仏さまはいるのか、仏さまを信じているのか
檀那寺からときどき便りがくる。副住職のエッセイが載っている。
副住職(住職は隠居状態)は寺を継ぎ、お経を読み、檀家を回っている。仏門に入って以来、正しくは入る前から、仏さまを信じられるか、心から信じているのかという疑問を抱き続けてきた。永平寺で修行しても、疑問は消えず、自問自答を続けてきたという。
高僧の本を読んで感動しても、しばらくしたら忘れてしまい、世俗の煩悩にまみれていたいという思いに駆られる。そんな日々を過ごしてきたそうだ。
なんと率直な想いだろうか。ちょっと感動した。
世の僧侶はどうなんだろうか。仏を信じよと高邁な教えを説いてはいるが、はたして心底仏さまを信じているのだろうか。疑問を抱いていないのだろうか。
副住職の話からちょっと離れる。イエズス会の宣教師ヴァリニャーノの『日本巡察記』を思い出した。宣教師から見た戦国時代の世、日本人観を綴ったもの。その中に、仏教について記した部分がある。
簡単言うと次のようになる。
南無阿弥陀仏と唱え、阿弥陀や釈迦の功徳を信じればその罪は浄められる、と僧侶は説いている。これはルーテル(マルティン・ルター)の説と同じである。ところが日本の僧侶たちは来世を信じず、現世での享楽をもとめ、多額の布施や寄進で財をなしている。
痛烈な批判である。そうした僧侶がいたことは事実だろうが、すべてがそうだったわけではない。さらに言えば、カソリックだって似たようなもので、教会の堕落が宗教改革につながった。
前に戻って副住職はエッセイをどう結んでいるかであるが、それはYouTubeをご覧いただきたい。堀部遊民で、ヒットする。遊民は本名である。
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