『やっと訪れた春に』
前立腺肥大で薬の世話になっている。手術しなければならないほどではないけれど、尿に勢いはない。歳をとれば致し方ないか。70過ぎれば多くが前立腺肥大症になる。成人の二人に一人がガンになると言われるが、それより確率は高い。もちろん男だけのことだが。
尿漏れも聞く。おもらし。トイレに駆け込む前に漏らしてしまう。そこまでには至っていないが、我慢できる限度が下がっているのを感じる。いずれは尿漏れパンツのお世話になるかもしれない。
橋倉藩藩主の近習目付である長沢圭史は、城の堀に落ちる。我慢できずにお漏らしをしてしまったのを隠すためだった。67歳だった。圭史は致仕至願いを出す。
青山文平の小説『やっと訪れた春に』の冒頭である。もう一人の近習目付の団藤匠とともに藩を支えてきた。藩には二つの門閥があった。対立を避けるため、藩主を襷掛けにするようにしてきた。これまでなにごともなく続いてきた。うまくいってきた。
圭史は肩の荷を降ろした。息子二人は早逝し、妻も亡くし、一人暮らしだった。庭の木になる梅で梅干しをつくるという暮らしになった。「やっと訪れた春」を楽しむ鶯のようだった。
藩の重鎮が殺されるという事件が起きる。引退後のゆったりとした生活を迎えるはずだった。そうはならないのが、この手の小説の常套である。
いるかいないかわからないもう一人の存在が浮上し、圭史は謎を追うことになる。圭史は行動的ではない。思弁的というか、たえず思索する。その思考が本書の多くを占めている。
作者はわたしとほぼ同い歳。前立腺肥大を抱え、一方で尿漏れを懸念していると勝手に想像する。
致仕した理由の尿漏れであるが、さしあたって心配することはない。袴なら小用に手間取る。着流しならすぐにチン君を取り出すことができる。しばらくは、ウグイスのように啼ける。
小説の本筋とは離れた独書感想になってしまった。
ついでのひとこと
暮れに矢崎泰久さんが亡くなった。雑誌「話の特集」の名編集長であった。1970年代80年代、わたしは大変お世話になった。これほど優れた雑誌にはそれ以降出会ったことはない。ピカピカの月刊誌だった。このことについては以前にも書いた(『人生は喜劇だ』を紹介 2020/12/18)ので、ここでは繰り返さない。ああいう雑誌にもう一度お目にかかりたい。
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