谷川俊太郎 ふたつの詩
年末、谷川俊太郎のアーカイブ番組をいくつか観た。
『ぼく』という絵本の制作過程を描いたドキュメンタリーが印象に残っている。谷川さんの要望で絵を描き替えたりして、絵本の完成まで時間をかける。そのやりとりは面白かったが、それ以上に、自殺防止センターのベテラン相談員のことばが深かった。
「ぼくはしんだ じぶんでしんだ」という少年の自殺がテーマになっている。女性の相談員は、「わかる」とは言わないようにしていると語っていた。
相手の気持ちに沿うように、わかるわ、と共感のことば発しがちになるが、それは違うというのだ。自殺しようとする人は、生と死のはざまでもがき苦しんでいる。せっぱつまって防止センターに電話をしてくる。それを聴きながら、薄っぺらな共感のことばを発してはならないということだろう。
では、どう対応したらよいのか。番組はそこまで映してはいない。わたしにはわからない。どう答えたよいかわからない。番組を観てから、ときどき考えるのだが、うまく整理することはできない。ネガティブ・ケイパビリティということばが浮かぶ。
フランクル、あの『夜と霧』の著者のことばを思い出す。フランクルは、自殺したい人に問う。問いはふたつ。あなたが死ぬと悲しむ人はいるか。やり残したことはないか。
記憶はあやふやだが、たしかそう問うことで、フランクルは自殺願望者に対処した。
さて、もうひとつ谷川俊太郎ネタ。こちらは明るい。
新潮社の「波」の一月号の「編輯後記」に谷川さんの詩の一部が載っている。「なんでもおまんこ「。へー、こんな詩も書いていたんだ。
その一部、「なんでもおまんこなんだよ/あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ/やれたらやりてえんだよ/おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな」
あけすけで明るい。このあとどう続くのかわからない。
いま、このことばをつかうとひんしゅくを買う。でも、いいじゃないか、おおらかで。
落語家の快楽亭ブラックは、いつも使っている。平気である。マイナーな寄席だから誰も文句をつけない。むしろ喜んで聴いている。おおらかで、よい。
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