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2025年1月

2025年1月30日 (木)

「雪の花」

 松坂桃李主演の「雪の花  ともに在りて」をイオンシネマで観てきた。

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 江戸時代の末期、福井藩でも天然痘が流行っていた。町医者の笠原(松坂桃李)は治療にあたっていたが治癒させることはできなかった。京都の蘭方医から、西洋では、種痘という予防接種で感染を防いでいるとのことを聞く。最新の医学であるが、それを行うには西洋から種痘の苗を取り寄せる必要がある。笠原は藩主や幕府の許可をえなければばらない。苗の入手に奔走し、ようやく許可を得ることができた。

 このあたりの史実は本で読んだことがある。映画はわかりやすい。説明的でもある。だけど、NHKの歴史ドキュメンタリー番組の再現フィルムを観ているようで、映画的なわくわく感はない。

 後半、牛痘のウミを子供に植え付けるなどとんでもないと抵抗があったり、子供を冬の山越えをさせなければならないなどの波乱がある。でも、ま、展開はわかっているので、ハラハラ感もない。登場人物は控え目で、礼儀正しい。ま、そうなんだろうけど。

 この映画のいいところは音楽である。気持ちよい。エンドロールで加古隆とあった。なるほどと納得。

2025年1月28日 (火)

「敵」

 筒井康隆は90歳になった。寄る年波には勝てず、妻ともども老人ホームに入った。老人ホームは超高級。介護は手厚いし、食事もよい。が、それだけではものたりない。外出ツアーで豪華な中華料理に舌鼓をうつ。食べる量は減ったが。食欲はある。健啖。 そんな近況を新潮社の雑誌「波」に書いている。

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 筒井康隆原作の「」を、テアトル新宿まで出かけ観てきた。監督は吉田大八。原作は30年近く前の書かれたもの。私は読んでいない。

 フランス文学の教授であった渡辺儀助(長塚京三)は妻を亡くし、独り暮らしをしている。朝食もきちんと作って食べ、豆を挽きコーヒーを飲む。歯磨きも怠りない。掃除洗濯もこなしている。金銭管理も問題ない。死ぬまでの収支計算も出来ている。たまにバーにでかけ、かつての教え子たちと飲む。家にも編集者や教え子がやってくる。前半は、老後としては理想的な姿が描かれる。

 これが崩れていく。現実と幻想が交錯するようになる。性的妄想もあって、亡き妻があらわれ、儀助の言動をなじったりする。

 さらに、よくわからぬ敵の襲撃を恐れるようになる。敵は北から突然襲ってくるらしい。妄想か。認知症とひと括くりにすることもできるが、この妄想の描写がおもしろい。

 DIE WITH ZEROという考えがある。金銭面で言えば、すっからかんで死ぬ。貯金も借金もなし。貯えがあればそれを使い切って死ぬ。相続税などとんでもない。

 ということで、儀助はそんなふうに生き、死んでいくことができるのか。映画は最後まで映し出している。

 独居老人にはお薦めの映画だ。

 

 

2025年1月26日 (日)

「ザ・ニュースペーパー」

  ザ・ ニュースペーパーのライブに行ってきた。

  人気の社会風刺コント集団であるが、知らない人が多い。テレビに出ないから知名度は低い。しかし、推し活というか熱烈なファンもけっこういる。ライブを追っかけている。千人近く収容できる町田市民ホールはほぼ満席となった。

  テレビに出ないというより、テレビに出せないと言うべきか。テレビ局は風刺の過激さにたじろぎ、敬して遠ざける。

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 まず登場したのが松下アキラ演じるトランプさん。でたらめな発言で再登場を自慢する。暴走するトランプである。当然、石破さんも登場する。これが似ている。いじけたようなしゃべりで笑わせる。自虐ネタが多くなる。岸田さんはもともと似てなかったが、引退したせいかそれらしく元気にふるまう。こう書いてみても、どんな様子なのかうまく伝わらない。YOUTUBEでその一端を観ることができるから、そちらご覧いただきたい。

 WARUというグループの討論会のコントがある。プーチン、ネタニヤフ、金正恩、習近平のそっくりさんによるでたらめの会話。習さんはほとんどしゃべらない。

 おなじみの、ある高貴な一家のコントもあった。定番だった「朝まで生テレビ」のパロディコントはなかった。

 だらだら紹介したが、なんといっても出色は小泉純一郎のネタ。「私は鼻筋は通ってますが、話の筋は通っていません」というギャグはなかったけど、さすがの小泉さんである。こちらはテレビに登場したことがあるので、ご存じの方も多いと思う。

 寒い中、ばかばかしいコントを楽しんだ。

 ついでのひとこと

 開演前、携帯電話の電源を切れとか、ホール内での飲食はダメとかのアナウンスがある。最後に、後頭部をハンマーで殴らないでくださいと、付け加えた。軽いギャグだが、事件が起きたのは町田の法政大学。地元ネタということで、付け加えたのだろうか。

2025年1月24日 (金)

「室町無頼」

 応仁の乱の5年ほど前の一揆を描いている。応仁の乱はよくわからない史実で、だらだら十年以上続いた。それ以前から飢饉や疫病で京都の町は荒れており、幕府はタガが外れていた。

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大泉洋が演ずるのは兵衛という牢人(浪人)。苦しい庶民は金を借りて暮らしているが、金貸しの取り立ては厳しい。さらに苦境に追いやられている。兵衛は無頼漢ではあるけれど、なにかと庶民の面倒を見ており、評判が良い。さらに、かえると呼ばれる少年・才蔵に武術の修行をさせる。

 兵衛と対立するのは、京都の治安を任されている道賢(堤真一)。前半は、この対立と才蔵の修行の様子を描いている。

 後半は一揆のシーン。これが迫力がある。民衆が松明をかざし、徳政(借金棒引き)を求めて京の町におしかける。「一期は夢よ ただ狂え 天下を燃やせ」とアナーキーな叫び声をあげて踊る。のちの、ええじゃないかを彷彿させる。

 活劇部分は、サム・ペキンパーの西部劇を思わせる。さらにマカロニウエスタンのようでもある。エンリコ・モリコーネの音楽が響いてくるような雰囲気。ちょっとワクワクする。

 ということで、終盤の一揆のシーンが面白い。大画面じゃないと味わえない。スカッとする娯楽映画である。

2025年1月22日 (水)

「八起寄席」

 柳家権太楼が食道ガンの治療を受けていることを公表した。十数年前にも大病をした。ま、いい歳だからと括られてしまうが、はやく高座に復帰してもらいたい。

 TBSの落語研究会の高座を映した番組を正月三日間やっていた。そのビデオを観た。権太楼は「百年目」。圧巻の高座だった。

 相模大野に出かけて「八起寄席」を聴いてきた。新春は、4つの流派(協会)の幹事役が登場する。毎年、たのしみな落語会である。

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 今回の演者と演目

 瀧川鯉橋   蔵前駕籠  

 三遊亭兼好  雑俳

 古今亭文菊  鮑のし

 立川談修   紺屋高尾 

 鯉橋は軽く「蔵前駕籠」をやって、残り時間はお座敷芸。ものまね、形態模写である。羽織を裏返しに着て、手ぬぐい、扇子、座布団で、恵比寿や大黒のまね。めでたい芸である。最後は鶴。扇子をくちばしのように見せる。似ている。最後に鶴のひとこえ。上手いものだ。 

 いつも書いているから、兼好、文菊はとばして、トリの談修。「紺屋高尾」だった。紺屋の職人が花魁に惚れるというおなじみの噺。談修はいつものように細部まで丁寧に演じた。誠実でまじめ。噺家らしくないと言うと叱られるかもしれないけど、そういう持ち味である。

「紺屋高尾」と似たような噺に「幾代餅」がある。骨格は同じ。どうちがうのかよくわからない。一方は紺屋、もう一方は搗き米屋の職人。なれそめが異なる。花魁の年期があけるのは来年の3月。もう一方は3月15日と日にちまで細かい。深いところで根本的な違いがあるのかもしれないけど、しろうとにはわからない。どうでもいいけど、気になると言えば気になる。

 冒頭の権太楼、わたしより学年は一つ上。きょうの演者からすれば父親のような存在だ。

2025年1月20日 (月)

まちがっているかもしれない

 哲学に可謬主義という考えがある。簡単に言うと、あらゆる理論は誤っているかもしれない。間違っていないかどうか、検証しなければならなし、反論には、きちんと反証しなければならない。しごくまっとうな考えである。可謬主義は反証主義ともいう。

 絶対正しいということはありえない。ニュートンの万有引力もいつでもどこでも正しいわけではない。アインシュタインの相対性理論がその隙間をついた。

 この可謬主義を俗っぽく実社会に反映させてみると、誰もが間違う。間違っていないなら、きちんと反証しなければならないということである。

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 なぜこんなことをもちだしたかというと、昨年、ようやく結審した袴田事件である。

 検事総長のことばに違和感を抱いた。謝罪ではなかった。犯人は袴田被告に間違いはない。証拠には自信がある。検察が証拠をねつ造したという判断には不満がある。捜査に誤りがなかったけど、長く拘留され、裁判が長期に及んだことを考慮して上告をとりやめることにした。そんな趣旨だった。

 強引に犯人に仕立て上げたという疑いもあるが、それは置いといて、間違っていたとは口が裂けても言えないらしい。長くなったから、ま、このぐらいにしたいとるわ、といったところ。だから謝ることもなく、上告を断念した、無念であると。

 検事総長の発言からしばらく経ったが、こころのなかにこの発言がくすぶっているので、あらためてブログで書くことにした。

 みずからの組織は無謬である。無謬でなければならないから無謬であると言い張るっているのだ。謙虚さが欠落している。

 大河原化工機事件にもそんな匂いがする。検察の暴走だが口が裂けても間違っていたとは言えないらしい。これではふたたび同じような過ちを犯すのではないか。

 過ちは誰もが犯す。誰だって間違う。間違いと指摘されたら、謙虚に検証する。反証できなければ間違っていると答える。

 大仰に、正義を問うているわけではない。間違いはある。それに気づいたら素直にただすなり、謝ればよい。それだけだ。

2025年1月18日 (土)

どんど焼き

  麻生区では、どんど焼き(賽の神)が11日から25日にかけて15ケ所で行われている。どこよりも多いのではないか。昔は14日に行っていたが、いまは土日にやることが多くなった。同時開催だと消防団も忙しいから分散となる。

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そのひとつ、岡上の谷戸でのどんと焼きに行ってきた。写真は焼かれる前。正月のお飾り、お札、だるまなどが納められている。他と比べだるまが多い。かつては書初めの半紙もあったが、燃えて飛び散ると火災になるおそれがあるとのことで見かけなくなった。

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1月18日には、麻生不動のだるま市がある。関東三大だるま市のひとつ。盛大に行われる。焚き上げられるだるまは、去年、麻生不動で買ったものと思われる。

 隣の多摩区では26年ぶりにどんど焼きを復活させたとの記事を地域紙で見つけた。麻生区に負けてられないという機運が感じられる。けっこうなことだ。

  室生犀星に、こんな句がある.

 くろこげの餅見失ふどんどかな

2025年1月16日 (木)

 生田寄席 柳家小せん

 今年初めての落語は、生田寄席柳家小せん独演会である。

 この生田寄席で小せんを聴いたのは二年半前、演目は「ガーコン」だった。よく覚えている。「ガーコン」は川柳川柳の持ちネタで、ひたすら軍歌を歌いまくるという変な噺。川柳のてっぱんのネタで、人気があった。これを小せんが引き継いだ。軍歌ではなく、戦前の昭和歌謡を歌う。歌がうまいので心地よい。最後は戦後のジャズになるのは川柳と同じパターンである。あとで、小せんさんによくやるのかと訊いてみたら、たまに気が向いたらやるとのことであった。

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 さて、今回の演目

 柳家小じか  狸の恩返し

 柳家小せん  味噌蔵

 柳家小じか  犬の目

 柳家小せん  河豚鍋

 小じかは小せんの弟子。まだ前座だが、貫禄がある。声の響きがよい。これはいい落語家になる。そんな予感がした。

 小せんは、手慣れたもの。体形は痩せているが、こちらも声がよい。歌がうまいが、きょうは歌の見せ場はなかった。いや、「味噌蔵」で「磯節」一節ほど歌った。

「河豚鍋」はこの時期の演目。河豚鍋は旨いが、当たるかもしれない。旦那と河豚鍋を囲むことになったが、毒にやられる恐れがあるので、なかなか口をつけることができない。お菰さんがやってきたので、これ幸いと河豚を与える。お菰さんの跡をつけて、食べて大丈夫だったかを確かめる、といったストーリーである。

 食べるのではなく、いかに食べないかのやりとりが笑える。小せんらしさがよく出た噺だった。

 家に帰って夕食のメニューは、河豚ではなく、鮟鱇鍋だった。鮟鱇もわるくない。

 

2025年1月14日 (火)

「シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録」

 昨年、唐十郎が亡くなった。その追悼で、唐十郎と劇団の活動を描いたドキュメンタリー映画がアートセンターで上映された。そんな映画があることは知らなかった。監督は大島新

 時代は2006年から07年にかけて。唐十郎は『海底二万哩』に触発された「行商人ネモ」の台本を書き上げ、それを舞台にする。そのプロセスである。

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 わたくしごと。『海底二万哩』を読んだのは小学6年のとき。なにかの賞品でもらった。ジュール・ヴェルヌの本はいくつか読んだが、最初に読んだ『海底二万哩』がいちばんおもしろかった。登場人物は潜水艦の艦長ネモ。唐のタイトルもそこから採られている。

 書いたシナリオは劇団員によって清書され、製本される。稽古は一見、和気藹々としている。唐はにこやかに笑う。唐の笑顔がいい。それが突然機嫌を損ね、怒り出す。すさまじい怒鳴り声。劇団員は震え上がる。が、怒りは長くは続かない。ふたたびもとの稽古に戻る。

状況劇場を解散した後の唐組。劇団員を20年も続けているベテランが二人いる。その二人が緩衝役となって、唐組をまとめている。メンバーの給料は安い。当て書き(出演者にあわせて台本を書くこと)の団員だけがもらえる。あとはちょろちょろ。俳優といっても大道具小道具、食事の世話などなんでも行う。そうやって舞台が作られる。

 大阪での公演初日までが描かれる。劇団運営とは大変なものだと思う。唐のようなエキセントリックなリーダーについていくは厳しい。しかし、団員は唐の魅力に引きつけられて組を離れられないでいる。それがなんとなくわかる。

 エンディングで、この映画は70パーセントがノンフィクションで20パーセントがフィクション、あとに10パーセントはどちらかわからないと字幕がでる。演出もあるってことか。唐の振る舞い自体が演劇的なんだと理解する。

唐は芝居という仮面を外されない人生を生きてきたのだろう。

 

2025年1月12日 (日)

地下水道

 リニア新幹線の工事が行われている。水だの泡だのが出たといったことで、工事が思うようには進んでいない。

 ひとごとと思っていたら、リニア新幹線はわが麻生区の下を、それもそれほど遠くないところを通っていると知った。地上からではわからない。

 都市の地下にはいくつもトンネルが掘られている。新百合ヶ丘と百合丘の間には大きな水道管が埋設されている。それを「川崎の水」という記録映画で知った。川崎の生活用水、工業用水として神奈川県の山間部から水が供給されているのを描いたものである。

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 写真にあるのがそれ(百合丘駅近くの駐輪場から撮った)。真ん中あたりの空き地に巨大な水道管(導水)が埋設されている。その上を津久井道(世田谷街道)と小田急線が走っている。津久井湖から長沢にある浄水場まで直径3メートル以上の水道管がつながっている。

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  もう一枚は、上の写真の反対側(浄水場方向)を写したもの。以前、水道局所有の土地と表示があった。なんのための用地かわからなかった。

  地下水道は戦後まもなく作られたものだが、それだけでは賄えず、現在では相模湖、宮ケ瀬湖、丹沢湖からも引かれている。

  見えないところに都市のインフラがあることをあらためて知った。

 ついでのひとこと

  新百合ヶ丘には横浜とつながる地下鉄が作られることになっている。完成までに10年といわれるが数年前も10年と言っていたから、いつになるかわからない。私が生きているうちに完成するのだろうか。ま、無理やろうな。

2025年1月10日 (金)

「太陽と桃の歌」

 スペインのカタルーニアの農村。桃農園を営むファミリーの物語である。

 ずっとこの地で桃をつくってきたが、地主から収穫後に土地を明け渡すよう迫られている。その土地にソーラーパネルを設置しようとするのだ。父親は絶対反対だが、この際だから止めてもいいのではないかと思う家族もいる。桃農園の経営は大変である。鹿や兎による獣害がある。桃を仕入れる業者の値引き要請も強くなっている。このままでは成り立たなくなる。

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 そんな現状をドキュメンタリーのように映し出す。ファミリーのいくつかのエピソードを積み重ねていく。これといった展開、起承転結はない。

観客はただ農村風景や無邪気に振る舞う子供たちの様子や家族の諍いを眺めるだけである。

 緊迫するのは、卸売り業者への抗議集会ぐらい。トラクターで集まった農民は門前に桃をブチまける。いまの価格ではやっていけない。買い取り価格の値上げを要求する。これが効を奏するかどうかはわからない。桃は日本のものとは種類が違うようだ。固そう。生食よりジュースか缶詰用か。

 農地が工場用地になっていく光景はどこの国でも見られる。都市化が進めば、住宅地になったりするのは致し方ないだろう。ソーラーパネル程度ならいいのではないかと寛大な気持ちになってしまう。

 が、農業を考えれば背後に深刻な問題がある。日本の農地もずいぶん減った。農業従事者も少なくなった。酪農もやめる人が急増している。経営が苦しくなっている。輸入飼料の高騰である。円安が拍車をかける。なんとかしなければならないが、国の支援は乏しい。食料安保は重要といいながら、一方で軍需予算を大幅に増やしている。

2025年1月 8日 (水)

『文化の脱走兵』

 学生のころ、50年以上まえのことだが、エセーニンの詩を読んでいた。なんども読みかえした。今も、その一部をそらんじることができる。

 奈倉有里の『文化の脱走兵』の中にエセーニンにふれた部分があるとの新聞記事を目にした。いまどき、エセーニンを知る人はほとんどいない。わたしにはなつかしい。読んでみた。奥付を見ると、著者はゴーリキー文学大学卒、翻訳を多くしている。まだ40そこそこと若い。

 ここ数年に書かれたもの。ウクライナ侵攻後のロシアへの想いなどを綴っている。声高に、反プーチン、反戦争を叫ぶことができない市民の様子である。

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 エセーニンについて書かれた部分は少ない。「脱走兵」というフレーズはエセーニンからの引用であるが、わたしは知らなかった。読んでいないか、読み過ごしたのか。

 ・・・僕は国でいちばんの脱走兵になった。

 エセーニンは1916年に動員させられる。第一次大戦のさなか、ロシア革命のちょい前。衛生兵だった。鉄砲を撃つことはなかったようだ。二十歳そこそこの青年は揺れる社会の中を生きた。生き抜くことはなくわずかな詩を残して逝った。

 本書では「源氏物語」に触れた章がある。ロシアでも出版されている。与謝野版から翻訳である。その翻訳者とのつながりが生まれたことを書いている。ロシアは遠い国になっているが、文学面でのつながりは強い。ロシア文学は広く長く、日本でも読み継がれてきた。

 それにしても、特別軍事作戦。どれほどの戦死者がでているか、ロシア政府は発表していないのでわからない。何万ではきかないかもしれない。脱走兵はどれほどいるのか。兵役に就く前に脱出した若者は多かった。

 ついでのひとこと

 書棚に並ぶ『エセーニン詩集』を取り出した。開いてみると、字が細かい。読む気にならない。元の棚に戻した。死ぬまでにふたたび開くことはあるまい。もう読めない。捨てないけど。

 さらにひとこと

 奈倉有里さんは読売新聞の読書委員になった。どんな本を紹介してくれるのだろうか。

2025年1月 7日 (火)

「キノ・ライカ」

 去年の年始め、カウリスマキ監督の「枯れ葉」を観た。冒頭、「竹田の子守唄」が流れる。この歌がフィンランドでも知られているのかと心に残った。

 アートセンターで「キノ・ライカ」を観てきた。カリウスマキたちがヘルシンキ郊外のカルッキラに映画館をつくるというドキュメンタリーである。監督はカリウスマキではなく、クロアチア出身のヴェリコ・ヴィダク。家族をともないこの地で一年ほどかけて撮影したという。

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 カーラジオ(それともテープ?)から流れる歌は日本語。男性が太い声で歌っている。「枯れ葉」と一緒。あとでわかったのだが、歌うは篠原俊武という人物。フィンランドに長く住んでいるという。カリウスマキの日本贔屓はこのあたりにあるかもしれない。

 カルッキラはかつて鋳物製造で栄えた街なのだが、いまは衰退している。老朽化した鋳物工場を改装して理想の映画館を作ろういうのだ。カリウスマキ自身も金槌を持つ。一心不乱に建てようとする雰囲気はない。しろうとの集まりだから完成までは時間がかかる。

 隣接した建物にはカフェもつくる。ワインも飲んだりしてゆっくり過ごせるようになっている。理想の空間である。採算にあうのかと考えてしまうが、それはそれ。なんとかなるだろう。ならなくなればまた考えればよい。うらやましい。そういうカフェで映画のおしゃべりをしてみたい。

 ジム・ジャームッシュが登場する。カウリスマキとは友人である。フィンランドを訪れたときの思い出を語る。カリウスマキが運転する古いキャデラックに乗る。屋根がない車。雪が降ってきた。

 この映画、そういえばジャームッシュの映像に似ているように感じる。アンドレ・バザン(映画評論家)がどうのこうのという会話も出てくる。わたしにとってはなつかしい人だ。

ということで、映画ファン、とくにむかしのヨーロッパ映画が好きな人にはぜひ観てもらいたい。

 ついでのひとこと

 映画館で映画祭仲間と出会った。「侍タイムスリッパー」を7回観たという。おもしろい映画だけど、短期間に何回も観るような映画ではないと思うが、はまっちゃったんだろう。もうひとり、駅近で仲間と会った。これから「パリ・テキサス」を観に行くという。渋いねえ。久しぶりに観るのはよい。

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 七草粥 

 きょうは七草粥の日。麻生区民館前の広場では、例年、七草粥が振舞われる。例年より人は少ない。直前まで雨が降ったせいだろう。

 縁起ものである。うまいものではない。

 

 

 

 

2025年1月 5日 (日)

 谷川俊太郎 ふたつの詩

 年末、谷川俊太郎のアーカイブ番組をいくつか観た。

ぼく』という絵本の制作過程を描いたドキュメンタリーが印象に残っている。谷川さんの要望で絵を描き替えたりして、絵本の完成まで時間をかける。そのやりとりは面白かったが、それ以上に、自殺防止センターのベテラン相談員のことばが深かった。

「ぼくはしんだ じぶんでしんだ」という少年の自殺がテーマになっている。女性の相談員は、「わかる」とは言わないようにしていると語っていた。

 相手の気持ちに沿うように、わかるわ、と共感のことば発しがちになるが、それは違うというのだ。自殺しようとする人は、生と死のはざまでもがき苦しんでいる。せっぱつまって防止センターに電話をしてくる。それを聴きながら、薄っぺらな共感のことばを発してはならないということだろう。

 では、どう対応したらよいのか。番組はそこまで映してはいない。わたしにはわからない。どう答えたよいかわからない。番組を観てから、ときどき考えるのだが、うまく整理することはできない。ネガティブ・ケイパビリティということばが浮かぶ。

 フランクル、あの『夜と霧』の著者のことばを思い出す。フランクルは、自殺したい人に問う。問いはふたつ。あなたが死ぬと悲しむ人はいるか。やり残したことはないか。

 記憶はあやふやだが、たしかそう問うことで、フランクルは自殺願望者に対処した。

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 さて、もうひとつ谷川俊太郎ネタ。こちらは明るい。

 新潮社の「波」の一月号の「編輯後記」に谷川さんの詩の一部が載っている。「なんでもおまんこ「。へー、こんな詩も書いていたんだ。

 その一部、「なんでもおまんこなんだよ/あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ/やれたらやりてえんだよ/おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな」

 あけすけで明るい。このあとどう続くのかわからない。

 いま、このことばをつかうとひんしゅくを買う。でも、いいじゃないか、おおらかで。

 落語家の快楽亭ブラックは、いつも使っている。平気である。マイナーな寄席だから誰も文句をつけない。むしろ喜んで聴いている。おおらかで、よい。

 

2025年1月 3日 (金)

「グランメゾン・パリ」

 料理をするシーンがある映画が好きだ。

 茹でたソーメンを冷たい水で洗うシーンとか、ナスやトマトを切って盛り付けるシーンとか。あるいは湯気がたつポトフとか。シズル感たっぷりの映像に惹かれる。

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グランメゾン・パリ」を観てきた。料理人を描いた映画だから、調理の場面はたっぷりあるはずだ。うまそうな、食欲をそそるシーンはいくつもあった。

 ただ、画像が鮮明でなかった。こちらが目がわるくなったこともあるが、それ以上に劇場の映写機の解像力が劣っているからだ。スクリーンの大きさに対応できていない。スぺクタルでないから大画面で映さなくてもよい。ミニシアター並みの小さな画面でよい。それなら鮮明な画面になるに違いない。映画館もスクリーンに耐えうるような高精度の機器にしたほうがよい。

 映画は、パリで三ツ星を狙うシェフ・尾花(木村拓哉)を中心としたストーリーである。テレビ版があるけれど観ていない。三ツ星がとれなければレストランを続けることができないという設定。尾花シェフはさまざまなトラブルが襲い、窮地に陥るというありふれたストーリーである。

  素材の熟成肉は思うように手に入らない。キャビアもそう。クルーの一人、韓国人の料理人は、悪い連中から借金の返済を迫られている。相棒とも言うべき倫子(鈴木京香)は尾花のもとを離れる。そこからのリカバリーである。

  ストーリーはわるくないのだが、やはり画面が・・・いまひとつである。

  料理は旨そう。年末年始、これといった料理を味わっていない。家人の料理は私向きなのだが、豪華ではない。たまには、奮発してフグなど。

 ついでのひとこと

 おせち料理はあまり食べなくなった。たくさんあると飽きる。市販のものは、しょっぱいし、味付けが濃い。

  で、朝はいつもどおり、きな粉をたっぷり入れたヨーグルトと野菜。昼はおせち。ごまめ(たつくり)が旨い。宮城から取り寄せたかまぼこもふわふわ。でも、数の子や伊達巻きは、いらない。

2025年1月 1日 (水)

あけましておめでとうございます

 なんだかわけのわからない世の中になってきている。数年前の常識がどこかに飛び散り、あらたな考えというか妙な理屈が支配するようになっている。新聞が凋落し、テレビも怪しくなり、スマホのXだのネット情報が世を席巻する時代になっている。年寄りはついていけない

 それを強く感じたのは兵庫県の知事選である。まさかの結果。識者はそれらしい理屈をつけて解説している。理屈はわかるけど、それでいいのか。

 今年を最後に年賀状をやめることにした。その旨を年賀状に記した。目が悪くなり、細かなことができなくなるとともに面倒になったからだ。詳細は省くが、見つめるという動作が煩わしくなった。日常生活にはおおきな障りはないけれど、どこかで間違いをする。夜道は懐中電灯がないと歩けない。逆に日の光はひどくまぶしくなった。視界がうっとうしい。

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  近所の十二神社に初詣に出かけた。近場なら神経を遣わずに歩ける。ついでにコーヒーショップに回って、短時間だが雑誌を読んだ。

 世を考えると、ますますわからない。もう少しスマホに馴れたいとも思う。東日本大震災の直後、スマホにした。同世代の誰よりも早かったが、スマホテクニックは上達していない。

 世にあれこれ難問はあるけれど、年寄りが考えることでもない。ジタバタしない。

 あとは野となれ山となれ

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