立ち話の効用
コロナパンデミックで人との交流が減った。
ソーシャルディスタンスとやらで人との距離をおかねばならない。しかもマスクをして。まあ、大丈夫だろうと思っても、相手はそうは思わないから仕方なく距離を置く。アクリル板越しのやりとりになるときもある。
で、どうなったかというと、孤独感が強まったとか、うつが増えているとか、マスコミは伝えている。そりゃそうだろう。おしゃべり人間でなくても人は会話に飢えている。
雑談や立ち話の効用も説かれている。不要不急を説く世になってようやくそれに気づいたということか。遅いぜ。
今はどうなっているか知らないけど、たばこ部屋である。禁煙運動の高まりで、喫煙室は閉鎖されたり、屋外に押しやられたりしている。公共の場も喫煙が禁じられている。新百合ヶ丘駅前も禁煙である。わずかにタクシーロータリーのわきに喫煙コーナーがあるだけだ。
わたしはたばこは吸わない。むかしは吸っていた。あのたばこ部屋というのは悪くなかった。仕事に一区切りがつくと、たばこ部屋に行った。ぼんやり吸っている奴もいれば、生き生きと談笑している連中もいる。たわいもない情報が飛び込んでくる。うわさ話もある。上司の悪口もある。貴重な情報はまずないけど、それでも、ふーんと感心するものもある。飲み会の約束もできたりする。それはそれで悪くはない。なかにはたばこは吸わないけど中に入ってくる奴もいる。立ち話に加わりたいのだ。
長くはいない。5分か10分のことだが、ニコチンとともに雑情報も吸い込むのだ。一服とはリフレッシュの場でもある。
そういう場をたばこの害だけの理由で撤去するのはもったいない。缶コーヒーの自販機でも置いて、ちょっと休憩、そんな場があってもよい。
わがマンションは共有部分は全面禁煙である。ベランダで吸うことも禁じられている。マンションができた当時、庭の片隅に喫煙コーナーをつくることを提案したのだが、賛同は得られなかった。なにアホなことを言うのかという反応だった。
喫煙コーナーがあれば住民同士の交流の場にもなるのにと思うが多勢に無勢である。
きょうは母の日。花屋の前には行列ができている。
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