孤独か連帯か
新型コロナウイルスが発生して中国の武漢は都市封鎖された。あれから5年たった。都市封鎖と聞き、カミユの『ペスト』に注目が集まった。パンデミックで封鎖された都市での物語である。文庫本は版を重ね、出版界はカミユブームとなった。
その後、カミユへの関心は静まり、知る限りでは、新潮社の月刊誌「波」に内田樹の「カミユ論」が連載されている程度である。
わたしは若い頃からカミユを読んできた。それなりの意見を有している。と言いたいところだが、なにせ昔のことだから忘れてしまっているし、抜けも多い。
カミユの短編で、孤独と連帯をテーマにしたものがあった。なかなか興味深いものだった。ところが題名を思い出せないのだ。あれ、なんだっけ。絵描きが倒れ、カンバスには小さな字で走り書きがあった。書いてあったのは、孤独なのか連帯なのか判読できなかったといったあらすじ。
日本語だとずいぶん違うが、フランス語だと、Solitaire(孤独)とSolidaire(連帯)。一文字違うだけなのだ。意味は真反対。
それがなんという短編なのかわかった。『転落・追放と王国』のなかの「ヨナ」。30ページほど。ヨナは、画家として順調、家庭は幸せだったが、なんとなく行き詰まりを感じていた。周りに感謝しつつも不安をだった。
そして、倒れて意識不明となる。私は死んだと思っていたが、死んだわけではない。そこまでは書いてない。
若いころは、こういう文章に惹かれる。ちょっとかっこいいとも思う。
といったことと少しずれるが、かねてより次のような問いを考えている。
世の中は不条理だ、生きる意味はない。〇〇〇 生きていく。
この〇〇〇のなかに適切な接続詞(接続表現)を入れよ。
ふつうなら、「だけど」ぐらいなる。私は「だから」としたい。
なぜそうしたいのか。ここでは詳細は書かない。カミユなら「だから」と答えるのではないかと想像するのだ。カミユを読んだ人は理解してくれるのではないか。
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