無料ブログはココログ

« 「アマンダと僕」 | トップページ | 韓国を考えてみる。「工作」 »

2019年7月31日 (水)

後家にしてみたい

  後家さん(未亡人)は色っぽいものだと相場が決まっている。

 なにかと匂いたつものがあるというが、そこいらは深く追求しない。熊さん八さんの与太ばなしである。

 で、「うちのカカアも後家にしたい」という笑い話がある。

 残念なことに、自分が死んだらカカアの後家姿を見ることはできない。

 同様に、自分の死を見ることはできない。死んだら、棺桶のふたをそっと開けて仲間が香典をちょろまかすのを見つけるというは落語の世界である。

 ヴィトゲンシュタインは「死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない」と書いている。自分の死はわからない。ましてや死後は。

 論理学の初歩に、当事者(自分自身)を含めた論理展開はナンセンスという見解がある。ナンセンスとは意味がない、ということ。バートランド・ラッセルが解き明かしている。

 たとえ話がある。

 軍隊に理髪師が入隊した。上官から、自分で髭を剃れない者だけ髭を剃ってやれ、自分で剃れる者は剃るなと命令された。ひとの髭を剃っていたのだが、さて、自分の段になると、オレは剃れる、命令だと自分の髭を剃れる者の髭は剃れないことになっている、どうしたらいいのかフリーズしてしまった。

 自分を含めるとおかしくなる。位相が違うのだ。

 Img_20190727_172924-1 自分のカカアを後家にしてその姿を見ることはできないけれど、カカアが自ら進んで後家になることは可能です。

« 「アマンダと僕」 | トップページ | 韓国を考えてみる。「工作」 »

世事・世の中」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 「アマンダと僕」 | トップページ | 韓国を考えてみる。「工作」 »