこに行ってみると、墓場は斜面にあってそう建てざるをえなかっただけのことで、拒絶しているとは読みとれない。山崎の記述は強引であると批判している。
「あたかも日本に背を向けているように思われた」と書くなら主観的解釈として感情移入のかたちで書くのならそれはそれでよいと本多勝一はコメントしている。
でも、まあ、遊女の墓がふるさとに背を向けているというのは面白い。ヨネばあさんは何も言わずに紙切れ一枚の遺言を残した。語らずともヨネばあさんの気持ちは伝わってくる。
ついでのひとこと
イースター島のモヤイ像は山の方を向いている。みな海原に背を向けて、である。娼婦の墓とは関係ない。ふと思い出しただけのこと。でも、どうして山の方を向いているのだろうか。山の神への祈りだろか。
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