『村山新治、上野発五時三五分』
月刊誌「一冊の本」に『村山新治、上野発五時三五分』の小さな広告が載っていた。サブタイトルに「私が関わった映画、その時代」とある。
村山新治は今年2月、98歳で亡くなった映画監督で、その回想録である。これは読んでおきたい。図書館に置いてあった。さっそく借りて読んだ。発売されたのは3年前。存命中に発刊されている。
終戦後の復興期、映画は隆盛を極めた。撮影現場は活気にあふれていた。スタッフは封切りに間に合うよう、無我夢中で動き回っていた。フル稼働の日々だった。
村山は1951年、東映のチーフ助監督となり、監督に仕えた。チーフの役割は、監督の意を受け、キャストやスタッフをとりまとめて撮影の段取りをつけることだった。トラブルや予想外のことが起きるのは当たり前、そこをなんとかくぐり抜けていく姿が描かれている。
今井正監督の「ひめゆりの塔」の撮影は遅れに遅れた。そのあたりが詳しく紹介されている。最後につながったラッシュを見て驚いたと記している。最初に撮った分と後半に撮った分で、誰もが痩せこけ別人のようになっていた。撮影が過酷だったことがわかる。その甲斐もあり、映画は大ヒットした。
57年、35歳の時、監督になる。最初の作品が「警視庁物語 上野発五時三五分発」。このシリーズは24本撮られているが、うち7本が村山作品である。「無法松の一生」も撮っている。三国連太郎が主演。阪東妻三郎や三船俊郎ものが有名だが、村山作品もそれらにひけをとらない。小森のおばちゃまから、グランプリ作品に勝るとも劣らぬ出来だといわれたそうだ、ついでに言うと、三国連太郎はエゴイストの塊のような男だったと評している。
67年から徐々に活躍の場をテレビに移す。テレビ映画は「ザ・ガードマン」や「キイハンター」シリーズなど、つくった作品は延べ240本になる。
戦後の劇映画、テレビドラマの世界を駆け抜けてきたわけで、その軌跡は日本映画界の歴史でもある。
映画に関心がない人には、どこがおもしろいのかと言われるかもしれないけど、ゴシップを含め、へー、そうだったのかというエピソードがいくつも拾える。
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