インドに緑を植えた日本人
一昨日「ブラタモリ」のあとチャンネルを変えると、杉山達丸という名前が飛び込んできた。番組表をチェックすると「インドに緑を植えた日本人 元将校の記録」という番組であった。
杉山達丸は夢野久作(杉山泰道)の息子である。
この人のことはよく知らない。昨年「母と暮らせば」という山田洋次監督の映画があった。その中で幼気ない少女が父の消息を聞くため援護局を訪れるシーンがあった。ご記憶であろうか。小林稔侍が少女に父親が戦死したことを告げるシーンである。印象的に残った。
あれは杉山達丸のエッセイに出てくるエピソードである。ちくま文庫の『生きるかなしみ』に掲載されている。
杉山達丸が援護局で働いていたことは知っていたが、戦時中はなにをしていたか、援護局のあとどうしていたかは知らなかった。そのあたりを紹介する番組だった。
へーと驚いた。援護局を辞したあと、故郷福岡に帰り、農園を営む。杉山家は大地主であった。インドの留学生を引き受けることをきっかけにアジアへの関心が広がっていく。インドを訪れる機会があり、そこでインドの現状、貧困、食料不足などを目にすることになる。農業の向上には植林をし、水不足を解消することが必要であることを説き、ユーカリの植林を訴えた。なかなか協力は得られなかったが、次第に理解は広がり、自らも私財をなげうって植林に努めた。その結果、不毛の地は栽培可能となった。その貢献により「緑の父」と称えられるようになったという。
そうだったのか。
祖父は杉山茂丸。玄洋社(戦前の政治団体。その理念のひとつにアジア主義がある)のリーダーの一人あった。その理念は、具体的な形でインドで花開いたということだ。
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