『私の1968年』
本屋の平台で見つけた。著者は鈴木道彦。なつかしい名前だ。
奥付を見ると出版されたのは昨年秋。なるほど、あれから50年か。著者が生まれたのは1927年。ということは90歳を越している。まだ健在なのだ。学生当時、鈴木道彦の著作や翻訳本を何冊か読んだ。実存主義、サルトルの思想などを学んだ。
本書は、タイトルのあるように1968年あたりを振り返ったもの。当時書いたものの再録が中心となる。パリ5月革命、羽田事件をめぐるマスコミ批判、金嬉老事件裁判、F・ファノンの思想といった内容になっている。とりわけ金嬉老事件に対する検察批判の舌鋒がするどい。この本を読んで、金嬉老事件が1968年だったことを思い出した。
私事になる。1968年、私は大学3年生だった。当時は実存主義がブームだった。学園紛争が盛り上がっていた。しかし政治にはさほど頭を突っ込まなかった。
ソ連は独裁国家の化けの皮が剥がれつつあった。プラハの春はこの年だ。中国は文化大革命の最中で、稚拙な紅衛兵が幅を利かせていた。抑圧機関である社会主義国家にはしだいに嫌悪感を抱いていった。民青も凡庸だった。かといって三派と呼ばれるグループも人を引きつけるものがなかった。ベトナム戦争は泥沼化していた。共感できたのはべ平連ぐらい。それでもデモに参加した回数は少ない。
で、なにをやっていたかというと、映画ばかり観ていた。実存主義関係の本も読んでいたが、おもしろかったのは日本の小説、筒井康隆とか野坂昭如。まんがも読んでたな。「ガロ」とか「COM」。
のちに後輩が、私の印象を、右手に「平凡パンチ」、左手に「朝日ジャーナル」って感じでしたと語ってくれた。ま、そうだったかもしれない。
『私の1968年』に戻ると、金嬉老事件について、いかに差別されてきたか、犯行となったきっかけなどを軽視し、事件の実体を見ようとしない検察に鋭い批判を浴びせている。当時は在日朝鮮人とか韓国人に対する差別意識が広くあった。
旅館の泊り客を監禁した凶悪犯というイメージのみがマスコミで流され、立てこもりに至った経過は軽視された。マスコミはそういう面しか報道しなかったのは事実である。
いまも、その体質は変わっていない。だから複眼的な視点が求められる。
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