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2018年2月16日 (金)

 丸山教の歴史

 

 小田急線(南武線)登戸駅近くに(向ヶ丘遊園前からのほうが近い)、丸山教の本院がある。

 むかし、ときどきその前を歩いていた。丸山教という宗派の名前は知っていたが、どんな宗教なのかは知らなかった。明治期には宗徒百万人を越す大きな組織だったと聞かされた。すごい数だ。ちょっと調べてみた。写真は本院。

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  冨士講を基にしている。細かなことは省くが、地道に信仰の道を歩んでいたが、明治政府による神仏分離などの宗教政策により、淫祠邪教として丸山教(まだ教とまでは至っていなおらず、丸山講といったほうが正しい)の教祖は拘引された。信心放棄を強要されるが、他の宗派と一緒になることで宗教活動が公認され、登戸に丸山教会本院を置いた。以後、信徒は増えていった。まじめで地道な宗教である。

 明治16、7年の不況(いわゆる松方デフレ)で地域の農民は苦境に立たされることになった。農産物価格の下落(たとえば繭は60%ほど下がった)により食い詰める農民が多発した。

多摩地域の農民は政府の政策、富国強兵策などに反発し、反政府的な立場をとるようになった。それと呼応したのが丸山教である。農民の気持ちとリンクすることになり、信徒は増えていった。明治25年には全国の信徒は百万人を越したといわれる。

 政府や地方自治体はこれを危険思想と見なし、大弾圧を加えた。ときには一揆的な騒動となったようである、詳細は不明である。以後、弾圧により丸山教の勢いは衰えていった。

 で、以下は連想である。

麻生区には廃仏毀釈による首なし地蔵が多い。当コラムでも紹介したことがあるが、あれは麻生区黒川にある(写真参照)。黒川の住民のほとんどは丸山教の信徒であった。

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  ひょっとすると地蔵さんの首は廃仏毀釈当時ではなく、もう少し後、丸山教の騒動の際に切り落とされたものではないか。誰がやったかは不明。そんな歴史の穴がある。

 まったくの仮説である。ちょいと連想しただけだが、どこかに古文書でも残っていないものかと思っている。

 言い忘れたが現在の丸山教の信徒、一万人ぐらいと言われている。 

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