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2023年6月

2023年6月29日 (木)

「逃げきれた夢」

「青いカフタンの仕立て屋」を観るつもりで新宿武蔵野館に出かけた。が、心変わりして光石研主演の「逃げきれた夢」を観ることにした。武蔵野館で上映中の「遺灰は語る」「青いカフタンの仕立て屋」は8月にはしんゆりでやる。ならばあせってここで観ることもない。「逃げきれた夢」はたぶんしんゆりではやらんだろう。

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 定時制高校の教頭の末永は50代後半。妻との関係は冷え切っている。娘もうざいという感情を露骨に父親に向けてくる。学校では張り切っているが空回りしている。定食屋では金を払わず、店を出てしまう。記憶があやしくなっている。現実にめげずに頑張っているが、もう限界が近づいていることを自覚する。

 そんな末永の姿をたんたんと描いている。目まぐるしいカットなし。音楽は流れない(エンドロールで少し流れるだけ)。

「後悔しないようにやっていく。いや、してもいいか」といったセリフがある。末永のそうした煮え切らない生き方をそれでいいのではないかと肯定する。いや肯定も否定もしていない。

 光石研らしいダメ男の役回りである。セリフもいっぱいある。

 タイトルの「逃げきれた夢」という意味がわからない。日本語としておかしいけど、ま、深く考えないことにしよう。

 

2023年6月27日 (火)

「聖地には蜘蛛が巣を張る」

 イランの聖地マシュハドを舞台にした映画。といってもイラン映画ではなさそう。監督はイラン出身のアル・アッパジだが、主演のザーラ・アミール・エブラヒメはフランスに亡命している。ストーリーもイランでは上映できないような内容だから、たぶんイラン以外で撮影されたものと思われる。製作はデンマークなどヨーロッパの国が名を連ねている。

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 マシュハドで連続殺人事件が起きる。被害者は娼婦(街娼)。手口は同じで、ヒジャブで首を絞められている。犯人からの犯行声明が出されているが、警察の捜査は鈍い。「蜘蛛殺し」と名付けられた殺人鬼の犯行はさらに続く。

 女性ジャーナリストのラヒミ(ザーラ)はマシュハドを訪れ、取材を始める。警察の捜査はあいかわらずで、協力的ではない。取材中にも犯行が繰り返される。

 映画では、初めから犯人を映し出している。犯行の残忍さも映し出す。上映時間の三分の二ほどのところで犯人は逮捕される。これで決着、エンディングかと思いきや第二幕がある。犯人は無罪だとするグループもいて、裁判所に抗議の声をあげる。警察や司法の動きのも首を傾げる。これがイラン流なのか、日本では考えられないような展開となる。

  実際に起きた事件をもとに作られたということだが、どこまでが事実かはわからない。イランという国の現状はこんなものだと言われるとそうなのかなとも思う。特に犯人の息子の言動が不可解。

  見どころは後半。予想外の展開。おもしろい。

2023年6月25日 (日)

しんゆり寄席  トリは鯉八

 しんゆり寄席のチラシに、新作落語の説明書きがあった。

「江戸~昭和時代にかけて作られた演目を古典落語と呼ぶのに対し、新作落語は戦後に作られた演目。現代の感覚にもとづいて作られているため、分かりやすい、親しみやすいのが特徴です。」

 これって変。昭和は戦後40年以上続いている。昭和は戦前で終わっているような書き方だ。チェック不足だな。もうひとつ、新作落語が分かりやすく、親しみやすいわけではない。たとえば瀧川鯉八とか立川吉笑の新作などシュールで、私はついていけない。談志の言うイルージョンなら多少わかる。

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 その鯉八がゲスト出演するしんゆり寄席に出かけた。師匠の瀧川鯉昇は、鯉八の芸風を、うちは放し飼いですからと突き放していた。

 でも、まあ、真打になったのだから、古典も、分かりやすい新作落語もやるようになったのだろうと変貌ぶりを確かめたい。

 先だって、ラジオで鯉八落語を聴いた。ウサギの飼育を誰がやるのか決める小学校の話。タイトルは「多数決」。これはわかりやすくなっている。成長を感じさせる。

 満員だった。いつもは半分も埋まらない。鯉八人気が沸騰しているのか。まさか。担当者き聞いてみると、今回は団体客が入ったからとのこと。納得。

 今回の演者と演目

  桂米多朗   犬の目

  初音家左橋  青菜

  瀧川鯉八   若さしか取り柄がないくせに

  せんだって、ラジオで鯉八の「多数決」という新作落語を聴いた。夏休みのウサギの世話を誰がやるのかという話。これはわかりやすく、内容も良かった。

  今回は、金沢まで寿司を食べに行ったという話がマクラ。駅の構内にある「もりもり寿司」で寿司を食べてくるだけの旅行だった。笑えた。もうひとつ、尿管結石になったという話。これもおもしろい。会場は爆笑だった。

  ところが、本題の「若さしか取り柄がないくせに」に入ると、わけがわからない。会場(高齢者が多い)も静まり返っている。このギャップはなんだ。おばあちゃんが登場する話なのだが、中身はシュール。年寄りにはムリだな。

  鯉八の出囃子は「悲しくてやりきれない」である。半世紀前の昭和歌謡というかフォークソング。これはわかりやすい。

2023年6月23日 (金)

 セネカ  怒りについて

 映画「ぼくたちの哲学教室」の中で、怒りについてディスカッションするシーンがある。校長先生はセネカについてふれる。わずか1分ほどの場面である。ちょっと気になったので、セネカの『怒りについて』を図書館で借りて読んでみた。

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 ざっと読んで、落語の「天災」と同じじゃないかとうのが率直な感想だ。セネカは怒りとは何かというよりも怒りを鎮める方に重きを置いている。

 落語の「天災」を簡単に紹介すると、紅羅坊奈丸という心学の先生が、短期で喧嘩っ早い乱暴者の八五郎に、ならぬ堪忍するが堪忍、堪忍袋が破れたら、破れたら縫え、破れたら縫えと諭す。たとえ話をし、災いがあっても、それは誰のせいでもない、天災と思えと説く。

 そうやって怒りを鎮めよという噺。天のせいとはなかなか納得できないかもしれないが、それもひとつの方法、ちょいと思い出すとか、それなりの訓練をすれば怒りの爆発を抑えることができる。参考になる。

 ということはさておき、地元のアートセンターでも「ぼくたちの哲学教室」をやることになった。地味なドキュメンタリーだから新百合ヶ丘ではやらないと思ってわざわざ渋谷まででかけたのに・・・。

 でも、まあ、それもよい。いい映画だからもう一度観るチャンスができたと思えばよい。天災ではなく、天の采配。

2023年6月21日 (水)

「渇水」 映画評

 井上淳一という映画評論家がいる。監督もやり脚本も書いている。

キネマ旬報」に映画評価のページがある。多くの映画関係者が寸評と評価点を載せる連載記事である。評価点は★で示す。★一つから5つまで5段開評価で、★★★★★なら大傑作、★なら駄作となる。

 一人が4つの映画の評価をするわけだが、井上淳一の点数が異常というか変わっていた。「怪物」「波紋」「美男ペコパンと悪魔」が★一つなのだ。「怪物」は是枝監督作品、カンヌで脚本賞をとっている。それを★一つとは! ひがみか。それとも是枝監督への恨みでもあるのか。「波紋」も★一つということはない。いずれも高水準の映画である。(「ペコパン」は観ていない)

 それに対し「渇水」には最高点の★5つをつけている。この落差はなんなのか。

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 その「渇水」を観てきた。まもなく上映終了となる。さして人気にはなっていないようだ。

 前橋の水道局ではたらく岩切(生田斗真)が主人公。料金を滞納する家庭を回り、未払いが続くと水道を停めるのが仕事。未払いの母子家庭がある。そこも停めなければならない事態となる。母親は育児放棄状態、幼い姉妹はわずかな金で食いつないでいる。

 岩切は妻とは別居状態にある。息子と会いたいが会えない。別居に至る理由はわからないが、岩切の煮えにきらない性格にある。ダメ男なのだ。

 そのダメ男を生田斗真が演じる。違和感がある。斗真はイケメンである。ダメ男が似合わない。この役にふさわしい俳優はいっぱいいると思うが、どうなんだろう。

 映画は、ゆっくり進む。これはわるくないけれど、なんとなくたるい。ふつうの出来で、井上が言うような★★★★★の評価はできない。せいぜい3つぐらいか。

 なぜ「怪物」をさしおいて、高い評価をしたのか。ひとつ考えられるのはこの映画のプロデューサーである。白石和彌。白石は井上のお仲間である。たぶんそれへの配慮というか忖度ではないか。そう睨んでいる。

 

2023年6月19日 (月)

「幻滅」

 昔からステマ(ステレスマーケティング)はあった。いわゆるサクラである。

小学生の頃、お寺(名古屋の大須観音)の境内での薬売りでそれを知った。なるほど、そうやってヒトの気持ちを誘うのかと感嘆した。うまいことやるもんだ。ずるいとは感じなかった。

 近頃では、グルメサイトの評価をあげるために金を支払って云々というニュースを耳にする。しばし問題となるが、これもサクラである。ちょうちん記事ならわかりやすいが、巧妙なサクラは見つけにくい。いまも続いているのだろう。

 アートセンターで「幻滅」を観てきた。

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 バルザックの『人間喜劇』の中のひとつ「幻滅」を映画化したものである。原作は読んでない。

 19世紀前半が舞台となる。詩人として身を立てようとする青年リュシアンはパリに行くが、虚飾に満ちた世界にはまり、やがて挫折するというストーリー。小説や映画にはよくある話である。

 新聞記者の紹介で、新聞に劇評や書評を書く仕事をもらう。そこは虚飾に満ちたというか金でどうにでもなる世界だった。

 演劇ではサクラを雇ったり、ちょうちん記事を書かせたりして評判をとる。ライバルの劇にはブーイングの客を潜り込ませたり、酷評を書かせるよう仕組んだりする。すべて金である。金のためならヨイショはあたりまえ。

 笑っちゃうのは、拍手のような音の出るからくりまで登場する。これを鳴らして拍手を増幅させる。リュシアンは、おたいこ(幇間)記事を書く記者として演劇や出版の世界を泳いでいく。このあたりは、めまぐるしいが、テンポがよいともいえる。当然のことながら、挫折、転落とつながっていく。タイトルのとおり幻滅なのだ。栄光(とまでは言えないけど)と挫折の展開はおもしろい。

 ということで、のちのフランス革命を予言するかのような上流階級の自堕落な世界を描いている。

  現実に戻って、映画評にはけっこうだまされる。ちょうちん映画評である。文句を言いたいけど個人の見解ですと返されるだけだろう。

2023年6月17日 (土)

ひのきやまPARKイベント

 つゆの合間、晴れとなった。新百合ヶ丘駅近くの檜山公園で「みんなでつくるこれからの公園風景」と題したイベントが開かれた。

 公園という公共空間を利用して街のあらたな魅力づくりを探っていこうとする企画である。

 公園下の空間はかつて住宅展示場だったが、テニスコートとフットサル場(現在建設中)となっている。ここは、たぶん地下鉄の駅になると推測しているのだが、どうなるかはわからない。

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 映画祭の出店内容は、ソーマトロープづくりを楽しんでもらおうというもの。ウチワの両面に絵を描き、それをくるくる回して遊ぶ。残像効果により違ったように見える。素朴なアニメである。子ども向きだが、大人も遊べて、人気がある。

 さて、はなしは変わって、新型コロナ。5類に移行し、コロナは終息したような雰囲気となっているが、実際には感染者は増えている。

 5月以降、何人かの知人が感染している。一人は、治ったものの一週間ほどして肺炎になった。一カ月以上の入院となった。コロナと関係があるかは不明だが、からだが弱っていたことは間違いない。もう一人は40度の熱が出た。すぐに治まったが、のどの痛みが続いているという。その他の感染例をみると、会合(宴席)での感染が多いようだ。

呑み会は、換気のいい場所とか、檜山公園のようなところでやったほうがよい。

2023年6月15日 (木)

大泉黒石は大泉滉の父親だった

 大泉黒石についての本が二冊出版された。

 四方田犬彦による評伝『大泉黒石 わが故郷は世界文学』と黒石自身の『俺の自叙伝』。いずれも岩波書店が版元である。

 大泉黒石といっても知らない人が多いだろう。私も知らなかった。大正から昭和にかけての小説家である。

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 四方田の著作は雑誌「図書」に連載されていた。たまに読むことがあったけど、印象は薄い。ところが載っていた黒石の写真を見て、えっ! と、驚いた。髭をはやしたその顔が大泉滉とそっくりなのだ。大泉滉といっても知らない人が多いだろう。若い人はほとんど知らない。昭和のコメディアンである。

 とぼけた風貌。いじられキャラ。けたたましく鳴くニワトリを演じたりして、可笑しかった。由利徹と並んで私の好きなコメディアンだった。

 似ているはず。黒石は大泉滉の父親だった。黒石の父親はロシアの外交官。日本で結婚して黒石は生まれた。つまり露系二世。滉は三世になる。

 大正時代には人気小説家になった。『俺の自叙伝』はそのタイトルのとおり自らの人生をまとめたものだ。

 これが驚きなのだ。文体がポップというか、やんちゃ。かしこまっていない。冒頭でこう書いている。

 「これほど図辻々々しく自慢が出来なくっちゃ、愚にもつかぬ身の上譚が臆面もなく出来るものじゃない」

  威勢がよい。居直っている。

  簡単に略歴を記すと、長崎で生まれるが、すぐに母親は死んでしまう。父親とともに中国にわたる。ここでは父親が死亡。叔母に連れられロシアに行く。父親のふるさとにはトルストイが住んでおり、トルストイ爺さんと会っている。その後、パリなどで暮らし、再びロシアに戻るが、ロシア革命が勃発。兵隊に追われあやうく命を落としかける。なんとか生き延びてロシアから逃げ出す。ようやく日本に戻って学校、三高に入学するが、勉強はしない。

  文章も書き始めるが、売文生活はうまくいかない。このころ結婚。豚の革の染色とかで喰いつなぐが、取り巻きも貧乏人ばかり。最後は、やはり筆で身を立てるしかない。自叙伝はそのあたりまでを書いている。本書が出版されたのは1926年、33歳のころ。早すぎる自叙伝、というより青春放浪記である。

 黒石は虚言の作家と言われたそうだ。嘘が上手、虚言がおもしろいといことは小説家としての素養があるということだ。本自叙伝も虚言の延長にあるものと思われるが、それはそれでよい。労働者時代を描いた章がとりわけ面白い。

2023年6月13日 (火)

 ダーク・ウォーターズ  水質汚染

  PFAS(ピーファズ)が騒がれるようになっている。

 PFASとは有機フッ素の一種。多摩地区では地下水から高い濃度のPFASが検出され、住民の体内での残留量も他の地区よりも数倍高くなっている。いまのところ健康被害は出ていないが、住民にとってはちょっと不安なことである。

 原因は、米軍基地(厚木)のタンクからPFASを含んだ泡消火剤が漏れ出たものと推察されている。沖縄の米軍基地からも同様な事例が報告されている。

 有機フッ素は人工的に作られたもので、テフロン加工などにつかわれてきた。それを混ぜた泡消火剤は、航空機燃料火災につかわれる。ふつうのものより消火効果が高いのだそうだ。

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  この有機フッ素についてはアメリカでは30年以上前から社会問題となっているが、日本では知られていなかった。有機フッ素を扱った映画が日本でも公開されたている。その映画を観ればおよそのことはわかる。当ブログでも、その映画(ダーク・ウォターズ)を紹介している。2022年2月1日、1年半ほど前のことだ。

 興味深いのは、裁判沙汰である。

テフロン加工を開発したのは化学メーカーのデュポン。デュポンの工場の廃棄物により農場や河川が汚染され、100頭もの牛が死んだ。訴えようとしたのだが協力者がいない。駆け込んだニューヨークの弁護士事務所の弁護士がようやく訴訟を支援してくれることになった。

相手は世界的な大企業。工場はデュポン城下町になっている。被害者であるはずの住民はデュポンの従業員であったり、出入り業者であったり、デュポンなしでは暮らせない人ばかりである。地道な調査を続け、ようやく集団訴訟にこぎつけたのは7年後であった。

この映画、レンタルで観ることができる。関心のある方はぜひ観ていただきたい。

日本の多摩地区での汚染問題。相手は米軍基地になるのか。大きな壁である。政府は動かないだろう。訴訟はともかくとして、原因の追及、汚染防止策は早急にやってもらいたい。

2023年6月11日 (日)

 フランス映画を続けて二本

 このところというか、ずっとと言ったほうがよいか、せっせと映画館に出かけている。新百合ヶ丘にはシネコンとミニシアターがある。郊外の街では珍しい。散歩のついでにコーヒーショップに立ち寄るような感覚で映画を観ることができる。

 アートセンターで続けて二本観た。

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「アダマン号に乗って」

 パリ、セーヌ川に係留されている木造船アダマン号は精神を病む人たちのデイ・ケア・サロンとして利用されている。そこに集う人たちを描いたドキュメンタリーである。

 病名は語られないが、統合失調症の患者が多いように思われる。同じ病気でも症状はまちまち、重い人もいればそうでない人もいる。薬で症状をコントロールできている人もいれば、日によって気持ちに波がある人もいる。

 ドクターとかセラピストがどのくらいの力を発揮しているかわからないけど、患者はみずから積極的にこの船にやってくる。船の中ではそれぞれが役割をもっており、それを果たそうとしている。大切な憩いの場になっているのは間違いない。

 映画は患者の声を拾う。それに徹している。声高に何かを主張しているわけではない。

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「午前4時にパリの夜は明ける」

 80年代の初め、エリザべート(シャルロット・ゲンズブール)は離婚し、二人の子どもと暮らすことになる。ラジオの深夜番組のパーソナリティの仕事に就く。リスナーとのおしゃべりである。ある夜、ひとりの家出少女タルラを街で見かけ、家に連れて行く。短期間なら居てよいと空き部屋に住まわせる。タルラは息子や娘と同世代である。仲よく4人で暮らすことになる。

 タルラは、それでも居心地の悪さを感じたか過去を引きずっているのか、突然、なんらの挨拶もなく家を出て行く。そして数年後、といったストーリーである。

 家出少女といえばトー横に集う若い娘を思い浮かべる。家庭が満足に機能していないとか、家には居たくない事情を抱えている。危なっかしい。タルラもそれと重なる。何かできるかといえば、大したことはできない。ささくれだった気持ちを癒すことはできない。

 いま、ラストシーンを思いだそうとしているのだが、あれっ、どうだったのか、浮かびあがってこない。ぼんやりしていた。

映画はエリザべートのあらたな恋を並行して描いている。80年代のフレンチポップス(シャンソン)が流れる。知らない曲ばかりだが、やさしく響く。

 ついでのひとこと

 いろいろ映画を観ていると、ほかの映画と混同することはないかと訊かれることがある。

 そんなのはしょっちゅう。タイトルを聞いても、さてどんな映画だったか、筋を思い出せないといったことがある。記憶は薄れていく。だからブログで思い返せるようにしている。昨夜の献立を忘れるのと同じですね。

2023年6月 9日 (金)

生田寄席 三遊亭白鳥

 三遊亭円丈亡き後、新作落語の第一人者は三遊亭白鳥である、と言ってよい。

 今回の生田寄席の演者は、その白鳥である。いつものような出で立ちで高座にあがると、マクラで、新作落語のトップに立つのは、わたくし白鳥です、と語った。自分で言うなよ!

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 きょうはなにを演るのか。「任侠流山動物園」あたりかと予想したが外れた。

 高座にあがると客席を眺めながら(年寄りの女性が多い)、なにを演ろうか、探っているようであった。演じたのは30年前ぐらいにつくったという「ギンギラボーイ」だった。

 薬局の店主が、適当な精力剤というか、いいかげんなドリンク(ギンギラボーイという名前)というナンセンス噺である。30年前の世相の中に現在のギャクを織り交ぜるという趣向。これが観客に受けた。

 もう一席は、その雰囲気にあわせて「隅田川母娘」。この噺は初めて聴く。タイトルもわからない。あとでその名を知った。

 12年前につくったものという。皇室ネタ。皇室ネタといえば快楽亭ブラックがよく演る皇室を笑いの対象とするものではない。ある高貴家庭の母と娘が浅草の屋台で串焼きとホッピーを味わうというハートウォーミングな噺である。

  とはいえ、そ皇室ネタを嫌う連中もいるので、滅多なところではやらないのだそうだ。もちろんネット配信などもしない。心の広い人が集まり、それも少人数の場所でしかやらない。

 大いに受けた。貴重な噺を聴くことができた。

 アタシは今月末が誕生日。ホッピーで祝うか。ホッピーバースデー!

2023年6月 7日 (水)

週刊新潮が完売

 有隣堂の平台に先週号の「週刊新潮」が大量に積み上げられていた。今週号は隣におとなしく並んでいる。POPには「先週号は発売と同時に売り切れました。急きょ取り寄せました」うんぬんとかかれてある。

 先週号に麻生区の平均年齢が男女とも全国1位になったという記事が載った。これが売り切れた理由。たぶん新百合ヶ丘店だけの現象だろう。

 この号は病院の待合室で読んだ。記事としては1ページ程度であって大した内容ではない。しかし麻生区民としては平均寿命全国一はうれしいトピックである。地元自慢。おしゃべりの話題にしたい。記念にとっておこうという人もいるだろう。

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平均寿命が長い理由はいくつもあげられているが、逆に、寿命の短いところにも気がいく。大阪の西成が低い。県だと青森。西成の平均寿命が短いのはなんとなくわかる。低所得層が多いから。

 低いところは食生活が貧弱である。カップ麺インスタント麺の消費量が多い。寿命との相関関係はあるのだろう。

 もうひとつ、「週刊朝日」の最終号も即完売となった。これは全国的な現象。最終号ぐらいは買っておこうと思ったが、同じ思いの人がたくさんいたようで手に入れることはできなかった。

サンデー毎日」がライバル誌にエールをおくっていた。人気の連載「似顔絵塾」は「サンデー毎日」に移管になるという。

 休刊と言っているが、終刊と表現するのが妥当だろう。休刊のものが再刊された例はない。あるかもしれないけれど、まずない。 

「週刊朝日」に連載中の一之輔のコラムは「AERAdot」に引き継がれるとのことである。

2023年6月 5日 (月)

怪物は〇〇だ。

 是枝裕和監督の「怪物」を観てきた。カンヌで脚本賞をとった作品である。

 予告編では、三つの視点というか立場から描いた映画だと紹介していた。ということは黒澤明の「羅生門」のような映画ということか。

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 事故で夫を亡くしたシングルマザー(安藤サクラ)は息子が教師から暴力を受けたと学校に抗議する。学校の対応はひたすら頭を下げるだけ。なんともふやけた反応にいらだつ。

 これが教師(永山瑛太)の立場で描くとずいぶん違ってくる。教師は快活で、生徒から人気がある。観客は戸惑う。どっちが本当なのか。誰が嘘をついているか、と。

 三つ目は息子の立場である。発達障害的な友達がいる。こちらはシングルファーザーの家庭である。雨に中を出かけ、秘密基地のような不気味な空間で遊ぶ。だからといって、何かが解明されるわけではない。

 校長先生(田中裕子)もおかしい。最初は覇気のないぼんやりした人物なのだが、後半ではふつうの俗物的な存在となる。

 わけがわからない。すっきりした結末を期待しているわけではないが、狐につまれたような感覚におそわれる。

 映画の後、妻と一緒に観たのだが、妻からひとつの指摘があった。えっ、そうだったの。私は気づいていなかった。気づけば(気づきにくいが)少年の不可思議な行動は伏線だったのかといくぶん腑に落ちる。脚本のうまさだが、誰もが理解できるわけではない。

 とすると、この映画でもっとも怪物と言えるのは○○じゃないか。○○である根拠をあげたいところだが、それはネタバレになってしまうから言えない。もどかしい。

 映画を観た人と、私が気づかなかった場面についておしゃべりしたい。この脚本の優れたところとわかりにくいところなどを。

2023年6月 3日 (土)

ユーロスペースで哲学教室

 久しぶりに渋谷に出かけた。ル・シネマで映画を観て以来である。東急デパートが取り壊しとなり、ル・シネマもなくなった。

 東急の道路を渡り、ちょいと入ったところにラブホテル街がある。一度も利用したことはない。今後も死ぬまで利用することはない。死んでからもない。くどい!

 ホテル街の前にユーロスペースがある。シネマヴェーラと同じ建物。そこで「ぼくたちの哲学教室」を観てきた。

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 北アイルランドのベルファストにあるカソリック系の男子小学校を舞台にしたドキュメンタリーである。ここでは哲学の授業がある。哲学といってもプラトンとかカントを学ぶのではない。人生に対する心構えというか、生きていくための的確な判断力を養うための授業である。

 校長先生が教える。授業というより、ファシリテーターとなって、なぜ学ぶのか、不安を感じるのはなぜ、どうしてケンカをするかなどを話し合う。質問し、答えを聞き、コンセプトボードに書きだす。そして、そう思うのはなぜかを問うていく。ざっとこんな調子。

 子どもたちは、いろいろな意見があることを知る。そして、みずから判断する能力を身につけていくが、十分ではない。ケンカやいじめもある。授業外で、なぜケンカを繰り返すのかを当事者である子供に問う。この背景にはアイルランド紛争がある。

 アイルランド紛争はカソロック系とプロテスタント系住民の合意により収まっているが、再発の火種は残っている。親の世代は紛争の当事者である。心の中には、やられたらやり返せという対決意識が染み着いている。それが子どもにも影響を与えている。

 シリアスであるけれど、校長先生のユーモアがそれを救っている。校長先生はプレスリーの大ファンである。部屋にはプレスリーのフィギュアがある。電話の着信メロディは「監獄ロック」。授業中にこれが鳴る。

 で、ふりかえって我が国。この小学校のような授業はあるのだろうか。授業の実態を知らないから何か言える立場にはないけれど、聞こえてくるのは、教師は忙しすぎて、過労死直前、それどころじゃないという声ばかりである。

 ゆとり教育をバカにしたが、ゆとりをもった哲学カリキュラムも必要ではないか。さらに、当然のことながら、教師の育成も。

 映画「ベルファスト」はアイルランド紛争の始まりの頃を描いていた。あれの登場するおじいちゃんやおばあちゃんは、哲学の素養を身につけていた。

 ついでのひとこと

 怒りについて話し合う場面がある。怒りを鎮める方を児童に問う。それらがセネカの考えと重なるかを説明する。なるほど。子どもらは賢い。

セネカの著作は読んだことがない。機会があれば「怒りについて」を呼んでみよう。

2023年6月 1日 (木)

罪悪感

 テレビなどで「罪悪感」という表現をしばしば耳にする。「ダイエット中の人でも罪悪感なしで食べられます」とか。 

 カロリーが高くても、気にせず食べることができる。このぐらいなら、ま、許容範囲のうち、あるいは自分へのご褒美ぐらいの気持ちでいられるということだろう。

 罪悪感という表現には違和感がある。道徳とか宗教規範にはずれる場合に用いられるのがふつうだが、カロリーの過多摂取程度のことで使うのはおかしい。単に、節制できないだけである。軽すぎる。

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 自分へのご褒美ってもの、月に一度程度なら理解できるが、連日のご褒美は、怠慢にしかすぎない。

 大量のゴミを発生させたり、不法投棄するなど、SDGsに大きく反するなら、罪悪感はぜひ抱いてもらいたい。

 別腹ってのも、おかしい。 

 酒は? 2合までなら、健康長寿の内。

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