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2023年11月

2023年11月30日 (木)

 アンチ・ストレス・ソフト

 パソコンを買い換えた。

 古いパソコンは反応が鈍くなった。カメのようにトロい。場面がなかなか切り替わらない。イライラする。ストレスがたまる。で、買い替え。同じNECのパソコンにした。

 新しいパソコンは早い。スラスラ、サクサク。ところが、三日目ぐらいでマウスが動かなくなった。ポインターも消えた。あれこれやってみたがダメ。ノジマに相談した。とりあえず店に持参して、店の担当者とあれこれいじってみた。すると突然回復した。原因は不明だが、そのときウイルスソフトをアンインストールした。このソフトがブルートゥースのじゃまをしていたのではないかと推測した。ほんとうの原因はわからない。

 家に帰り、ふたたびパソコンに向かったのだが、うまくいかない。またマウスがダメ。右クリックと左クリックが逆になっている。そこで「設定」→「デバイス」→「マウス」で左右逆になっているのを確認し、逆に戻した。これで直った。やれやれ。ストレスがたまる。

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 この歳になると思うようにいかないことが多くなる。イライラするのだが、たいていのことは歳だとあきらめるようにしている。無理をしないことだと自分に言い聞かせている。

 ラーメン屋では並ばない。並ぶほどの価値はないとあきらめる。人混みにはいかない。面倒なことはしない。頭はつかわない。脳トレがボケ防止になるというけれど、さて、どうだろう。脳トレ程度でボケが治るとか進まないなら高価な認知症薬はいらない。活字の小さい雑誌や本は読まない。努力しない、我慢しない。節約しない。

 似合わぬことは無理をせず、である。といったようなことでストレスを貯めぬようにしている。ボーっとするのがよい。適度のわがままもよい。そして少々の酒。

 アンチ・ストレス・ソフトをインストールすることが、年寄りには必要だろう。 

2023年11月28日 (火)

『死生観を問う』

 浄土とか常世と呼ばれるものは西の方にあると信じられてきた。西方浄土であり、海の彼方か陸続きかはともかくとして西の方角である。

 なぜ西なのか。おそらく夕陽と関係があるのだろう。夕陽が沈んでいくシーンはなんとも美しい。太陽がわずかに動いていることがわかる。陽は沈み、やがて陽の光は衰え、暗くなっていく。そこになんとなく永遠を見る。浄土とストレートにつながっていくかどうかは個人の思いだろうが、方角としては西だろう。金子みすゞは、昨日流した燈籠は西へ西へと海と空のさかいまでと書いている。

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 島薗進の『死生観を問う』を読んでいる。目が悪くなったので、読むスピードも読書にかける時間も減った。ゆっくりである。この本は朝日新聞の月刊誌「一冊の本」連載されたものをまとめたものである。連載中に読んでいるが、ほとんど忘れてしまっている。記憶に残っているのは少ない。

 詩歌や古典物語を手がかりして、日本人の死や生についての思い、死生観を解説したものである。多岐にわたっているが、本書の趣旨からすると隅っこになるが、ひとつだけ記しておく。

万葉集にある大伴旅人の酒を詠んだ歌である。雑誌で読んだときはこういう歌もあるのかと笑ってしまった。

 この世にし楽しくあらば来む世には虫にも鳥にも我はなりなむ

 輪廻などどうでもよい。酒を飲んで楽しければ来世に蠅になろうが雀になろうとかまわない。さあ、飲もう、といったところか。現世を肯定する。そういう死生観もあるということをこころに留めておこう。

  きょうはここまで。書きたいことはまだある。続きは近いうちに。お勧めの一冊です。

2023年11月26日 (日)

ヨーロッパ新世紀」

 急に寒くなった。朝は、凍てつくよう。もう冬。ことしは、秋が短かった。ほとんど秋を感じなかった。

 アートセンターで「ヨーロッパ新世紀」を観てきた。ルーマニア映画である。

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 ドイツに出稼ぎに出かけていたマティアスはルーマニアに帰国するが、居場所はない。妻とはうまくいかず、息子も口が利けなくなっている。昔の恋人シーラはパン工場の責任者で、彼をかまっている暇はない。地元の若者は外国に出稼ぎに行っている。工場は人手不足を補うため外国人労働者(スリランカ人)を雇い入れる。

 これがきっかけで、村には不穏な空気が広がっていく。せっかくジプシーを追い出して平穏になったのに、またよそ者か。アジア人の手に触れたパンは食べたくないと不買運動も起きる。もともとハンガリーとの対立もある。分断が表面化する。

 ヨーロッパだけではなく、移民とか出稼ぎが社会問題となっている。ルーマニアの片田舎でもそれが起きている。

この映画がおもしろいのは、字幕を色分けしていることだ。ルーマニア語はふつうの白、ハンガリー語は黄色、英語は赤色。スリランカ人との会話は赤になる。

 といったことで、格差だの差別が鮮明になる。極めつけは村人の集会である。激論が戦わされる。つまるところは分断である。 

先だって観たイランの「熊は、いない」もそうだったが、森が不気味な暗闇となっている。ひとりでは歩けない危険な場所として描かれている。

 最後の場面はよくわからない。闇の中としたのか、こちらがぼんやり観ていただけなのか。どなたかご教示を。

2023年11月24日 (金)

 ブギウギ 心ズキズキ

 朝の連ドラ「ブギウギ」を観ている。たいていは歯を磨いたり目薬を点けたりしながらであって集中はしていないのだが、それでも手をとめることがある。

 とくにラインダンスの場面がよかった。歌って踊って、チームワークもよかった。一流のラインダンサーの踊りだった。笠置シヅ子は戦後を象徴する歌手だと思っていたのだが、あの場面は私が生まれる前、戦前のことだった。ちょっと意外である。

番組は、まだ戦前、「東京ブギウギ」はまだ生まれていない。

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  戦後、ラジオから「リズム浮き浮き 心ずきずきわくわく・・・」と流れていたのを覚えている。元気な声だった。戦後復興期を象徴するようなリズムだった。

 うきうき、ずきずき、わくわく。四文字がくりかえされるが、なぜズキズキなのかという疑問がわく。ズキズキは傷ついたときの表現である。ズキズキをドキドキに入れ替えた方がよいように思うが、どうなんだろうか。

 ちょいと浮かんだ疑問。どうでもよいか。

 ラインダンスで思い出した。枝雀の「地獄八景亡者戯」に、幽霊のラインダンスという表現が出てくる。「幽霊のラインダンス 骸骨のストリップ」・・・。アナタは想像できますか。

 ついでのひとこと

 このところ、喪中のはがきが届く。家(ファミリー)の範囲があいまいなっていて、家族を飛び越え、義姉だの義兄の父が亡くなったというものもある。ま、年賀状を出すのが面倒くさいということもあるだろう。

 来年あたり、愛犬チャッピーが12歳で亡くなりましたのでといった喪中はがきが届くかもしれない。そういえば、孫よりかわいいと語っていたからねえ。

 

2023年11月22日 (水)

「ロスト キング」

 リチャード三世についてほとんど知識はない。シェークスピア劇に「リチャード三世」があって、悪役、敵役として描かれている。その程度の理解しかない。

 ちょっと調べてみると(といってもウィッキペディア程度であるが)、二人の甥っ子を幽閉して死に至らしめるとか、敵対する王妃一派を粛正したりした。イングランド王となるが、ランカスター派(フランス)との戦で戦死した。32歳で亡くなっている。没年1485年。

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 アートセンターで「ロスト キング 500年越しの運命」を観てきた。まもなく上映終了となるから、客も少ないだろうとおもっていたが、客席は8割がた埋まっていた。人気なんだ。クチコミのせいか。これだと来年アンコール上映があるかもしれない。

 内容は、冷酷非常な王として描かれたシェークスピア劇に疑問を抱いた主婦が、墓地と遺骨探しにのめり込んでいく姿を描いている。

 主演はサリー・ホーキンス。「シェイプ・オブ・ウォーター」で主演した女優。あのキャラ(ちょっとぼんやりしているが意志は堅い)が、そのまま「ロスト キング」の主婦役となっている。

 遺骨探しには多くの壁が立ちはだかる。それを乗り越えていく経過は映画ではおなじみのパターンであって古くさいけど、立ちはだかる人や協力者の描き方はいい。抑制が利いている。

 チラシに彼女の行動を「推し活」だと書いている。そうなんだろうか。よくわからない。画面には、リチャード三世が彼女の前にしばしば幻想として登場する。冷酷非情な王としてではない。冷静で温もりのある王の姿で。

2023年11月20日 (月)

つりばりのようなかしく

 ホストクラブが問題になっている。若い女性がホストに金を貢ぎ、借金をつくっている。その借金は売春で埋めているという。

 想像ができない。ホストに貢ぐのは金持ちの有閑マダムぐらいと考えていたのだが、ちかごろはそうでもないらしい。わからん。

 ホスト側には女性をたらし込むマニュアルがあって、それで、女性をマインドコントロールして借金をつくらせるという仕組みになっている。ぜひそのマニュアルとやらを見てみたい。

 むかしは男が女郎やホステスに金を貢いだ。歌舞伎、浄瑠璃、落語の世界にはそんな物語がいっぱいある。女郎は手紙を書いて男を誘う。男は鼻の下を伸ばして女の元に通うことになる。

 その手練れの手紙で、思い出した。こんな川柳がある。

 つりばりのようなかしくで客をつり

 かしくとは女が手紙の最後に付けることば。さらりと筆遣いは上手い。

 いまはメールだろう。つりばりのような殺し文句があるにちがいない。ま、どうでもいい話だ。あたしにとってはパレスチナより遠い。

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 もうひとつ騒がしいのは宝塚歌劇団である。軍隊的厳格な上下の規律があったということだ。これも想像できない。例年、入学発表のときのニュースが流れる。あのときのに晴れやかなほほえみはどこかに行っちゃうのか。

 宙組(ソラグミ)。グミか。かつて遊郭を苦界と言った。苦界はどこにでも生まれ、存在する。ここも苦界。

 写真はこれとは関係ない。きのう駅前のペデストリアンデッキで行われたお祭り「マルシェ」のでのイベント、小学生のブラスバンド演奏。

ブラバン組だ

2023年11月18日 (土)

熊と夜刀の神

  奈良時代にまとめられた常陸風土記」の夜刀の神伝説がある。

 夜刀はヤトと読む。ヤトは谷戸で、こちらもヤトと読む。低湿地を指す。夜刀の神は低湿地にすむ怪物である。谷戸を開拓すると、夜刀がじゃまをする。人を傷つけたり、ときに殺すこともある。夜刀の神はまむしの化身であると思われる。このまむしを退治すべく武者が乗り出し、夜刀と戦って山に追い払った。そして人の領域(里)と夜刀の領域(山)をわけるよう境界に社を建てて、夜刀の神のたたりを鎮めるようにした。

 まむしを殲滅させたわけではない。境界をつくり、里に出てこないようにしたという伝説である。むかしから里と山の領域を分ける発想はあった。

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 熊の人里への出没が続いている。それで、この夜刀の神伝説を思い出したわけだ。

 熊を駆除すると、一方で殺すなという声があがっている。むやみに殺すこともないけれど、なんにも対策をしないわけにはいかない。こっちに来るなという対策は必要だろう。

 柵を設けるとか、人家に近づかぬよう熊が嫌うガスを噴霧しておくとか、鉄砲だけが策ではない。

 ここ数日、熊の出没のニュースはない。寒くなったからか。まもなく冬眠に入る。なかには腹をすかせて眠るわけにはいかないという熊もいるかもしれない。

2023年11月16日 (木)

『いまだ人生を語らず』

 四方田犬彦はアタシより5つ若い。しかし、これまでの活動や業績は多岐にわたって深い。本書は、これまでなにをし、なにを読み、なにを考えてきたか、人生の後半を記した随想である。

 思索は著作としてまとめられるが、途中で中断したものも多い。それを紹介している。力不足で書きあぐんでいるうちに時が過ぎていまったと記しているが、そういうものだと思うし、著作は多ければよいというものではない。

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 山折哲雄について記した部分が面白い。山折哲雄は宗教学者である。あるとき、四方田は山折に会いに行く。山折から親鸞を読んだことがあるかと問われた。『歎異抄』だけと答えると「あんな短いものはだめ。死後、弟子がまとめたものにすぎない。『教行信証』を奨めた。五十二歳のときまとめた大著。どんな極悪人でも救済されるなら、どんな条件のもとにおいてかという難問を解き明かそうとしたものだ。

 それから十年。『教行信証』を読み、著作を出して再び会いに行った。すると、親鸞の本当の境地は、八十歳以降に執筆した和讃、妻あてに書いた手紙を読み解かねば親鸞のことはわかりませんとのつれない返事。みごとに肩すかしをくらった。

 これまでの人生で、幸運だったこと、後悔したことを簡単にまとめている。これも面白い。

 重篤な病にかかり大手術をしている。さらりと書いているが、大変だったと思う。本書のタイトルは『いまだ人生を語らず』だが、たっぷり人生を語っている。

 ついでにひとことだけ記しておきたい。気になるのは文体である。

「わたし」が多い。引用すると。

「わたしとはわたしの記憶だ。はたしてそう断言してしまっていいのだろうか。わたしは考えるのだが、わたしの内側にあって、わたしがどうしても考えることのできない部分もまた、強烈にわたしを作り上げているのではないか。わたしはその懸念から自由になることはできない。」

 数行の文章に7つも「わたし」が出てくる。くりかえして読でみると、半分以上「わたし」は不要である。アタシならこんなわたしが繰り返される文章は書かない。けれど四方田はわたしわたしと書く。彼と我のあいだにきちんと線引きをしたいのだろうか、わからない。

2023年11月14日 (火)

虫押さえ

  深夜、ときどき「ラジル★ラジル」(NHKのインターネットラジオ番組)を聴いている。「深夜便」ではなく聞き逃しサービス。

 久保田万太郎の随筆に「虫押さえにビールを飲んだ」というくだりがあった。意味はわかる。腹の虫が鳴かないようにビールをひっかけたということだろう。昭和の初めのころの文章である。

 腹の虫がグーっと鳴かぬようにとの意味で「虫押さえ」をつかうことはちかごろではない。

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 国語辞典を引いてみるとふたつの意味が載っている。①子供が泣かぬようにと飲ませる薬。②腹の虫が鳴くのを抑えること。

 おもしろいことに、三省堂国語辞典はふたつを載せているが、新明解国語辞典は①の方しか載せていない。②の方はそれほど使われていないとのことで記載を見送ったのだろう。

 むかしは、腹の中には虫がいると信じられていたようで、腹の虫に関連したことばや表現がいくつもある。

 虫封じ、虫ふさぎ、虫養い、カンの虫、虫の知らせとか、腹の虫が治まらない、虫の居所がわるいなどを思い浮かべる。落語には「疝気の虫」がある。

「三尸(さんし)の虫」もある。庚申の日に眠ると、三尸が抜け出て天帝にその人の悪業を告げるという。だから庚申の日は眠つてはならないという信仰がある。庚申は60日に一度巡ってくる。逆に言うと、この日ばかりは夜更しが許されるとなってバカ騒ぎができる。

 はなしを戻して、虫押さえ。三省堂国語辞典(第7版)では 「虫押さえにめしあがってください」を用例としてあげている。こういう表現、いちども聞いたことも目にしたこともない。

 虫押さえにビールという表現はいい。宴席まで時間がある。小腹がすいた。ちょいと一杯のビール。ひとりゼロ次会。ひとりウエルカムドリンク。

2023年11月12日 (日)

「ドミノ」

 急に寒くなった。師走の気温と気象予報士は伝えている。ジングルベルも聞こえてこないのに。

ドミノ」を観てきた。ベン・アフレック主演と聞けば、まあ観ておこうという気になる。

 アフレックの最近の映画は「AIR/エア」だった。監督兼務だから、役者としてはわずかしか出ていない。ナイキの経営者役だった。今回観た「ドミノ」では主演。監督はロバート・ロドリゲス

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  ダニー刑事(アフレック)の娘が行方不明となり、彼は精神的にまいってしまう。しばらく治療に専念するが、リハビリを兼ね、職場復帰する。銀行強盗事件が発生し、現場に駆けつける。そこで娘の行方についての手がかりを見つける。

 といった発端なのだが、スクリーンに映し出されるのは非現実的な映像である。人が消えたり、警官同士が撃ち合ったり・・・。現場付近で怪しい男を見つけて追いつめるが、男はふわりとビルの屋上から飛び降りtrしまう。しかし、地面に男の姿はない。

 ああこれは、ダニー刑事の幻覚かと想像するのだが、そうでもない。どこまでが現実でどこからが非現実の世界なのかわからない。そもそも現実非現実を分けることなどできない。見方か敵かの区別もできない。異次元を思わせる銃撃戦が展開され、ドミノのように次々と人が倒れていく。

 なんのこっちゃ。一度観ただけではわからない。もう一度観てもわからないと思う。が、最後はわかる。それはネタバレになるから言えない。ひとことだけ言えば、家族愛の映画ってことだ。父親と最愛の娘との結びつき。アメリカ映画ではよくあるパターンである。

 尺は一時間半ほど。ほどよい長さである。二時間以上つきあわされたら頭が混乱してしまう。

 封切り後、二週間ぐらいたったせいか、イオンシネマの観客は少なかった。10人もいなかった。頭を混乱させる映画だからねえ。

2023年11月10日 (金)

歌舞伎「マハーバーラタ戦記」

 歌舞伎座に出かけた。

 名古屋の友人から、チケットが一枚あまったとの電話があり、ただちに行く行く!との返事をした。出し物は「マハーバーラタ戦記」。インドの古代叙事詩を歌舞伎に仕立てたものだ。主演は尾上菊之助。座席がいい。ニ列目、花道のすぐそば。

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 豪華絢爛たる衣装で神々たちが語り合うシーンから始まる。人間界では争いが続いており、なんとかしなければならない。太陽神はおだやかに平定しようとするが、対立する帝釈天は力を以て人間界を支配すべきだと主張する。

 地上の人間界の場面となるとインドとは離れ、室町時代を思わせる舞台となる。王位継承をめぐっての争いが繰り広げられる。対立軸が交錯して物語は展開する。

 この演目、ダブル花道になっている。花道での場面が多い。前の方の座席だと、からだを曲げ、さらに首を左右に振って見なければならない。首の運動にはなるけれど、首が痛くなる。

 さらに、すっぽん(花道にある迫り出し)から登場するシーンも多い。座席はすっぽんのすぐ脇。菊五郎や菊之助が迫り上がってくると目が合うほど。さらに、大きな像を下から見上げるように首をあげなければならない。いい座席なのだが、首が疲れるのが難点。

 ふつうの歌舞伎の出し物とちがって、インド風の踊りのシーンがある。これが「RRR」なのだ。ご存じだろうが「RRR」は昨年ヒットしたインド映画。激しいダンスシーンがある。それを真似ての踊りである。あれよりゆっくり踊る。ちょっと笑える。ゆっくりだが、それでもけっこう疲れるはずだ。

 長い。実質3時間半ぐらい。幕間は二度あるけれど、首振りだから観ているだけで疲れる。

 印象に残ったのは帝釈天役の彦三郎の声。響きがよい。

 名古屋の友人はしょっちゅう歌舞伎鑑賞に来ている。名古屋にも御園座があるじゃないかと聞くと、だめ、地方にはいい役者がこない、来ても一人か二人。やっぱり東京じゃないとの返事。そういうものか。 

2023年11月 8日 (水)

「熊は、いない」

 熊の人里への出没が連日ニュースになっている。山奥のドングリが不作で、食べ物を求めて人里に降りてきているとのことだが、はたしてどうなんだろうか。

 それとは違って「熊は、いない」をアートセンターで観てきた。

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 イラン映画である。イランは自由を厳しく制限している。反政府的と見なされるとアウト、創作活動は制限される。この映画のパナヒ監督は、国家の安全を脅かした罪で20年間の映画製作禁止、海外渡航の制限の判決を言い渡されている。そんな中でも隠れて映画作りを続けた。本作品を完成後、逮捕されてしまったという。いわくつきの映画である。

 トルコとの国境近くの寒村でパナヒは仲間とともに密かに映画を撮り続けている。パナヒ自身が監督役で出ているから、半分ドキュメンタリーといってよい。リモートでトルコの仲間に撮影の指示をしたり映像を送っている。ただし通信状況は芳しくない。ひそかに出国して映画を撮り続けることもできるが、パナヒはイランに留まっている。

 この村には昔からの因習がある。女の子が生まれるとへその緒を切る前に結婚相手を決めてしまう。なんとも奇妙だが古くからの決めごととなっている。現実にはすんなりことが運ぶわけではない。村は婚約だの結婚をめぐって騒然となる。村長は何とか収めようと調整に走る。そんなエピソードをはさみながら監督の姿を映し出す。

 森には妖怪や鬼が住む。この村ではそれを熊と呼んでいる。だからタイトルに熊が入っている。「熊は、いない」。妖怪などいない、因習にとらわれるなとパナヒ監督は言いたいのだろう。 

 それにしてもイランは遠い。むかしはもっと近いように感じていたのだが・・・。

 

2023年11月 6日 (月)

しんゆり映画祭 最終日

「第29回 しんゆり映画祭」も昨日で終わった。

 最終日は忙しい。映像館と小劇場のふたつの場所での上映となる。それぞれ3本、合計6本。「アフターサン」「ケイコ目を澄ませて」「ペルシャンレッスン戦場の教室」「そばかす」「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」「荒野に灯をともす」。さらに撤去作業もある

 このラインアップを観ただけで、映画通なら多彩であることがわかる。知らない映画も多いだろう。

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 わたしは記録用のカメラを首に下げ、階段を駆け上がったり降りたりした。駆け上がるというのはウソで、ゆっくり昇った。スタッフ仲間からは、無理をしないで、休んで、などと声を掛けられた。足下がおぼつかないように周りには見えたんだろう。

 さて、今回、おどろいたのは「喜劇 駅前団地」である。早々に前売りチケット完売となった。60年前の地元で撮影された映画である。読売ランド前駅や百合ヶ丘前が映っている。昔の風景を知っている人には懐かしい映像である。観客には以前観たことがあるとか何度も観ているというリピーターも多かった。ならば5年後10年後にやってもよいのだけれど、フィリムも色あせてきている。上映は最後になるかもしれない。

 もうひとつ。「陸軍登戸研究所」も満席となった。地元ものは強い。

 さらに、「荒野に灯をともす」もチケット完売。こちらはゲストに社会学者の大澤真幸さんを招いてのトークがあったからかもしれない。トークは深い内容だったが、ここでは紹介をやめておく。大澤さんの著作には中村哲さんについてのものが何冊かある。そちらをご覧いただきたい。わたしは未読。さっそく読んでみようと思っている。

  大きなトラブルもなく無事終了。スタッフ連中は飲み会に出かけたが、わたしはパス。疲れた。家で遅い夕食。ビールがうまい。

 ついでのひとこと

 マンションの玄関でソファーに座っていると声を掛けられた。見知らぬ人。相手は間違いに気づいたようだ。デイサービスの送迎する人だった。しばらくしてデイサービスに出かける人がやってきた。爺さんだ。

 その人と間違えられるとは・・・冷静に考えれば、オレもやっぱり爺さんか。

2023年11月 3日 (金)

校閲について 二冊の本

 校閲について書かれた本を二冊、図書館で借りて読んだ。

校閲至極』と『本にあたる』。毎日新聞校閲センターのメンバーがもちまわりで書いたものと、単行本の校正に携わる女性が書いたもの。いずれもコラム集である。

 校正と校閲、どう違うか、辞書にあたってもよくわからない。区別しなくてもいいと思うが、校正は印刷されたゲラともとの原稿が違っていないか、誤字脱字などをチェックする。校閲は内容が間違っていないか百科事典を開いたり、専門書で確認したりする。その程度の違いがあるような気もする。

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 雑誌の編集に携わったことがある。校正ではいくつものミスをしでかした。それはともかくとして、当時、出張校正とやらで大日本印刷に月一度出かけた。この場合、出張校閲とは言わない。校正は短時間で済まさなければならない、校閲は広くて深い。多少時間的余裕がある。

 どちらの本も興味深いエピソードで綴られている。おもしろい。そこからひとつだけ紹介しておく。『本にあたる』から。

 原稿と実際の場所(地図で確認した)が違っている。訂正を著者に伺うと、直さないでほしい、自分の記憶の中ではそうなっている。間違いだとしてもそのままにしておいてもらいたいとの返事。「書いたときの流れを尊重してもらってこのままとした」。著者は福岡伸一さん。 

 なるほど、そういうこともあるか。

 ついでのひとこと

 東京新聞の一面コラム「筆洗」に次のようなくだりがあった。

古典落語「反魂香」はおなじみだろう。

  落語マニアならともかく落語ファンは「反魂香」を知らない。寄席で掛かることは少ない。お馴染みではない。間違っている。でも、直すべきかどうかはわからない。著者に訊いてみるしかない。

2023年11月 1日 (水)

「愛にイナズマ」

 石井裕也監督作品「愛にイナズマ」を観てきた。先月「」を観たばかり。石井監督の新作が続いている。どっちを先に撮ったか、知らない。どっちでもいい。
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「月」が夫婦愛なら「イナズマ」は家族愛を描いたもの。花子(松岡茉優)は映画監督としてデビューするはずだったが、トラブルで中止。がっかりするがひとりで映画を撮ろうとする。タイトルは「消えた女」。家出した実の母親をヒントにした脚本である。バーで知り合った正夫(窪田正孝)とともに九州の実家に赴く。正夫はいつもアベノマスクをしている。使わない人からもらったマスクはいっぱいあるという設定、ちょっと笑える。
 父親(佐藤浩市)や二人の兄たちを撮る。それぞれキャラが違う。長男は調子のいい男、次男はおとなしいクリスチャン。花子は親兄弟とぶつかる。松岡茉優は怒鳴ってばかりいる。ときどき掛け合い漫才のようなセリフもある。怒鳴り漫才かよ。この松岡の演技が印象に残る。
 といった雰囲気で「月」とはずいぶん違う。どなりあいながらも、家族愛に目覚めていくといった展開で収束していく。
「月」と「愛にイナズマ」をならべてみると、石井裕也監督の才能を感じさせる取り合わせになっている。どっちが好きかと言えば、「月」になる。

 

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