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2017年1月27日 (金)

「沈黙 サイレンス」 神の沈黙

 遠藤周作の小説をマーティン・スコセッシ監督が映画化した。これは見逃せない。どのように映画にしたのか。

 スコセッシは30年ぐらい前にこの小説を読んだという。

 キリスト教が禁じられた江戸初期。師が信仰を棄てたという話を確かめるためロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は日本にやってくる。キチジロー(窪塚洋介)の案内で長崎に潜入し、キリシタンが迫害を受けている現実を目にする。ロドリゴは捕らえられ、長崎奉行(イッセー尾形)は信仰を棄てれば信者の命をとることはないと迫る。

 棄教転びがテーマである。信者たちの拷問を目の前にして自らの信念を曲げることができるのか。信仰を棄てるとはどんな意味をもつのか。神はなにも答えない。沈黙したままである。

 息を詰めるような緊迫したシーンが続く。このあたりのスコセッシのきちんとした演出はみごとである。観客は身動きできない。

 キリスト教は日本の風土に根付くのか、ロドリゴと奉行や通訳(浅野忠信)との議論は興味深い。このあたりはぜひ映画をご覧いただきたい。

 映画とは離れるが、信仰には私なりの考えがある。

 たとえば棄教を迫られたらどうすればよいか。踏み絵など踏めばよい。そんなことで神は怒ったりしない。揺るぎない信仰心があれば、神は赦す。神は偉大なり神は寛容なり、である。が、そんなに単純なものでもないことは承知している。心の抵抗をどう表現するかも重要である。

 この映画の結論も、その考えと通底していると思う。

 俗っぽくなるが、サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」が私の心に流れてきた。

 ついでのひとこと

 スコセッシは日本映画にも造詣が深い。溝口健二の「雨月物語」などを高く評価している。「雨月物語」に琵琶湖を静かに船で行くシーンがある。靄に包まれ、水彩画を見るような幻想的な場面である。「沈黙 サイレンス」にもそれと似た場面がある。スコセッシ流の溝口監督へのオマージュである。

 もうひとこと

 トランプが大統領になる直前の記者会見で、気に入らない記者からの質問を拒否した。ノット・ユー(お前じゃない! )と叫んだ。

 このノット・ユーが「沈黙 サイレンス」にも出てくる。長崎奉行(イッセー尾形)のセリフである。ちょっと笑ってしまった。トランプのノット・ユーを思い出してしまったからだ。まだ、ご覧になっていない方は、このセリフにも注目していただきたい。

 

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