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2025年2月

2025年2月28日 (金)

「籠の中の乙女」

哀れなるものたち」は大ヒットした。奇っ怪なストーリーなのだが、それが面白いとなった。ヨルゴスランティモス監督の名も高まった。

2017年の同監督による「聖なる鹿殺し」が印象に残っている。ラストシーンはカフカの「変身」を思わせた。「変身」は、視点にもよるが、ハッピーエンドである。「聖なる鹿殺し」もそうである。誰かが犠牲になる、それと引き換えに平穏な日常がもたらされるといった神話の世界を連想した。

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籠の中の乙女」をアートセンターで観てきた。4Kレストア版。「鹿殺し」より以前に作られたものだ。

 ひとことで言って、やっかいな映画である。変てこりん。設定は明らかにされない。ファーストシーンはなんだろうと観客は首を傾げる。

 ある家族の話。両親は子供たちを家に閉じ込めて育ててきた。家のほか広い庭とプールが生活圏。なぜそうしたかは不明。タイトルに乙女とあるが子供は息子と二人の娘。親に服従させられてきた。従順を強いられ、スタンプをあつめるとご褒美がもらえる。子供同士では取引がある。肌を舐めるとカチューシャがもらえるとか、交換である。育つにつれ、性への関心もあり、セックスごっこをする。その一方で、塀の向こうも気になってくる。親は犬歯が抜けたら外に出られると教える。乳歯じゃないから生え変わることはないのに。

 親は意のままに育てようとするが、子はそうはならない。いずれ反撥する。精神の歪みも表面化することになる。

 異状、奇っ怪、不気味・・・これぞランティモスの世界である。

 映画は唐突に終わる。えっ、これで終わり? ハッピーでもアンハッピーでもない。不気味さだけがただよう。観客を突き放す。なにかを感じとり、解釈することは可能だが、それを書くと安直になりそう。書かないで保留しておこう。

 

 

2025年2月26日 (水)

『生きるための読書』

  冒頭の一行、「八十代も半ばになると、老人として生きていくことに飽きてくる。

  よくわからない。淡々と生きて、この世から消えていく。そうなるのだろうが、それも面白くないということか。

  本屋の店頭で津野海太郎の『生きるための読書』をパラパラめくった。「もうじき死ぬ人」という章がある。いい歳だから、飽きてくるとなるのか。

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 本書はラストメッセージと読み取ってもよい。続けて、6人の研究者の名が並んでいる。伊藤亜紗、斎藤幸平、森田真生、小川さやか、千葉雅也、藤原辰史。気鋭の研究者である。その著作を紹介している。人選はなかなかのものだ。とりわけ、小川さやか藤原辰史は私の好みだ。著作は読むようにしている。小川さやかのタンザニア人の生き方(サバイバル処世術)の解説は説得力がある。興味をひく。以前、当ブログでも紹介したことがある。斎藤辰史の『給食の歴史』や『トラクターの世界史』はお薦めである。ということで、本書もお薦め。

  以上が前半。後半は鶴見俊輔の思想が中心となる。鶴見的アナキズムの思想を解説している。

 老いたと言いながら著者の思考は老いていない。若々しい。ところが、本書の手直しをしている最中、思いもかけない災難に遭う。自宅の階段で転倒してしまったのだ。したたか頭を打ち、死にはしなかったが、3か月入院することになる。そしてリハビリ。後遺症もある。

 私より9歳上だから完治することはないだろう。しかし、老人として生きていくことに飽きるなんてことは言ってられない。スーパー老人になってもらいたい。

 

2025年2月24日 (月)

都民寄席

 町田は神奈川県なのか東京都なのかというお笑いネタがある。どうでもよいけど、偽神奈川ではないかというギャグもある。となり同士のじゃれネタである。

 都民寄席に行ってきた。鶴川のポプリホール。東京都の文化事業で、無料。ただし抽選。誰でも応募できる。毎年応募しているが、なかなか当たらない。10年ほど前に一回当たったことがある。それが久しぶりに当選した。たぶん10倍ぐらいの確率なんだろう。

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  のだゆきのリコーダーパフォーマンスを挟んで、ベテラン噺家の長講2席。

  演目

  桂 文治   らくだ

  五街道雲助 火事息子

 文治は、明るく元気に演じる。「らくだ」はおなじみの噺。マクラなしだった。

 屑屋さんは、乱暴なちょうの目の半次に振り回される。この半次をフランケンシュタインのように演じる。文治の演出である。怖い。これがあとで、主客が入れ替わって屑屋さんが逆襲に出る。半次を怒鳴りつける。この転換が聴きどころで、怖い屑屋となる。切り替えがみごと。うまいものだ。

 人間国宝の雲助。「家事息子」はお手のものである。勘当された息子が臥煙(火消し)となって5年後に親と再会する噺である。

 とくに、後半をたっぷりゆったり演じた。笑いも交えて親子の絆を描く。さすがの名人芸である。 

 さて、配られたチラシには挨拶が載っていた。小池百合子と日枝久。小池さんは都知事だから当然だが、日枝さんにはちょっと驚く。あのフジテレビの日枝さん。特にコメントはしない。

 ついでのひとこと

 桂才賀が亡くなった。死ぬにはまだ早い。享年74。堂々たる落語だった。悪相だったが、それに似合わず、刑務所の慰問を精力的にこなした。服役する人に「またここで会おう」とギャグをとばした。悪相というのは失礼か。

「箱だけの女」などという演出もあった。

 

2025年2月22日 (土)

「I Like Movies アイ・ライク・ムービーズ」

 カナダ映画の「アイ・ライク・ムービーズ」をアートセンターで観てきた。

 20年ぐらい前、レンタルビデオショップでアルバイトをする高校生の物語である。

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 フローレンスは母と二人暮らし.人つきあいはちょっと苦手。大の映画好きである。ミューヨークの大学で映画を学びたいと考えているが、母親はそんな遠くではなく、近くのカナダの大学に行くことを望んでいる。情緒不安定なフローレンスはヘマをやらかしたりして、周りを苛立てさせるが、おおむね優しい。バイト先のビデオショップの女性店長も彼には理解がある。

 映画好きにとっては、どんな映画の話題が出てくるのだろうかと、それも愉しみである。

「アイズ・ワイド・シャット」は嫌いだとか。「マグノリアの花たち」がいちばん好きとかといったセリフがある。映画ファンはなるほどとうなずく。

 キネマ旬報映画賞

 キネマ旬報のベスト10が発表された。日本映画のベスト1は「夜明けのすべて」。順当だね。瀬尾まいこの原作も読んだが、映画も原作もよい。どちらもお薦め。

 外国映画は「オッペンハイマー」がトップ。私の好みでは「夜の外側」か「ホールド・オーバース」。いずれもトップ10に入っている。

2025年2月20日 (木)

「セプテンバー5」

 ミュンヘンオリンピックが開催されたのは1972年。大変な事件が起きた。「黒い9月」と名乗るパレスチナのテロ組織が選手村に侵入してイスラエルの選手を人質にした。50年以上前のことだから、事件を知る人は少なくなっている。

オリンピックを中継するはずだったアメリカABCテレビのスタジオの様子を描いた映画「セプテンバー5」を観てきた。事件は9月5日に起きた。

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 ほとんどが放送ブースの動きである。状況が刻々と変わる中、どう放送するか混乱しながら映像を流す。その映像は世界中に流れることになる。犯人側からは中継をやめるよう要求が入る。ABC本部から報道局に任せろと指示があるが。拒否する。警察も踏み込む。放送ブースの緊迫した様子が伝わってくる。ドキュメンタリーを観ているようである。結局、人質11人が犠牲となり、事件は収束する。

 映画を観つめながら、別のことを考えていた。この事件についてはスピルバーグが映画にしている。「ミュンヘン」。主に事件以降のことを描いたものだ。いい映画だったが、世の評価はそれほどでもなかったから知らない人も多い。

 モサド(イスラエルの情報組織)が逃げ延びた犯人(パレスチナゲリラ)を突き止め、次々と復讐していくストーリーである。これも実話。闇の情報屋がいて、そこから犯人を特定し、暗殺する。

 さらに、地下組織というか国家を信じない不思議な人物も暗躍する。表には出ないスパイ網の存在もあるようだが、正確なところはわからない。

 イスラエルの執念深さを感じる。いまのハマスへの憎悪に通じる。

 

2025年2月18日 (火)

『編集を愛して』

  きのうの続き。

  松田哲夫と私は同い歳。言うまでもないが後期高齢者。いま、パーキンソン病を患っている。老人ホームでくらしている。本書のサブタイトルに「アンソロジストの優雅な日々」とある。現役時代は優雅だった、ということか。

 松田は学生時代、筑摩書房でアルバイトをした。その延長で入社する。

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 松田が編集者として手腕を発揮するのは。アンソロジーである。『ちくま文学の森』『ちくま哲学の森』は大ヒットとなった。出版界に松田の名を知らしめた。

『ちくま文学の森』の編者は、安野光雅、井上ひさし、池内紀、森毅の四人。「哲学の森」鶴見駿輔が加わる。

 その編集会議の様子を伝えている。談論風発、放談会といった趣き。編者たちもこの会合を楽しみにしていた。とりわけ鶴見の博覧強記ぶりに他メンバーは驚かされた、愉快な会合だった様子が伝わってくる。こういう会議に出席していた松田がうらやましい。このアンソロジーはいまも読み継がれているという。

 のちに松田は、筑摩ではないけど『中学生までに読んでおきたい日本文学』などの編者にもなっている。

 編集者は原稿依頼だけで作家と付き合うわけでない。執筆以外のまじわりがある。

 赤瀬川原平、南伸坊、藤森照信らの路上観察学会の創立に立ち会う。老人力もその付き合いの中から生まれた。野坂昭如のアドリブ倶楽部(ラグビーチーム)のメンバーにもなった。

 書きたいことはまだまだある。「ちくま文庫」もそれだが、切りがないので止めておく。ひとこと加えると、本書は読んで心地よい。ちくまファンにはなつかしくもある。

 ついでひとこと

「中学までに読んでおきたい日本文学」の「お金物語」に森鴎外の「高瀬舟」がリストされている。安楽死をテーマにした名作だが、それを「お金物語」に分類したのはひとつの見識である。

 喜助は流刑となるが、お上から二百文を渡される、喜助にとっては初めて手にするまとまった金である。現在の価値なら1万円に満たない。ありがたいことだと感謝している。お金の価値、金銭感覚の面からこの短編を味わってみるのもよい。

2025年2月17日 (月)

筑摩書房と私

  若いころから筑摩書房の本や雑誌を好んで読んできた。学生時代は「展望」と「言語生活」。「展望」は毎月購読していたわけではないが、岩波の「世界」などより好みだった。臼井吉見の「安曇野」が連載中だった。「言語生活」は専門とは関係なかったが、趣味として読んでいた。連載の「ことばのくずかご」のファンだった。のちに三省堂国語辞典の編者である見坊豪紀と知り合うきっかけとなった。

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 社会人となってからは、松田道雄が編纂した『私のアンソロジー』が愛読書となった。松田道雄といっても知らない人が多くなっている。小児科医で育児の権威だった。著作の『私は二歳』は大ベストセラーとなった。

『私のアンソロジー』は箱入り。といっても豪華本ではない。全7冊。いくつかのテーマで括られ、松田道雄の幅広い読書ぶりに驚くとともに、深い教養に感服した。読んだ後も、折を見てパラパラ開いていた。私の思考の基礎をかためるのに格好の書物だった。50年以上も前のことだ。

 こういう本を出す筑摩書房には格段の敬意を払っていた。

その後も、筑摩はアンソロジーでヒットシリーズを出すことになり、「アンソロジーのちくま」と呼ばれるようになる。

  ところが、後年、筑摩は倒産してしまう。いい本を出すことと経営はなかなか両立しないということか。「言語生活」は休刊となる。「ことばのくずかご」は新生の筑摩のPR誌に引き継がれることになった。そのあたりの経緯は記憶もぼやけている。

 と、筑摩のことを書き始めたのは、長く筑摩に勤めた松田哲夫の『編集を愛して』を読んだからである。

 目が疲れた。松田哲夫の本については次回に回す。

2025年2月15日 (土)

 桂文珍独演会

 桂文珍独演会に行ってきた。新百合ヶ丘では毎年やっている。今年で18回目になるという。ながく続いているわけで。来年も1月にやるというチラシを渡された。

 弟子の桂楽珍が開口一番を務めた。座布団返しもやる。若くはない。貫禄十分。63歳だそうだ。

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 文珍師匠の今回の演目。

 ぴ~

 富久

 七度狐

ぴ~」は、不都合な発言を消すあの音のこと。ギャグをつなぎ合わせた小噺アラカルトであって、ストーリーはない。こういうギャグは文珍の得意とするところである。

富久」はおなじみの古典噺。最近やるようになったそうだ。

トリネタは「七度狐」。上方の噺で、関東ではそれほど聴く機会はない。以前、テレビの落語番組で聴いたことがある。ライブでは初めて。

 二人連れの旅人が茶屋で失敬した木の芽和えの鉢を草むらに放り投げると、鉢はそこに寝ていた狐の頭にあたってしまう。狐は怒って仕返しをする。旅人を化かすという噺である。一回やられたら七度化かすという執念深い狐で、旅人は散々な目に遭うことになる。

 この噺には三味線、太鼓といった鳴り物が入る。それがふつうらしい。にぎやかな高座になるわけで、大看板にふさわしい演目と言える。

 ということで、愉快なひとときとなった。客席はほとんど後期高齢者だった。女性が多い。

 老婆はいつも休みである。老婆の休日

2025年2月13日 (木)

「ブラックバード、ブラックベリー、私は私」

  上映ぎりぎりとなって、ジョージアの「ブラックバード、ブラックベリー、私は私」をアートセンターで観てきた。

 ちょっと笑える、カリウスマキタッチの映画である。原作は女性、監督も女性、主人公も女性であるけれど、ことさらフェミニズムを強調した映画ではない。

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 雑貨屋を営むエテロは48歳の独身。ブルーベリーを摘んだりして独り暮らしを楽しんでいる。ある日、配達に来た中年男と唐突に関係をもつ。処女喪失。むろん秘密である。最近疲れると言うと、村の女たちは太 りすぎだの更年期障害だのと口さががない。配達員の男との関係は続くが、結婚する意志はない。愛ということばに騙されない、自由に生きていきたいと思う。そんなエテロだが、からだに異変を感じる。子宮がんを疑い、大きな街の病院で診断を受けることになる。

 といったストーリー。私は私といった毅然とした姿が印象深い。ラストのどんでん返しのようなような展開に驚く。ユーモラス。なるほど、そうくるか。いい結末である。

 ついでのひとこと 日本アカデミー賞候補作

 日本アカデミー賞の優秀作品が発表された。最優秀賞のノミネートである。

「キングダム 大将軍の帰還」「侍タイムスリッパー」「正体」「夜明けのすべて」「ラストマイル」の5作品。「キングダム」は観ていない。この中では地味だが「夜明けのすべて」がよかった。原作も読んだ。

 外国作品賞は「哀れなるものたち」「オッペンハイマー」「関心領域」「シビル・ウォー アメリカ最後の日」「花嫁はどこへ?」の5作品。「花嫁」は観ていない。この中なら「シビル・ウォー」がよかった。「哀れなるものたち」もよい。それより「夜の外側」がなぜ入っていないのか。「人間の境界」もリストアップされてもよい。「関心領域」よりこっちだな。

2025年2月11日 (火)

「夏の庭 The Friends」

 相米慎二監督が亡くなったのは2001年、20年以上前になる。いまだ相米作品を熱く語る人は多い。海外での評価も広がっている。いくつかは4Kリマスター版ととなっている。

  そのデジタル化された「夏の庭 The Friends」をアートセンターで観てきた。30年ほど前、1994の作品である。

 この映画をわたしは観ていない。あのころは仕事で忙しかったので見逃した名作は多い。原作は、通勤電車の中で揺られながら読んだ記憶がある。

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 小学生の三人が、死に興味を持ち始める。死ぬとはどういうことか、人はどんなふうに死ぬのかといった疑問を抱く。近くの一軒家に住むおじいさんがもうすぐ死にそうだという声を耳にし、その家を見張ることにする。夏休み、サッカーの練習の合間に家を覗く。日々の行動を追う。最初は、見つかって追いたてられたりするが、そのうち、おじいさんの家に招かれるようになる。そして、荒れ果てた庭の草を抜き、花を植えたりするようになる。

 おじいさんから、戦争体験や家族のことなどを聴いたりする。

 おじいさん役は三国連太郎。共演者は、戸田菜穂淡島千景。ちょい役で鶴瓶、江本明なども出ている。

 相米監督作品には子役が多く登場する。子供のつかいかたがうまいと言われる。大の子供好きと思われるが、相米監督の弟子である足立紳は意外なことを語っている。映画の現場では子供たちとうまくいっていないというか、コミュニケーション不全のところがあった、と。

 子供たちとの会話がうまくいかない。ところが、撮影となるとそれなりの指示をして、できあがってみれば上手く子供たちの演技を引き出していた。

 そういうものなのか。クレーのカメラから俯瞰したショットが多い。子供たちは駆ける。走り回る。あらためて相米イズムを感じた。

 ついでのひとこと

 日本映画大学の卒業制作映画の上映会がイオンシネマであった。新百合ヶ丘ならではのイベントである。5本の短編(ドラマ2本、ドキュメンタリー3本)が上映された。驚いたのは、ドキュメンタリーの監督は全部中国からの留学生であった。3本は中国が舞台になる。

 映画大学の学生の半分以上は留学生だと聞いていたが、まさにそれを裏付けるような上映会となっていた。レベルは高い。卒業生は日本に残るか帰国するか知らないけど、どこでもきちんとした映画づくりができるんじゃないかな。基礎はしっかり身につけている。

 

2025年2月 9日 (日)

『癲狂院日乗』

  車谷長吉が亡くなって10年がたつ。

  車谷長吉の本を好んで読んできた。ゆっくりした流れの中を漂っているような気分になる。中身は、率直。露悪的であったりする。恨み辛みも平然と書いているところがおもしろい。

癲狂院日乗』を読んだ。昨年出版されたものだ。「日乗」とあるように日記である。公開を前提として書かれたものだが、書かれては困る人いる。とりわけ嘆き悲しむのは叔母。著者が亡くなり十年がたち、その叔母も亡くなったので出版に踏み切ったと、連れ合いの高橋順子があとがきに記している。差しさわりのある編集者なども一部を記号にしている。

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 平成10年4月から始まっている。強迫神経症に悩まされている。妻とは仲がよい。「順子ちゃんがいないので淋しい」と書いたりしている。ほぼ1年にわたっての日記である。

 面白いのは伊藤整文学賞を辞退した経緯。ただ伊藤整が嫌いだっただけ。賞金の壱百萬を棒に振る。意地っ張りなのだ。

 この年、『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞を受賞する。こちらは素直に、というか喜んで受ける。そして直木賞バブルとでも言うべき日乗が続く。

 作家は犬、編輯者に追い立てられたり、餌をあたえたり、食わせてもらったり、出版社の飼い犬なのだと嘆く。笑える。

「日乗」というと永井荷風の『断腸亭日乗』がある。あれより断然、おもしろい。車谷を知らない人にも奨めたい。

2025年2月 7日 (金)

嘔吐と点眼

 嘔吐した。久しぶりのことだ。昼に食べた鶏肉がザラザラ、貝の実に砂が混じったような味わいだった。おかしい。それから30分後に吐いた。食あたりなのか、わからない。

 映画を観るのをやめて、家でひっくり返っていた。気分は悪く、その夜は何も食べずに寝た。翌日、気分はいくぶん回復したが、胃のあたりが重い。腹は減っている。でも、あまり食べたくない。きな粉入りのヨーグルトを胃におさめた。体重が2キロ近く減っていた。

 4日後、目の治療をした。網膜の黄斑部分にステロイドを注入するものだ。1年半前、黄斑変性の手術をした。しかし視力は回復しなかった。眼底が腫れているのでその部分を鎮める注射なのだが、回復の見込みは少ないと眼科医は言う。ならばやらない方がよい。でも、かすかな期待で注射してもらった。

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 注射だから短時間でおわる。でも、感染予防が必要なので、事前事後の抗生物質の点眼をする。一日4回、朝昼晩夜。私の場合、緑内障で3種の点眼をしているので、点眼はややこしいし、面倒だ。間違えないかと聞かれるが、ま、たまに間違える。忘れることもある。

 結果は、わずかに改善したように思うが、期待通りではない。しばらくすれば元に戻ってしまうだろう。齢だからと、あきらめるしかない。

 映画館などには足元に注意して行くことになる。本も大きな活字のものにする。耳で聴く本のサイトもあるが、こちらは読みたいものがない。

 NHKの「らじるらじる」を聴くことが多くなった。

 

2025年2月 5日 (水)

 孤独か連帯か

 新型コロナウイルスが発生して中国の武漢は都市封鎖された。あれから5年たった。都市封鎖と聞き、カミユの『ペスト』に注目が集まった。パンデミックで封鎖された都市での物語である。文庫本は版を重ね、出版界はカミユブームとなった。

 その後、カミユへの関心は静まり、知る限りでは、新潮社の月刊誌「波」に内田樹の「カミユ論」が連載されている程度である。

 わたしは若い頃からカミユを読んできた。それなりの意見を有している。と言いたいところだが、なにせ昔のことだから忘れてしまっているし、抜けも多い。

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 カミユの短編で、孤独と連帯をテーマにしたものがあった。なかなか興味深いものだった。ところが題名を思い出せないのだ。あれ、なんだっけ。絵描きが倒れ、カンバスには小さな字で走り書きがあった。書いてあったのは、孤独なのか連帯なのか判読できなかったといったあらすじ。

 日本語だとずいぶん違うが、フランス語だと、Solitaire(孤独)Solidaire(連帯)。一文字違うだけなのだ。意味は真反対。

 それがなんという短編なのかわかった。『転落・追放と王国』のなかの「ヨナ」。30ページほど。ヨナは、画家として順調、家庭は幸せだったが、なんとなく行き詰まりを感じていた。周りに感謝しつつも不安をだった。

 そして、倒れて意識不明となる。私は死んだと思っていたが、死んだわけではない。そこまでは書いてない。

 若いころは、こういう文章に惹かれる。ちょっとかっこいいとも思う。

 といったことと少しずれるが、かねてより次のような問いを考えている。

 世の中は不条理だ、生きる意味はない。〇〇〇 生きていく。

 この〇〇〇のなかに適切な接続詞(接続表現)を入れよ。

 ふつうなら、「だけど」ぐらいなる。私は「だから」としたい。

 なぜそうしたいのか。ここでは詳細は書かない。カミユなら「だから」と答えるのではないかと想像するのだ。カミユを読んだ人は理解してくれるのではないか。

2025年2月 3日 (月)

「リアル・ペイン」

 6年前、ポーランドに行った。ワルシャワと南部のクラフクを巡る一週間ほどのツアー。アウシュビッツは心に重かった。が、総じて楽しい旅行だった。

リアル・ペイン~心の旅~」をイオンシネマで観てきた。ポーランド旅行の話である。アメリカに住むデビットとベンジーはいとこ同士。30代。亡くなった祖母のふるさとを訪ねる目的でポーランドツアーに参加する。

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 デビットは妻と子と幸せな家庭を築いている。まじめな若者だ。一方、ベンジーは独身。陽気で自由奔放な生き方をしている。デビットはベンジーに振り回されることはあるが、仲はよい。上映5分ぐらいで二人の性格はわかる。

 ワルシャワでツアーメンバーと合流する。ガイドはイギリス人。老夫婦、未亡人、そしてルワンダの青年。ルワンダの大虐殺事件を体験し、のちにユダヤ教に入信した。

 列車で南に向かう。ベンジーは一等車に乗ることが気に入らない。強制収容所にいくのに豪華な列車に乗るのは抵抗がある言い、別車両に移ってしまう。デビットは仕方なしにベンシーにつきあう。ところが寝過ごしてしまう。あわてて降りて、反対車線の列車でもどる。なんとか無事ツアーメンバーと巡り会うことができた。

デビットはガイドに文句を言うシーンがある。史跡もいいが、そこに住む人たちの声が聞こえないとかクレームをつける。ガイドは困惑する。

 強制収容所跡地はアウシュビッツではない。別の場所。ここで亡くなったユダヤ人たちに思いを馳せる。ことば少なになる。気分は重い。リアル・ペイン、心に刺さる。

 その後、メンバーと別れ、祖母が住んでいた住居に向かう。

 車窓には広大な麦畑が広がる。この畑は国の東側にあるウクライナにつながっている。ウクライナでも同じような光景だろうと想像できる。しかしロシアの話題は出てこなかった。

 流れるのはショパンのピアノ曲。しょっちゅう聴こえる。日本人の耳に馴染んだ曲が多い。ショパンといえばポーランド、ポーランドといえばショパン、である。

 監督・脚本はデビットを演じたジェシー・アイゼンバーク。ベンジーを演じたキーラン・カルキンの情緒不安定な演技が印象的。「ホーム・アローン」の主役の坊や、マーコレー・カルキンの弟だそうだ。

2025年2月 1日 (土)

「オークション 盗まれたエゴン・シーレ」

 黄斑変性の手術を受けて1年半になる。歪みは8割方なくなった。2割は残っている。手術としては成功なんだろうが、視力は回復しない。眼底がでこぼこになっている。片目では新聞が読めない。見出しも読めなくなった。老化といえばそれまでだが、やっかいなことだ。

 昔の仲間と会食した折り、黄斑変性による歪みをエゴン・シーレの絵のようだと説明した。エゴン・シーレって誰か、だれも知らなかった。おまえら、絵画の教養はないのかと、毒づいてやった。スマホで、エゴン・シーレ 自画像、と入れてみれば、最初にヒットする絵がそれ。斜めからの画像だが、片目だけ大きい。これに鼻の下を異様に長くすると変形した画像になる。あるいは、クレヨンしんちゃんのママ・みさえ。大きな片目だけのイラストを想像してみていただきたい。そんなふうに見える。

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 で、話は変わって、映画。アートセンターで「オークション 盗まれたエゴン・シーレ」を観てきた。かつてナチスに奪われ行方知れずとなっていたエゴン・シーレの絵がみつかり、オークションにかけられるという内容である。

 エゴン・シーレの絵は「ひまわり」。ゴッホの「ひまわり」に触発され描いたとされるが、SOMPO美術館に展示されている「ひまわり」とはまったく異なる。ゴッホはひまわりをたくさん描いているからどのひまわりに触発されたのかはわからない。以前、オランダでたくさんのゴッホの絵をみた。ひまわりだけでも20以上あったような気がする。枯れたひまわりが多かった。

 映画は、労働者のアパートでエゴン・シーレの「ひまわり」が見つかったところから始まる。ナチスに奪われ、ながく行方がわからなくなっていたものだ。

  パリのオークションハウスで働く競売人のマッソンは鑑定を依頼され、元妻とともに労働者のアパートを訪ねる。贋作ではない。以前、そこに住んでいた家族が所有していたもののようだ。ナチスが奪ったものが、戦後、その住民の手に渡った。所有者はすでに亡くなり、遺族はアメリカに移り住んでいることがわかる。その労働者は、所有権を主張せず、前の所有者の遺族に譲りたいと言う。あれこれあって、マッソンはオークションにかけるところまでたどり着く。

 オークションなら欲の塊のような人物ばかり集まる。最初に見つけた労働者は幾分かの分け前を主張することができるが、無欲であり恬淡としている。無欲と強欲の対比が面白い。ついでに言うと、私も欲はない。欲はむかしに捨てた。

 サブタイトルにエゴン・シーレとあるが、代表作の「自画像」も「哀しみの女」も出てこない。

 

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