『いまだ人生を語らず』
四方田犬彦はアタシより5つ若い。しかし、これまでの活動や業績は多岐にわたって深い。本書は、これまでなにをし、なにを読み、なにを考えてきたか、人生の後半を記した随想である。
思索は著作としてまとめられるが、途中で中断したものも多い。それを紹介している。力不足で書きあぐんでいるうちに時が過ぎていまったと記しているが、そういうものだと思うし、著作は多ければよいというものではない。
山折哲雄について記した部分が面白い。山折哲雄は宗教学者である。あるとき、四方田は山折に会いに行く。山折から親鸞を読んだことがあるかと問われた。『歎異抄』だけと答えると「あんな短いものはだめ。死後、弟子がまとめたものにすぎない。『教行信証』を奨めた。五十二歳のときまとめた大著。どんな極悪人でも救済されるなら、どんな条件のもとにおいてかという難問を解き明かそうとしたものだ。
それから十年。『教行信証』を読み、著作を出して再び会いに行った。すると、親鸞の本当の境地は、八十歳以降に執筆した和讃、妻あてに書いた手紙を読み解かねば親鸞のことはわかりませんとのつれない返事。みごとに肩すかしをくらった。
これまでの人生で、幸運だったこと、後悔したことを簡単にまとめている。これも面白い。
重篤な病にかかり大手術をしている。さらりと書いているが、大変だったと思う。本書のタイトルは『いまだ人生を語らず』だが、たっぷり人生を語っている。
ついでにひとことだけ記しておきたい。気になるのは文体である。
「わたし」が多い。引用すると。
「わたしとはわたしの記憶だ。はたしてそう断言してしまっていいのだろうか。わたしは考えるのだが、わたしの内側にあって、わたしがどうしても考えることのできない部分もまた、強烈にわたしを作り上げているのではないか。わたしはその懸念から自由になることはできない。」
数行の文章に7つも「わたし」が出てくる。くりかえして読でみると、半分以上「わたし」は不要である。アタシならこんなわたしが繰り返される文章は書かない。けれど四方田はわたしわたしと書く。彼と我のあいだにきちんと線引きをしたいのだろうか、わからない。
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