『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』
昨年、NHK・BSで放送された「ケンボー先生と山田先生~辞書に人生を捧げた二人の男~」をノベライズしたものである。といっても一時間番組をそのまま文にしたものではない。新たに判った事実や証言を加え、より詳しく解説している。
当ブログは、落語や映画を中心に書いているが、ことば、言語生活にも重きを置いている。この番組についても採り上げた。そんなことで、本書も採り上げないわけにはいかない。(いかないというほどのこともないけれど)
三省堂の代表的国語辞典は『三省堂国語辞典』と『新明解国語辞典』である。この二つはそれぞれ見坊豪紀と山田忠雄によって編纂されたものである。二人は大学で一緒に学んだ。
見坊は『明解国語辞典』づくりに励んでいたが、その途中で山田に手助けを依頼した。二人の協力関係はでき、うまくいっていたが、十数年後、袂を分かつことになった。その真相を中心に、国語辞典づくりはどういうものかを描いたのが本書である。
以前、書いたこともあるが、私は見坊先生とは面識があった。
袂を分かつ原因となった「事故有り」についても直截、見坊先生に訊ねたこともあった。今から思うと失礼なことを訊いたものだと思う。
『新明解』の序文(初版、第二版の序文。現在の第七版にも載せられている。執筆は山田先生)に、「見坊に事故有り、山田が主幹を代行した」とある。
読者からすればどんな事故だったか気になる。見坊先生も初めて見たときは驚いた。そして怒った、温厚な見坊先生がである。
私が訊いたとき、「事故なんてありません」と、にべもなく言われたのをはっきり覚えている。
事故とはふつう交通事故などを思い浮かべるが、山田先生は「何かの実施・実現を妨げる、マイナスの事情」の意味もあると『新明解』の語釈を載せている。その意味での「事故有り」だったのだろうが、ふつうはそうは思わない。「見坊が多忙になったので」ぐらいにしておけばよかったのにと思う。
当時、見坊先生は『三省堂国語辞典』と『明解国語辞典』の二つを手掛けていたが、改訂作業は遅れた。小型辞書は7、8年で改訂される。結果として『三省堂国語辞典』の改訂版が出るまで12年かかっている。出版社としてはヤキモキしていたことが伺われる。で、山田先生による改訂作業となったのだろう。
遅れた理由はわかる。見坊先生は用例収集に熱中した。その成果の一部を「ことばのくずかご」というタイトルで月刊誌『言語生活』(筑摩書房)に連載した。これが好評だった。
実際、おもしろかった。これを読むために私は定期購読した。当時は辞書編纂者が表に出ることはない。実際にはほとんど編纂作業をしていない金田一京助の名だけが出るのが当たり前だったが、この連載により辞書編纂者である見坊先生の名が世に知られるようになった。私も初めて見坊先生の名を知った。
この「ことばのくずかご」はマスコミに採りあげられたり、テレビのクイズ番組のネタにもなっていた。
「ことばのくずかご」は用語・用例採取の副産物であったが、見坊先生は気をよくした(と思う)。これに夢中となった。改訂作業より、用語・用例採取、そして「ことばのくずかご」を優先した。
「ことばのくずかご」はたった数ページの連載であっても、この手のものは手間がかかる、一時、これをちょっとマネして私も採取をしてみたことがあるが、手に負えないことがわかった。雲泥の差である。とうてい見坊先生には及ばないことは当たり前なのだが、十人が共同作業しても見坊先生には太刀打ちできないのではないかと悟った。それぐらい手間がかかる作業なのだ。
用語・用例採取やこの連載に力を注いだため、辞書の改訂作業は遅れることになった。三省堂の首脳部がやきもきしたのは当然だろう。
*「ことばのくずかご」は、後に単行本になっている。抄録ながら連載の一端をうかがうことはできる。図書館等でご覧願いたい。
結果として、三省堂の国語辞典は二つにわかれた。真相らしきことを言うと、三省堂の首脳部が見坊・山田の共同戦線を分断しようとしたことにある。見坊・山田の印税要求を手ごわいものと判断したため、分断作戦をとったのである。これは成功した。
同じ会社でありながら、方向の違う二つの小型辞書が生まれた。それがいずれもベストセラーになった。両雄並び立ったのである。
ちょっと長くなったので、きょうはこのくらいにしておく。まずは、本書をお読みいただきたい。
この二つの辞書が、我々の言語生活を豊かにしてくれたと、私は、ずっとそう考えている。
« 一之輔落語会 キレルご隠居さん | トップページ | ハーモニカを売る娘 »
「読書」カテゴリの記事
- 『90歳、男のひとり暮らし』(2025.11.12)
- 『普天を我が手に』(2025.09.30)
- 『昭和的』(2025.08.17)
- 『啓蒙の海賊たち』(2025.08.11)
- 『老人の美学』(2025.08.01)


12日から放心流見てますよ、新明解は私の知り合いにもファンがいてプレゼントされたことがあります。この本読んでみようかな。
投稿: クマさん | 2014年3月18日 (火) 06時55分
くまさん、ありがとう。
手持ちの新明解は第何版でしょうか。第5版までの方が尖っていておもしろいのですが、もちろん第7版でも楽しめます。
たとえば、「来る」の項にはコロンボ警部が登場するとか、「ためつながめつ」には大阪女子国際マラソンの用例が出てきたり・・・飽きません。
投稿: 放心 | 2014年3月18日 (火) 08時54分
調べてみたら手持ちの新明解は第4版でした。今までに「尖っている」のは何度か見つけていましたが、これからはもっと楽しもうと思います。
投稿: くまさん | 2014年3月20日 (木) 08時28分
第4版は副詞を充実させています。まずは副詞をいくつか引いてみてください。
それはともかく、「まず」ではワトソンが登場します。西郷とかQ氏も出てきます。
「たまたま」の八木氏って誰なんでしょうか。その前のページの「たま」は芥川の「蜘蛛の糸」が用例だとわかります。
こんな具合で、新明解のディープ沼に引きずり込まれていきます。
投稿: 放心 | 2014年3月20日 (木) 20時03分