『天人 深代惇郎と新聞の時代』
かつて朝日新聞の「天声人語」の執筆者であった深代惇郎の評伝である。
今から四十年ほど前、そのコラムは高い評価を受けた。しかし執筆期間は短かった。二年九ヶ月にすぎない。病魔に襲われ、急死した(昭和50年12月 享年46)。つかの間の輝きであったが、そのコラムは残った。その名は今も語られ、こうして評伝となった。
あの頃、「天声人語」には目を通していた。なるほどと感心したり、ニヤリとしたりしたのを憶えている。著者・後藤正治もそうだったのだろう。
本書の一部を引用する。
深代天人に通底して流れるのは、ある確かな〈視点〉である。右であれ左であれ、深代はファナティックなものを嫌い、排した。均衡を測ることにおいて精巧なセンサーを体内に宿していた。それはバランスとか折衷とか中庸とか呼ばれるものではなく、健康な懐疑主義といえば近いか。
そういう視点を培ったものには、〈世代的遺産〉も加わっていたはずである。若くして見るべきほどものは見た世代、あるいは見なくてすめばそれに越したことのないものまで見た世代。時の権力の、あるいは主義主張やイデオロギーという〈共同幻想〉の虚妄とむなしさをたっぷりと味わったものたちの世代としての眼力である。(p134)
天人とは天の人であり、天声人語の略である。
深代は入社間もない頃から一目おかれる存在だった。警察回り当時、各社の記者が集う酒場には読売の本田靖春(のちにノンフィクション作家)もいた。本田と深代の二人が、一頭地を抜き出た存在だったという。
新聞一面のコラムとはいえ、無署名だから、その名が流布することは少ない。思いつくのは数人。それほど多くはない。「サンケイ抄」(産経新聞)の石井英夫がその一人。三十五年間も書き続けた。思いがけない発想、斬新なものの見方に感心させられることが多かった。今も、ときどきコラム集(『クロニクル産経抄25年』上下)をぱらぱらめくることがある。
深代の訃報に接したときの文章がある。本書にも載っている。「いまエンピツの重みから解放された霊魂は、心ゆくまで法隆寺の砂を踏んでいるのだろう。」
「エンピツの重み」とは上手い表現である。
現在の書き手なら「編集手帳」(読売新聞)の竹内政明だろう。古今東西の名著からの気の利いたことばを引用して名コラムを書き綴っている。
本書を心地よく読んだ。心地よく読める書物はそんにあるものではない。著者・後藤正治の静かな意気込みが伝わってくる。知的な香りがほどよくただよってくる。
ついでのひとこと
偶然なのか、深代本がもう一冊出ている。『深代惇郎は天の声をどう人に語るか』。著者は大川総裁。大川興業の総裁じゃないほう。大川興業は「幸福の科学」ではなく「空腹の科学」ね。
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