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2024年6月

2024年6月29日 (土)

憲法の警告

 テレビをつけると、都知事選の政見放送をやっていた。

 初めて聞く政党。バカメディアだのシナ人だのと声高にしゃべっている。言論の自由だ、文句あっか、といった堂々たる言説である。

  NHKなんとか党もおかしい。都知事になるのは一人だけなのに20人以上も候補者を立てるなんて・・・・、それがどうした、法律に違反してないと胸を張っている。

 言論の自由もけっこうだが、なにかおかしい。日本は自由な国だからか。おとがめはない。でも・・・

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 これがロシアならどうか。まず、入り口で候補者になる資格はないとされてしまう。逮捕されてしまう国もある。それに比べりゃとなるけれど、必ずしも日本は自由ではない。表面的な自由はあるけれど、無視されたり、自粛を強要されることもある。

 憲法では自由は保障されている。憲法12条にはこうある。

 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う

  微妙な言い回しだ。憲法は権利や義務を明示するのものだが、この12条は警告である。努力をせず油断していると知らないうちに足元をすくわれてしまうよ、といった内容である。

 関心をもちつづけたい。でも、世情はぬるい。選挙は、どうでもいいような候補者であふれている。無関心が増えていく。

2024年6月27日 (木)

「アンゼルム」

 アートセンター映像館では「PERFECT DAYS」が好評で、アンコール上映となったが、さらにもう一度上映している。再アンコール。客もほとんどがリピーターだろう。

 主人公の生き方に共感する人が多いのか、ヴィム・ヴェンダースの作風が気に入ったのか、いずれにせよロングヒットである。来年、リバイバル上映しても客席は埋まるだろう。

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 そのヴィム・ヴェンダース監督の「アンゼルム」を観てきた。同じアートセンターである。

 アンゼルム・キーファーという芸術家を描いたドキュメンタリーである。アンゼルムある。名はこの映画で初めて知った。ヨーロッパでは有名な芸術家ということだ。

 幻想的な映像は、いかにもヴェンダースらしい。「パリ・テキサス」「ベルリン 天使の歌」などの映像と重なる。

 巨大な倉庫での制作風景が映し出される。泥を絵具とまぜあわせたり、カンバスをバーナーで焦がしたり、前衛的な作品群である。1945年、ドイツ生まれ。戦前のドイツ、つまりナチスを意識せざるを得ないが、反ナチだのと声高には叫ばない。いったん戦前のドイツを取り込み、それを消化して創造する。奥が深い。

「無は存在するのかといった」哲学的な思索を表現する。それをことばで表すのは難しい。

 映像詩ともいうべき映画になっている。ドキュメンタリーだからこれといったストーリーはない。静かなシーンが続く。いかにもヴェンダースなのである。

 

2024年6月25日 (火)

「チャレンジャーズ」

  腰の痛みはいくぶん和らいだ。急にしゃがむとか無理な姿勢をとらなければ問題はない。

 あの腰痛の原因はなんだったか。前日には和室でパソコンをにらんでいた。その時の姿勢がわるかったのかもしれない。長時間、畳にすわる、胡坐でも腰にはよくない。

 都心まで出かけた。むりせずゆっくり歩いた。

 せっかく出かけたので、それだけで帰るのはもったいない。ついでに展覧会に行くとか映画を観たりしないと損をしたような気分になる。

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 今回は、ついでに「チャレンジャーズ」を観た。数日前までは「東京カウボーイ」を観るつもりだったが、7月下旬にアートセンターでやることがわかった。ならば、カウボーイは観ることはない。「チャレンジャーズ」にした。

 テニスプレイヤーの話である。少年のころから親友でライバルでもあったアートとパトリック。アートはビッグタイトルもとったことがあるトッププロである。ケガで試合からしばらく遠ざかっていたが復帰のトレーニング始めていた。パトリックは下位低迷。二流のプレイヤーであった。その二人がマイナーな地方大会で戦うことになる。アートの妻・タシ(ゼンデイヤ)はテニスの大スターだった。けがで引退、今はアートのコーチとなっている。

 アートとパトリック、そしてタシの過去からが描かれる。三人はいい仲だった。パトリックとタシは恋人関係だったときもあった。つまり、簡単にいえばいわゆる三角関係である。

 オールド映画ファンなら、トリフォーの名作、「突然炎のごとく」を思い出すだろう。男二人と一人の女の物語、それと比べて観ることになる。

「突然炎のごとく」の女カトリーヌ(ジャンヌ・モロー)は、かわいらしく、気ままで奔放であった。

 タシはセクシーで、芯のしっかりした強い女として描かれている。前半と後半ではかなり雰囲気が違う。

 監督はルカ・グァダニーノ。「君の名前で僕を呼んで」がある。それと雰囲気が似ている。

 テニスのラリーシーンがいい。迫力がある。それより、60年前の「突然炎のごとく」と比べ、女性は強くなっていることを感じる。

 

2024年6月23日 (日)

イテテテ

 しゃがんで立ち上がろうとしたら、ぎくりと痛みが走った。ぎっくり腰か。

 痛みのすくない姿勢を探しながらゆっくり立ち上がる。腰を屈めようとすると痛みが増す。ゆっくり歩いてみる。痛みはあるが歩けないほどではない。重症ではなさそう。 

 前にも腰を痛めたことがある。しばらく不自由だったが、二週間ほどで回復した。今回は、そのときより痛い。治るには時間がかかりそうだ。

 背筋を伸ばしていれば痛みはない。スクワットをするような姿勢だと、しびれも痛みもない。コルセットをしたような状態の動作となる。

  やっかいなのは起きるときだ。ふとんから抜け出せない。起きようとすると痛みが走る。なにかつかまるものがあればよいのだが、それがない。で、寝る前に椅子を布団のわきに置き、つかまって起きるようにした。

 気休めに、鎮痛・消炎の薬を塗る。案の定、効かない。

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 まもなく満で七十七になる。喜寿である。なにが喜ばしいか。

 写真はヒマワリの束。梅雨空には似つかわしくない。

2024年6月21日 (金)

『女の子たち風船爆弾をつくる』

 5月25日の当ブログで、風船爆弾をテーマとした山田朗さん(登戸研究所資料館所長)と作家の小林エリカさんの対談について書いた。

 その小林エリカさんの『女の子たち風船爆弾をつくる』を読んだ。

 ノンフィクションである。手法が他のノンフィクションとは違う。登場する少女たちは「わたし」あるいは「わたしたち」と表現されている。固有名詞がほとんど出てこない。わたしたちの満州国皇帝、中国国民政府の主席の男、イタリア王国元帥の男、わたしたちの海軍大将の男・・・などと表現されている。読者はそれがだれかを理解しているから固有名詞を特段使わなくてもよい。一般化するとか客観視する効果を狙っているとも言える。

  たとえば わたしは、わたしたちの国家「君が代」を、歌う。

 本書の語彙で、もっとも多いのは「わたし」と「わたしたち」である。数えたわけではないが。

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  前半は宝塚少女歌劇団の少女たちが描かれる。ヨーロッパ親善演奏旅行ではムッソリーニに出会っている。後半は風船爆弾づくりにかかわった女学生である。跡見、雙葉、麹町の女高生。

 風船の原料は和紙。こうぞからつくる。糊はこんにゃく芋。けっこう手が掛かっている。東京宝塚劇場で貼り合わせ、組み立てられる。人海戦術である。穴や隙間があると和紙と糊で補強しなければならない。今から思うと、こんなもので爆弾をつくらなければならないほど日本は苦境に陥っていた。今だから言えることだが、ダウン寸前のボクサーだった。

 写真は登戸研究所資料館にある10分の1のレプリカの風船。

  不合格品となった和紙は 戦後、赤線で働く女性たちに質の良い桜紙として売りさばかれたという。知らなかった。

 

2024年6月19日 (水)

「人間の境界」

 数年前、ベラルーシが大量の難民を隣国ポーランドに送り込んだという事件があった。ロシアのウクライナ侵攻前、パンデミックのさなかのことであった。新聞の片隅に載っただけの出来事で、詳細やその後のことは話題になることはなかった。知らない人も多いだろう。

 ポーランド映画「人間の限界」を観てきた。その事件を描いたものだ。

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 難民送り込み作戦はEUに混乱を引き起こすベラルーシ側(その裏にはロシアがいる)の狙いがあった。いやがらせだ。ポーランドは受け入れを拒み、難民をベラルーシに強制的に送り返すことになった。難民にとってはたまったものではない。

 アフガン難民の一家は兄弟がいるスウェーデンへの移住を希望していたが、ポーランドに送り込まれたとたん、ベラルーシに強制的に送り返された。難民の扱いは過酷である。食料も水も供給されない状態だった。何度も国境を強制的に往復させられる難民もいて、しだいに疲弊していった。

 映画は、難民だけではなく、国境警備隊や難民支援をする活動家たちが描かれる。支援するグループのゲリラ的な活動はスリリングである。

 この映画は、公開当初、ポーランド政府から非難され意地悪をされたが、多くの映画人は監督であるアグニエシュカ・ホランドを支持し、政府の干渉をはねのけた。映画は国内で大ヒットすることになったという。

 その後、ベラルーシの難民押しつけ新たな作戦がどうなったのかはわからない。ロシアによるウクライナ侵攻があらたな状況を生んでいる。

 映画のラストで、ポーランドはウクライナからの避難民を200万人引き受けたとのテロップが流れる。皮肉っぽく映る。

 それにしても難民は喫緊の国際問題なのだが、日本人にはピンとこない。きょうも、地中海では、アフリカや中近東からの難民を乗せた船が漂っている。

 

2024年6月17日 (月)

「違国日記」

  さして話題にはなっていないし、私には似つかわしくない映画を観てきた。「違国日記」。ヤマシタトモコの漫画が原作。脚本・監督は瀬田なつき。主演は叔母と姪の関係にある新垣結衣早瀬憩。登場人物のほとんどが女性である。爺さんが観るような映画ではないけれど、なんとなく観ておきたかった。

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イオンシネマの客は少なかった。10人に満たない。すぐに打ち切りになる。

 中学卒業を間近にした朝(早瀬)は交通事故で親を失う。一人っ子である。母の妹である小説家の槙生(新垣)は朝を引き取って暮らすことになる。槙生は姉が許せないほど大嫌いだったが、その気持ちは抑えてぎこちない二人暮らしを始める。朝はさほど気にする様子もなく(内心は戸惑う気持ちが伺える)家事をする。高校では軽音楽部に入ってベースの練習に励む。

 早瀬憩の演技が印象に残る。他人とはうまくやっていけないと自覚する叔母のマキオちゃんと朝は自然体でふるまう。クラスメイトともふつうに付き合う。そんな姿が初々しい。体育館で、同性しか好きになれないかもしれないと打ち明ける友人にとまどう。このシーンもよい。

 槙生の友人役で夏帆がでている。「天然コケッコー」を思い出した。夏帆のデビュー作である。あの初々しさと早瀬憩の姿は似ている。今年の新人賞は早瀬憩で決まりだな。

 ということであるが、女子高校生にこの映画をどう思うかを聞いてみたくなる。しんゆり映画祭のボランティアに20歳前後の女性が何人かいる。この映画の感想を聞いてみよう。観ていなければ、これは観なくっちゃと伝えてみよう。

2024年6月15日 (土)

「バディモン5 望まれざる者」

 パリといえば、セーヌ河沿いの観光名所あたりの映像しかテレビでは流されない。ずっとむかしと変わらない。ずいぶん前のことだが、パリに行ったとき、高層ビル群を見かけた。新宿副都心のよう。ビジネス街だろう。現在は、さらにビル群は増えていることと思う。

  居住地はどうか。団地もたくさん建設されてきたと思うが、その姿をみることは少ない。映画でたまに見るぐらいか。数年前、「ガガーリン」という旧ソ連の宇宙飛行士の名を冠した映画があった。当今では考えられないが、当時、建設された団地エリアがガガーリン通りと命名された。その団地が老朽化により取り壊しになるといった映画だった。

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  アートセンターで「バディモン5 望まれざる者」を観た。「ガガーリン」同様、パリ郊外の老朽化した団地を描いたものだ。

 バディモン地域には低収入の労働者や移民が多く住んでいる。老朽化した団地ビルの取り壊しが進められていた。エレベーターは修理されず、棺を運び出すにも難渋する始末だった。

  映画は、冒頭、団地ビルが爆破されるシーンが映し出される。手違いがあったのか、爆風を受けた市長は命を落としてしまう。市長を代行することになった小児科医のピエールは、温厚そうに見えたが、この地域の再開発と治安維持に強硬策を打ち出す。周りは戸惑うが、貧困移民には不寛容な策を強行しようとする。

  一方、団地でケアスタッフとして働くアビー(移民女性)は、行政の怠慢さと欺瞞に批判を強めていた。あらたな団地ビルも設計変更されてしまっている。アビーは市長選に立候補することを決意する。

  団地に火災がおきれば、行政は居住不適切とか危険だからと言って、住民を強制的に立ち退きさせる。追い出されれば、居住者はホームレスになるしかない。理不尽な仕打ちである。

といったことで、暴動が起きる。そして・・・といったストーリーである。

2024年6月14日 (金)

老聴の始まり

 耳がわるくなった。

  耳が遠くなったわけではなく、感度が鈍くなった。

  よくある例だと、ガザ地区が足立区に聞こえるような感度である。

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  北朝鮮がフンだのごみを積んだ風船を南に向けて飛ばした。対抗措置として韓国は拡声器による北への宣伝活動を再開させた。ぼんやりテレビを見ていたら、核兵器を配備したと聞こえた。驚いて、思わず腰をあげた。聞き違いだった。拡声器と核兵器、漢字で書くとまったく別ものだが、カナで書くとカクセイキとカクヘイキ、一字しか違わない。似ている。

 聴覚が若々しく敏感だったら、聞き違えることはない。歳だ、加齢だ。これも老聴というか難聴の始まり。

 ウサギとウナギを聞き違えたこともある。うさぎパイとうなぎパイ。

 ラジオを聴いていたら、仙台のだれだれと出てきた。しばらくして先代のだれだれだと分かった。仙台と先代は、カナは同じだが、アクセントが違う。それを平板に発音されたり、アクセント違いをされたりすると、こちらは聞き違いをしてしまう。これは老聴とは関係ないけど。

2024年6月12日 (水)

「明日を綴る写真館」

 とぼけた脇役としておなじみの平泉成が80歳にして初めて映画で主演することになった。その「明日を綴る映画館」をイオンシネマで観てきた。

 成さんは長く麻生区にお住まいである。わたしはかつて読売ランド前駅に住んでいた。同じマンションだった。声を交わすことはなかったが、ときおりお見かけした。

 春先、80歳をすぎた小野武彦が初主演する「シェアの法則」を観た。小野さんも麻生区在住である。似ている。

 麻生区は平均年齢日本一の街である。それとは関係ないけれど、なんとなく結びつけたくなる。麻生は老人が元気な街である。

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 さて、映画。新進気鋭のカメラマン太一(佐野晶哉)はなんとなく行き詰まりを感じていた。そんな折、ある写真館の店先に掲示されていたポートレートに目を止める。店の中を覗き、店主・鮫島(平泉成)の丁寧な対応やカメラに対する愛情に心惹かれ、弟子入りを志願する。いったんは断るが、結局、住み込みで店を手伝うことになる。

 カメラワークがよい。逆光を多用したカメラアングルは新鮮で柔らかい。鮫島の写真にかける情熱を感じ、写真のもつ力にあらためて目覚めていく。

 といったストーリーで、あたたかく大変けっこうなのだが、ちょっと甘い。エンディングまで優しくてわかりやすい。ちかごろ珍しい結末である。わたしがそういう映画を観ていないのかもしれない。子供向きのケーキのように甘い。

 甘くて悪いか。それがどうしたという声も聞こえてくる。

 ついでのひとこと

 イオンシネマのロビーに先だって観た「悪は存在しない」のポスターが掲示されていた。えっ、新百合ヶ丘でもやるんかい。渋谷までわざわざ行くこともなかった。「明日を綴る映画館」とは真反対のわかりにくい映画である。わかんなくても、観たい人が多いということか。リピーターが多いんだろうな。

2024年6月10日 (月)

「ありふれた教室」

 アートセンターで「ありふれた教室」を観てきた。タイトルからすると、どこにでもある普通の学校で起きた事件を描いたものと想像したのだが・・・

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 ドイツのある都市の中学。新任のカーラ(レオニー・ベネシュ)は数学を教えている。学校では盗難事件が何度も起きる。カーラは財布の入った上着を置いたままで教室に向かう。財布が盗まれるのではないかとパソコンのカメラ機能を作動させておいた。職員室に戻り、財布を確かめるとお札が抜かれていた。画像を確認すると女性のブラウスが映っていた。学校の事務員だった。カーラが受けもつクラスの生徒の母親でもあった。事務員を呼び、盗ったのではないかと事情を問う。事務員は盗んでいないと、逆切れしてしまう。

 カーラは校長に事情を説明する。校長は事件にはしないが会議を開く。教師仲間の見解はさまざまだった。カーラのやりかたはおとり捜査だと非難する教師もいた。このいきさつは保護者に漏れ、生徒も事情を知ることになった。カーラへの批判、生徒へのいじめ、学校批判など事態は紛糾することとなった。カーラはボタンを掛け違えてしまったのかと悩み、混乱する。学校全体がパニック状態となっていく。どうなるのか。

 カーラはポーランド出身、件の事務員はトルコ系(だったと思う)。フランスもイギリスもそうだろうが。ドイツが移民社会になりつつあることも映し出している。先だって観た「ミセス・カーラ VS. ジョージ・W・ブッシュ」もトルコ系の移民の話だった。

 ラストはわかりにくい。この映画も判断を観客に委ねるということか。少年がカーラが貸し与えたルービックキューブを完成させるシーンが映し出される。少年と心が通じ合ったとも考えられる。事態は収まることを予感させる。

 主演のレオニー・ベネシュは「白いリボン」に出ていたという。10年以上前の映画。不朽の名作と言ってよい。あの少年少女たちの一人を演じていたのか。「白いリボン」も村全体が疑心暗鬼に包まれ、集団パニックというか統合失調症に陥っていく映画だった。ちょっとだが、つながっている。

2024年6月 8日 (土)

「悪は存在しない」

 濱口竜介監督の「悪は存在しない」を渋谷まで出かけて観てきた。

 封切りしてひと月ほどたつが、新百合ヶ丘での上映はなさそう。濱口監督作品はぜひ観ておきたい。

 渋谷のル・シネマ。ル・シネマは東急本店(Bunkamura)の解体にともないしばらく休館となっていたが、宮下公園近くのビルで再開した。かつては東映の上映館。場所はよいビックカメラの。ビックカメラの上。むかしの記憶は薄いけど、古びた劇場だった。それが、きれいに改装された。ミニシアターらしい雰囲気となっている。

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 映画のあらすじ。自然豊かな高原の村にグランピング施設の計画が持ち上がった。グランピングというのはキャンプができる宿泊施設。この映画でその名をはじめて知った。

 グランピング計画はある芸能事務所が政府の補助金を当て込んでのものだった。住民への説明会が開催されるが、事務所側の説明はあいまいで、住民の多くは疑心暗鬼を深める。村の水源に汚水が流れる懸念があるとか、キャンプ場の騒音、防火対策などの課題があった。事務所側は準備不足を認め、再び説明会を開くことでその場を収めた。

 芸能事務所で新規事業(グランピング)を担当することになった高橋はとまどい、計画を勧めたいと思う一方で、住民の感情も理解するようになった。

 村の便利屋である中年の巧は娘とともに暮らしていた。冷静な男で集落の取りまとめ役でもあった。匠のまき割りのシーンが映し出される。のちに高橋はまき割りの快感を味わうことになる。

 会社に戻った高橋は社長から、巧にグランピング場の管理人になってもらったらどうか、それでうまくいくのではなかとの助言を得る。ふたたび高橋は同僚の女性と二人で村に向かう。

 ここまでが前半。後半というか結末はちょっとややこしい。

 ある事件というか事故が発生する。これ以上書くとネタバレになるが、最後まで明らかにしたところで文句は言われないかもしれない。エンディングは観客を惑わせる。えぅ、なに! で、どうしたの? というところで終わる。そこからは観客に委ねる。どう解釈してもよいようになっている。監督、ずるいよと言う人もいるかもしれない。世の中、不可解なんですねと感じる人がいるかもしれない。自然との共存は、とか知ったかぶりの評をする人もいるだろう。

 まずは観ていただきたい。鹿にも触れなければならないが、わたしの理解を超えるのでやめておく。リドル・ストーリーである。

 で、わたしなりの決着。次のようなエンディングにしたらどうか。巧と娘の二人が車に乗って、楽しそうにおしゃべりをするシーン。その後のことかもしれないし、過去の映像、つまり回想かもしれない。車は高原の道を駆け抜けていく。

 どうだ。いいだろう。観た人に訊いてみたい。

 

2024年6月 6日 (木)

生田寄席 古今亭寿輔

 生田寄席に行ってきた。今回は古今亭寿輔。あのラメ入りの派手な衣装の師匠である。

 今回も明るい鶯色の着物で高座に上がる。しゃべらないうちに、くすくす笑いが起きる。

 いつものように自虐ネタ。私のようなどうでもいいような噺家を聴きに来ていただいて・・・そんなに笑わないでください。お嬢さん。まだ何もしゃべってません。と、客いじりが始まる。

 きょうのマクラは長い。と思っていたら、まだ何をやろうか、浮かんできませんので、どうでもいい話をつづけさせていただきます、との言い訳。

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 途中で、テトロンの羽織を脱いで、女性客に着てみませんかと渡す。テトロンのいいところは夏暑くて冬寒い。撮っていいですよ、というのが、この写真である。

 途中、小噺のような短い噺「英会話」を挟んで、またマクラに戻る。刑務所を慰問したときのエピソードや女性落語家の話。結局、中入りなしでラストまで演じた。

 自虐ネタと客いじり(笑いすぎる客をいじる)に終始した。

 ま、たまには、こんな落語会があってもよいか。

2024年6月 4日 (火)

「ミセス・クルナス VS. ジョージ・W・ブッシュ」

 2001年、同時多発テロ発生後、アメリカは犯人探しに躍起になった。タリバン掃討に乗りだし、容疑者を片っ端から捕らえて、グアンタナモ収容所に収監した。拷問で悪名高いキューバにある収容所である。

ミセス・クルナス VS. ジョージ・W・ブッシュ」をアートセンターで観てきた。グアンタナモに収監された息子を救い出すため、奮闘した母親の物語である。実話をベースにしている。

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 チラシのコピーに沿ってあらすじを紹介すると・・・、2001年の同時多発テロの翌月、ドイツのブレーメンで暮らすトルコ移民のクルナス家の長男ムラートが旅先のパキスタンで、タリバンの疑いで拘束されてしまう。キューバにあるグアンタナモ米軍収容所に収監される。母親のラビエ・クルナス(メルテム・カプタン)は息子を救うためトルコ政府にも掛け合うが、のれんに腕押し、ラチがあかない。窮したラビエは人権派の弁護士ドッケ・ベルンハルト(レクサンダー・シェアー)に援助を求める。ベルンハルトは彼女の意向に沿うべく救済活動を開始する。

 彼女ともアメリカに渡り、司法関係の部署を回ったり、グアンタナモに収監されている他の家族との連携を図ったりして、解放をうったえる。

 ここからがながい。なかなかうまくいかない。ドイツ政府やトルコにも政府にも働きかけるが、事態は変わらない。ついには、アメリカの最高裁に正当な裁判にかけるよう訴訟を起こす.

 シリアスな内容だが、ユーモラスで軽妙な場面も多い。主人公を演じたメルテム・カプタンは人気コメディアンとのこと。肝っ玉母さんぶりが軽快である。バディ役の弁護士とのコンビもよい。その分、亭主の存在感は薄い。

 ワンカットしか登場しないタクシー運転手のエピソードも印象に残る。どんなエピソードかは映画をごらんいただくのがよい。

2024年6月 2日 (日)

戦禍の臭い 『戦争語彙集』

 ロシアによるウクライナ侵攻はいまだ収束の兆しはない。もういい加減にしたらと言いたいのだが、それは部外者の見解であって当事者はそうはいかない。それはわかるが、第三者第三国は、関心も支援も薄れている。

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戦争語彙集』を読んだ。避難するウクライナの人たちが語ったことを証言集としてまとめたものである。タイトルから、戦時下に生まれた新語とか新表現を事典のようにしたものと思っていたが、そうではなかった。インタビューの断片集である。

意外性はさほどない。ブチャでの悲惨な映像を目にした者にとっては、そうだろうなあと、うなずくだけで、それ以上の感慨はでてこない。疲れかもしれない。

 それでも、印象に強く残るものもある。たとえば臭い。

「痛みの臭い、忘れられるもんじゃない」。「金属っぽい甘い血液の、何日も洗ってない体の臭い」

 映像や音声は記録に残る。痛みはわかるが、臭い、匂い、嗅覚といったものは表現しにくいから記録には残らない。

 バラの匂い、リンゴのにおいはわかる。しかし、痛みの臭いは・・・想像できない。

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