「百年目」の疑問点
前々回の「百年目」の続きである。この噺、説教臭いところがある。さらに瑕疵と言うか、腑に落ちないところがある。
茶屋遊びが見つかってしまった翌日、店の旦那は番頭を呼ぶ。まず茶を振る舞う。旦那は核心には触れず、おもむろに旦那ということばの語源について語る。
天竺に栴檀という大木がある。栴檀は双葉より芳しの栴檀である。その下に南縁草という雑草が茂っていた。薄汚いのでこの草を刈り取ってしまうと栴檀は枯れてしまった。調べてみると、栴檀は南縁草を肥やしにしていた。また南縁草は栴檀の露で育っていることがわかった。栴檀と南縁草は、持ちつ持たれつ、いわば共生の関係にある。栴檀のダンと南縁草のナンをとってダンナン、それがダンナ、旦那となった。
旦那や番頭はいわば大木の栴檀、小僧たちは南縁草である。どちらがいなくてもだめ。出来の悪い小僧がいてもそれは南縁草であって刈り取ってはいけない。そんな話をする。
つまり番頭が小僧にガミガミ言うのを戒め、ゆとりをもって小僧を育ててほしいと言っているわけである。この噺の冒頭で、番頭は口やかましく叱るシーンがある。この部分をしっかり演じておかないと、旦那の語源が活きてこないことになる。
志ん朝の「百年目」を聴きなおしてみた。このガミガミの部分を時間をかけてたっぷり演じている。
次に旦那は帳面を改めて見てみたと番頭さんに言う。羽目を外して茶屋遊びをしているのは店の金を使いこんでいるのではないかと疑ったのだ。きちんとしており不正がないことがわかったと語る。
ここは少しおかしい。帳面を調べたぐらいでは不正を見つけることはできない。現代風に言うと、帳面を調べるとともに、在庫、現預金、売掛買掛、貸付借入などに当たらないと正しい会計ができているかどうかはわからない。安易に過ぎる。
だからここでは、たとえば「月末の棚卸は私も立ち会ってきちんとやっていますから間違っていないと思っています。改めて帳面もお金も調べてみましたが、正しく記帳されていました」くらいにしておいた方がいい。いくら番頭に任せているとしても限度がある。
もうひとつ。不正がないとしたら番頭はどうやって茶屋遊びの金を工面したのだろうか。自腹を切って遊んでいるとしているが、番頭さんにそれほどの蓄えがあるはずがない。番頭交際費(そういう言い方が妥当かどうかはともかくとして)から使ったぐらいでいいのではないか。多少のドガチャカ(帳面の付け替え)があったかもしれないが、それも番頭の裁量範囲内としておいてもよい。そのほうがリアリティがある。
やけに細かくなってしまったが、この噺(大ネタである)をより洗練されたものにするには、少しでも納得のいく内容にしておいたほうがよい。
それにしてもいい旦那である。
志ん朝バージョンでは、遊びが見つかって番頭さんが悔いる場面が思いがけず短い。志の輔バージョンの半分もない。このあたりの対比はおもしろい。
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