校正、似たようなことばに校閲がある。どうちがうか。わたしは、活字となった文章と元の原稿を照らし合わせ、まちがいをただしたりする作業を校正、もうすこし幅広く原稿の内容までチェックする作業を校閲だと区別してきた。校閲には百科事典が要る。たとえば信長が安土城の天守で望遠鏡を覗いている描写があったら、それは間違いだと指摘する。本能寺の変は1582年、望遠鏡が発明されたのが1608年。信長は望遠鏡を手にすることはない。
現在、手書きの原稿から印刷物にすることは少なくなった。ほとんどがインターネット経由で送られてきた原稿をそのまま使う。活版印刷時代にあった誤記、抜け字などは発生しない。旧来のような校正の範囲は狭くなっている。校正は校閲のなかに吸収されていったわけだが、校正ということばはひろく普及しているので、校正のなかに校閲も含まれるとすればよいとする見解もうまれる。要はどっちでもよいということだ。
校正者(校閲者でもよい)は赤ペンを使って誤字などを正したりする。内容的におかしいと思われる部分(誤用と決めつけることはできない部分)はエンピツでコメントを書く。あとで消せるし、著者がそれでよいと判断するかもしれない。
高橋秀実の『ことばの番人』を読んだ、本書を読んでいる途中で著者・高橋秀実の訃報を知った。びっくりした、享年62.胃がんだという。凡庸な感想は書かないことにする。それにしても惜しい。とぼけた味わいのある文体は他では代えがたい。
『ことばの番人』は校正(校閲も含む)をテーマにしたノンフィクションである。以前、校正の本を当ブログで採りあげてきた。それとは視点がちがう。校正の達人たちを訪ねて話を聴く。校正の技法だけでなく、その奥にある思想まで踏み込む。
著者は哲学者のことばを引用することが多い。プラトンとかウィトケンシュタイン。本居宣長や聖書からも。沼正三もある。沼正三はマゾヒズムの著作で知られている。沼は新潮社の校閲部に在籍していた。マゾヒズムと校正の関係まで言及している。
校正だけでなく、漢字の成り立ちや日本国憲法にまで言及している。内容は深く、哲学的と言ってよい。著者の視点は愉快でもる。
といったことは、おもしろいのだが、あらたな著作が読めなくなるのは残念至極。だが、まだ読んでいない本もある。認知症の父をえがいた『おやじはニーチェ』も読んでない。
まだ高橋秀実を楽しめるということだ。