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2025年3月

2025年3月30日 (日)

ふとしたゆらぎ

 宇宙物理学者の佐治晴夫さんは、宇宙の始まり、ビッグバンを次のように表現している。

「ふとした小さなゆらぎから、突如、火の玉が爆発するようにこの宇宙がうまれた」(続・宇宙のカケラ)

 ふとしたゆらぎなのだ。ふとしたとは、思いがけなくとか、ちょっとしたといった意味で、突然と言うときつすぎる、ふんわり、さりげなくといったニュアンスを感じる。

 宇宙の始まりをビッグバンということは知っている。ゆらぎが生じたからも知っている。

 でも、なぜとなると、そう表現するしかないのかもしれない。

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ふとした病」を思い浮かべる。立川談志はこの表現を好んだ。脳梗塞とか心臓発作とかでなく、ちょっと病んであっけなく亡くなる。人知れずということもある。さりげなく現世におさらばする。談志はそんな死に方を望んでいた。実際はそうはならなかったけど。

 ふとした病、その病名を詮索するのはヤボである。宇宙のふとした揺らぎの原因を探るのもヤボかもしれない。神のきまぐれな差配としておこう。 

 ついでのひとこと

 写真は、ふと目を止めた花。ツツジのよう。が、ツツジにはまだ早い。スマホをかざして名前を読み取ろうとするが、決めかねている。ツツジのようなそうでないような。早咲きのツツジとしておこう。

2025年3月28日 (金)

「少年と犬」

 馳星周原作の「少年と犬」を観てきた。監督は瀬々敬久。瀬々はきちんと映画を撮る監督である。

  先に観た知人が、泣いた、原作も泣けたけど映画も泣いたと語っていた。へー、そうなのかと、念のためハンカチ二枚もって出かけた。原作は読んでない。

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 震災後の名取。窃盗犯の手伝いをしている和正(高橋文哉)は飼い主をなくしたと思われる犬をみつける。家に連れて帰ると、認知症気味の祖母は犬を見て元気になる。家族の一員となる。犬の識別プレートには多門とあった。多門はいつも西の方を見つめていた。

 和正はトラブルにまきこまれる。多門は姿を消す。それから数年後、多門は滋賀にいた。SNSを検索して行方を突き止めた正和は滋賀に向かう。若い女性(西野七瀬)に飼われていた。彼女は窮地に陥っていた。ギャンブル依存症のボーイフレンドから金をせびられ、その金を稼ぐためデリヘリで働いていた。金をせびる男をついには刺し殺してしまい、山に埋めていた。それが発覚する。そのトラブルの最中、またも多門は行方不明になる。

 犬との交流はしばしばヒューマンドラマになる。これもそうだが、ちょっと設定に無理がある。多門は熊本にむかう。犬は帰巣本能はあるけれど、なにか目的をもって未知の場所に移動することはない。なぜ熊本に行ったのが明らかにされるのだが、そりゃ、無理やろう。

 そんなことを考えていたので、感情移入できなかった。ハンカチ不要。ウルウルすることもなかった。説得力のある説明があれば、熊本での出来事も理解できるのだが・・・・。

 もうひとつ、ラストの5分ぐらいは要らない。カットした方がよい。余韻を残すような終わり方がよい。監督の前作「ラーゲリより愛を込めて」もラストは蛇足だった。

 ラストは観客に想像させる方がよい。

2025年3月26日 (水)

『どうかしてました』

 わたしの好きな書評家が二人いる。斎藤美奈子豊﨑由美。その一人、豊﨑(以下、トヨザキと書く)が書いた『どうかしてました』を読んだ。書評集ではない。幼いころの思い出などを絡めた身辺雑記。おバカさんぶりとブックガイドを重ね合わせて笑わせる。

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 トヨザキは小さなころから落ち着きがない。変な興味がある。ピラニアに指を噛まれたいとか・・・。おしゃべりでもある。注意欠如多動症の傾向がある。こういう人物はつきあうと楽しい。うるさく感じるときもあるが、黙っとれ! とツッコミを入れるのも愉快である。

 駆け出しのころ。川本三郎にお世話になったと書いている。川本が面倒をみた理由は、おもしろい子だったからだそうだ。なるほど、そういう気持ち、よくわかる。

 トヨザキは風呂が嫌い。簡単にシャワーで済ませる。耳あかは取る。ほじるのが好き。これをビンに詰めておく。ま、あれこれあるが、奇人といえる。

 本書の多くは、わが身のおバカさんぶりをマクラにして、本の紹介へとつなげ、また身辺談にもどるといった構成になっている。

おもしろエッセイなのだが、こと書評となるとするどい。マメである。しっかり読み込んでいる。

 紹介された面白そうな本は、メモをした。どれほど読めるかはわからないけど、とりあえず、佐藤亜紀(一冊も読んでない)を読んでみようと思っている。

2025年3月24日 (月)

「ブルータリスト」

  今年の米アカデミー主演男優賞はエイドリアン・ブロディが受賞した。ブロディといえば「戦場のピアニスト」、孤独な哀しみをたたえた演技が印象に誇っている。

 その主演作「ブルータリスト」をアートセンターで観てきた。上映時間は長い。3時間半近い。途中休憩があるとはいえ観るには覚悟がいる。目がくたびれるし。

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 ブタペストで暮らしていたユダヤ人のラースロー・トートは戦後、妻や姪ともにアメリカに渡ろうとするが、かなわず、妻と姪と別れわかれになってしまう。建築家であるトートはペンシルベニアに移り住み、実業家のハリソンと知り合う。トートが有能な建築家と知ったハリソンは、広大な土地を利用した公会堂や礼拝堂の建設をトートに依頼する。

 妻とはわずかな手紙のやりとりをしていた。なんとかアメリカで一緒に暮らせるよう願っていたトートは安定した収入が得られるこの仕事を引き受ける。しかし建設に入るとさまざまなトラブルに見舞われる。設計の修正をせまられたり、勝手に改造されたりして、トートは混乱する。たばこは手ばなせない。ときにはモルヒネで気分を紛らわすこともあった。

 ようやく妻と巡り会えることになったが、妻は車椅子姿だった。飢餓による栄養不足で骨粗鬆症となっていた。ヨーロッパでの過酷な暮らしがしのばれる。

 波乱万丈なのだが、なにかなつかしい映画を観ているような気分になる。アメリカ映画特有の目まぐるしさはない。「ボタンとリボン」が流れたりする。小遊三の出囃子と関係ないけど思い出してしまう。

 宗教的な偏見や対立がある。建設ではトラブルが続いた。ユダヤ教とキリスト教の考えの違いとかもみどころのひとつである。

 さて、題名の「ブルータリスト」がわからない。調べてみると、いっとき流行した建築様式からきている。ブルータリズム。コンクリートを打ちっ放しにしたり、塗装をほどこさず角張ったデザインにしたりする様式をさす。ブルート、獣的ということであるが、トート自身はいたって繊細で、柔和である。

2025年3月22日 (土)

「ケナは韓国が嫌いで」

 韓国は不思議というか、よくわからないところがある。

 昨年末、尹大統領は唐突に非常戒厳を出した。北が攻めてきたわけでもないのに簡単に発令できるものなのか、よくわからない。経済は勢いがあり、一人当たりのGDPは日本に近づいているのに、若者の失業率は高い。高学歴でないといい就職口はない。さらに、出生率は日本よりうんと低い。なんとなく、息苦しさを感じる。自殺者も多いという。だから、若者が外国に行きたいという気持ちになるのだろう。

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「ケナは韓国が嫌いで」を新宿武蔵野館で観てきた。題名からすと、現在の韓国の雰囲気を背景にしているように感じられる。

 ケナは大学を出て金融会社に勤めているが、通勤には2時間かかる、上司とはうまくいってない、交際相手ともしっくりいかない部分がある。社会や家族、人間関係にも行き詰まりを感じ、ニュージーランドに脱出することにする。 

  ケナ自身の問題であるけれど、バックグラウンド、つまり韓国社会の雰囲気は察しられる。ニュージーでは経済の勉強をしながら、アルバイトで子供の世話をする。ベビーシッターのようなもの。インドネシア人の男友達もできる。一緒にインドネシアに行かないかと誘われる。といった展開である。

 タイトルにあるように韓国を嫌っているわけではない。ちょっと息苦しい。そんな程度である。ケナがどのように生きていくのか、ちょいと想像してみるが、よくはわからない。結婚してキムチづくりに励んでいるかもしれない。ハンバーガーを食べながら、明日を夢見ているかもしれない。

 ハンバーガーを黙々と食べるシーンが二度ほどある。このシーンが印象的。

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 ついでのひとこと

 写真は区役所わきの広場にある玉縄桜。河津桜より咲くのは遅いが、ソメイヨシノより早い。今が満開。ソメイヨシノは、東京ではまもなく開花となるが、こちらはまだ一週間ほど先になる。

2025年3月20日 (木)

 ルビ

癲狂院日乗』を読んで、車谷長吉の文章の、地を這うような妖しい雰囲気をあらためて感じた。念仏のようでもある。癖になる。で、『赤目四十八瀧心中未遂』を読み返した。

 ルビが多い。

 に「まち」とルビが振ってある。文春文庫の4ページには、4カ所の「市」がある。ふつう「まち」と読ませるなら、街か町である。それを「市」としているのは、車谷のこだわりである。

 関連して、市中はどう読むのがよいのか。市中引廻しは「しちゅう」と読むのがふつうである。だが、江戸時代は、まちなかいちなかとも読んでいた。どれでもよい。絵双紙に「しちう」と仮名が振ってあるものを見たことがある。

 しちゅうが優勢のようにも思えるが、俳句では、しちゅうとは詠まない。「まちなか」か「いちなか」である。夏目漱石に市中の俳句があったのを思い出した。調べてみたらすぐ見つかった。

 市中に君に飼はれて鳴く蛙

『四十八瀧』にもうひとつ興味を引くルビを見つけた。

 生霊に「いきすだま」と「いきりょう」のルビが振ってある。同じページ(p.104)にである。この使い分けが妥当か繰り返し読んでみたが、よくわからない。著者には意図があったのだろう。

 いきすだまのほうがいきりょうより呪いが強いようにも思う。六条御息所の生霊をちょいと思い出した。

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 ついでのひとこと

  昨日の朝 新百合ヶ丘でも雪が降った。今年は、ちらつく程度しか降らなかったのに積もるような雪になった。ちょいと外に出ただけなのに傘は白くなった。

 我が雪とおもえば軽し傘の上  其角だっけ。

2025年3月18日 (火)

八起寄席 萬橘の芸

 八起寄席に行ってきた。今回のお目当ては、文菊と萬橘。文菊はこの寄席の幹事だからおなじみ。萬橘はこの会では初めて聴く。なんでも13年ぶりとか。ずっと呼んでもらえなかったと愚痴を言う。

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 今回の演者と演目

 笑福亭希光   紀州

 古今亭文菊   長屋の花見

 ウクレレえいじ ウクレレ漫談

 三遊亭萬橘   親子酒

 萬橘のことを書く。

 萬橘は高座以外でも着物姿である。胸がはだけてだらしないと悪口を言ったのは、遊雀。これについては以前書いた。浅草を歩いていたら、中国人に間違えられたとマクラ。あの界隈は貸衣装で歩く外国人が多いからね。娘からは無視されることが多くなったと嘆く。これは一之輔と同じ。

 演目は「親子酒」。おなじみの古典噺だが、展開を変えている。親子で禁酒の約束をしたのだが、息子が帰ってこないのをさいわいに、父親は上さんにちょっとだけと酒をねだる。一杯だけのはずが、もう一杯となり、ついには酔っぱらってしまう。そこに息子が帰ってくる。こちらも酔っぱらっているというのが本来のストーリー。

 萬橘バージョンは、息子の方が得意先の主人に酒を勧められる話になる。親との約束だから酒は飲めないと断る。さんざん勧められるのでちょっとだけとなるが、ちょっとだけではすまない。へべれけになってしまう。このまま家に帰るわけで、ああ、これはおなじみの「親子酒」だとわかる。オチは同じ。「おまえに身上はやらない」と父親が言うと、「こんなクルクル回る家なんか要らない」となる。

 繰り返すと、おなじストーリーなのに主役を変えている。本来は父親にスポットをあてるが、萬橘バージョンでは息子にスポットをあてる。

 テッパンの古典噺なのだが、そこに工夫を凝らすところが、萬橘の芸である。なるほどと、感心する。けっこうでした。

2025年3月16日 (日)

「ステラ」

  アートセンターで「ステラ」を観てきた。副題は「ヒットラーにユダヤ人同胞を売った女」とある。わかりやすい副題だといえるが、映画の流れをそこに押し込めていいのだろうかと思う。単純ではない。

 ナチスドイツに協力したという理由で、丸刈りにされ街中を引きずり回される女性の写真がある。有名な写真だからご存じの方も多いと思う。確かに協力したのだろうが、集団リンチは頷けない。映画を観る前、そんなイメージが浮かんだ。

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 戦前、ステラ(パウラ・ベーア)はジャズを歌い(冒頭に「シング・シング・シング」を歌うシーンがある)、ブロードウェイを夢見ていた。その夢は大戦によって閉ざされる。ユダヤ人の国外脱出は困難になる。軍需工場で働かされることになるが、ユダヤ人の強制的な収容所送りを目の当たりにする。ユダヤ人狩りをかろうじて逃れ、母親とともに身を隠して暮らすことになる。

 偽造した身分証明書やパスポートを作る組織を知り、協力するのだが、ゲショタポに逮捕されてしまう。拷問は過酷で、ひどく傷つく。ついにはゲシュタポのユダヤ人狩りに協力することになってしまう。

 ここまでが副題のとおりのストーリーである。これ以降が面白い。面白いというのは変で、さらに奇妙な人生となる。戦後、ステラはソ連に送られ、10年間の収容所で暮らすことになる。その後ドイツに帰国し、戦犯として裁判にかけられることになる。

 もうすこし書きたいのだが、やめておく。ステラは長く生きたのだが、幸せではなかった。心に重くのしかかるものがあった。孤独でもあった。

 それにしても、ナチスとかユダヤ人を描いた映画は多い。それだけ重大な出来事だったということだが、素材としても取り上げやすいということもある。

2025年3月14日 (金)

「ノー・アザー・ランド」

 以前、映画「栄光への脱出」についてふれたことがある。イスラエル建国にあわせて集団移住をする物語である。エクソダス(出エジプト記)になぞらえていた。

  ユダヤ人はナチスによる虐待だけでなくひろく差別されてきた。ユダヤ人の国をつくろうというシオニズム運動はたかまり、イスラエルが建国された。世界各国がそれを承認した。わたしも歓迎した。が、その地にはアラブ人が長く住んでいたわけで、それを蹴散らすことになった。それにより、中東戦争が起きた。軍事力にまさるイスラエの力はさらに強固になった。それでもいざこざは続き、オスロ宣言により、パレスチナ自治政府が発足した。あれこれあったが、パレスチナの領土はガザ地区とヨルダン川西岸と決められた。

  しかし、イスラエルは領土を拡大すべく西岸地区に侵入している。映画「ノー・アザー・ランド 故郷は他にない」はその西岸地区を描いたものだ。米アカデミー賞ドキュメンタリー作品賞を獲得した。そのせいか、アートセンターの観客は多かった。

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 西岸地区にはイスラエル軍が侵入してパレスチナ人の家や学校を破壊し、入植地や軍事施設を拡大している。イスラエル人のジャーナリスト・ユーバールは、その破壊の実態を記録すべくこの地にやってきた。この地に住むバゼルなどと協力して軍の理不尽な破壊ぶりをビデオで撮影する。取り壊す兵士たちに声を上げ抗議する。が、兵士は破壊をやめない。住民を蹴散らす。撮影は命がけである。転倒し、映像が乱れる。抵抗するが、それ以上抗議すれば撃たれる恐れがある。結局はなすがままとなる。

 ユーバールの気持ちを一言であらわせば「パレスチナの自由なくしてイスラエルの自由はない」。

2025年3月12日 (水)

「ウィキッド ふたりの魔女」

 魔女を英語で言うと、ウィッチ(witch)だと思ってきた。このたびのミュージカル映画は、ウィキッド(wicked)。どう違うのか、辞書で調べてみるとウィキッドは、「邪悪な」という意味になっている。その延長で魔女となるのか。ウィキッドの方が邪悪という意味合いが強いのか、わからない。さらに、俗語で「すばらしい」の意味で使われることもあるとのこと。よけい混乱してしまう。ネイティブに訊くしかないか。

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 その「ウィキッド ふたりの魔女」をイオンシネマで観てきた。ミュージカルを映画化したもので、私はミュージカル映画が好きだから、ウイッチだろうがウィキッドだろうがどうでもよい。すなおに愉しめばよい。

 エルファバ(シンシア・エリヴォ)は緑色の肌で生まれる。周りから偏見の目で見られてきたが、それにもめげず成長、足が不自由な妹の面倒もみてきた、

 やがて大学に入る。そこで知り合ったグリンダ(アリアナ・グランデ)と親友になる。エルファバには小さいころから不思議な能力があった。超能力であるが、奇異の目にさらされることもあった。

 しかし、アルファバの能力に目をつけた人物がいた。オズの国を統括する偉大な王である。その宮殿に招待されることになった。といったストーリー。よくわからないところもあるが、ま、こだわることはない。歌唱を大画面とともに楽しめばよい。とにかく、エルファバとグリンダの歌はすばらしい。聞き惚れる。しかしその余韻にひたるまもなく画面は切り替わる。

 魔女と言えばホウキである。ボウキを片手に空を飛ぶことになる。これが最後のシーン。えっ、これでおわり? トゥ・ビー・コンテニューの字幕が入る。そうか、これは、前編なのだ。アルファバは邪悪な魔女になるということだが、どうなんだろう。

 

 

 

2025年3月10日 (月)

『七人の弟子』

 噺家の立川談四楼は、落語もする作家と言われることがある。エッセイや小説、著作は多い。近著の『七人の弟子』を読んだ。弟子についての実録ものである。多少のフィクションも混ざっているだろうが。

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 談四楼は文章が上手い。本書をじっくり読んでみると、なめらかでリズム感があるのをあらためて感じる。読みやすい。「滑舌の良い文章」である。

 噺家になるには師匠に弟子入りしなければならない。弟子入りは若い方がよい。年齢制限を設けている協会があるが、立川流には年齢制限がない。談四楼師匠のもとに弟子入りするのはいい歳の者ばかりである。真打になっていてもおかしくない年齢。「中年再生工場」だと自らを称している。その弟子たちの入門記である。

 立川三四楼は快楽亭ブラックの弟子だった。ブラックはギャンブルで立川流を除名(破門より軽い)されたが、独立系として活動している。しかしギャンブル熱はやまず、弟子からも上納金100万円を巻き上げていた。その弟子を引き取ることになった。三四楼と名付けた。かつての名は快楽亭ブラッC。ブラッCは消費者金融から借金していた。利子支払いに追われていた。前座修業どころではない。それを脱出させた。その経緯は本書で。それにしてもブラックはブラックである。落語はうまいが、師匠の片隅にも置けない。ほかの弟子連中はどうしたのだろうか。気になる。

 立川寸志は43歳で入門した。前職はベネッセの社員。落語熱が昂じて、安定した勤めを振り切って、落語界に飛び込んだ。

 昨年二つ目の会で寸志の落語を聴いた。これが抜群に良かった。だてに齢をとっていない。ことし56歳。まもなく真打だろう。

 といった弟子入りの連中を書いている。ひしひしと感じるのは、師匠の矜持である。弟子に対する愛情が伝わってくる。

2025年3月 8日 (土)

「名もなき者」

  ボブ・ディランの半生を描いた「名もなき者」を観てきた。

  ボブ・ディラン役は、あの美少年ティモシー・シャラメ。1961年、ディランはウディ・ガスリーを訪ねる。ピート・シガーもそこにいた。ガスリーは一斉を風靡したフォークシンガーだが、今は難病で床に伏している。二人の前でギターを弾きながら歌う。才能を認められ、レコードレビューすることになる。

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 ディランの歌が心地よい。当時、中学生だった私はアメリカンポップスばかり聴いていたのだが、そこにフォークが割り込んできた。ラジオからはディランのほかジョーン・バエズの美しい声も流れてきた。日本もフォークブームとなった。

 映画で、ディランが歌うのは「風に吹かれて」。バエズは「朝日の当たる家」を絶唱する。曲名は知らないけど聴き覚えがある曲がいくつも流れる。キューバ危機、ケネディ暗殺、公民権運動、べトナム戦争などの時代を映すニュース映像も映し出される。つまり、懐かしさを刺激するフォークソング映画なのだ。高齢者にはここちよい。若い人はどう思うのだろうか。

 ディランはハックルべリーフィンのような帽子をかぶって歌う。結婚とかいくつかのトラブルも描かれるが、それはどうでもよい。

 気がかりなのはガスリーである。冒頭に登場しただけ。映画の締めくくりにはガスリーを登場させたら面白い、と思っていたら。そのとおりになった。

 ガスリーの生涯を描いた映画があった。なんという題名だったか忘れた。

 ついでのひとこと

 後半、ディランは周囲の反対を押し切って、アコースティックギターをエレキギターに切り替える。その日本語字幕は、アコギ。アコーステックギターをアコギ、初めて見た。そういった略し方があったのか。

 米アカデミー作品賞は「アノーラ」がとった。わたしの好みでは。こっち、「名もなき者」だな。

2025年3月 6日 (木)

生田寄席 橘家文蔵

 生田寄席に行ってきた。今回は橘家文蔵。先だって亡くなった桂才賀と並ぶ強面。顔つきは怖そうだが、落語は繊細。細部まできちんと演じる。とりわけ、色っぽい女の描写が上手い。強面と正反対の演出が笑いを誘う。

 得意ネタは「道潅」と「転宅」。なんども聴いたことがある。

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 今回の演目

 飴売り卯助

 転宅

飴売り卯助」は初めて聴いた。長講である。

  飴売りの卯助と娘は料理屋に雇われることになる。まじめに仕事をし、女主人からも信頼されるようになる。ある夜、店に強盗が入ったことを知らされる。禁制のばくちをやっている最中だったからお上に届けることができない。娘も捕らわれているという。卯助は店に駆けつけ、盗人連中と対峙することになる。卯助の左腕には墨が入っており、島帰りであることが明かされる。

 なんだか長谷川伸の小説のような内容だが、あとでネタが明かされた。先代の文蔵が作った噺で、松本清張の『無宿人別帳』の中の「左の腕」を落語にしたものだそうで、清張は落語にすることを快諾した。そのテープが残っていた。それをもとに師匠譲りのネタとした。『無宿人別帳』なら読んだことがある。でも、すっかり忘れてしまっていた。

 たぶん50分ぐらいやった。長講なので、独演会でしかできないネタである。笑いはほとんどないが、客席からすばらしいとの声があがった。たしかに名演であった。

 中入り後の「転宅」はおなじみの噺。先述したように得意ネタである。酒を飲むシーンはいつもよりたっぷりやった。お妾さんも、いつも以上に色っぽかった。けっこうでした。

 

2025年3月 4日 (火)

「ANORA アノーラ」

 米アカデミー賞、「アノーラ」が作品賞など5部門を受賞した。発表の直前、イオンシネマでその「アノーラ」を観てきた。

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 ニューヨークの風俗キャバレーで働くアニー(アノーラ)はロシア語がちょっとできるという理由でロシア人の若者イヴァンの相手をすることになる。イヴァンはアニーを気に入り連日店を訪れる。一週間一万五千ドルの契約で、アニーを連れ出して遊ぶ。ついには結婚しようということになる。イヴァンはロシアの大富豪の御曹司であった。オルガノヒね。24時間オープンしているラスベガスの教会で簡単に結婚してしまう。それを知った親は激怒。結婚解消のために三人の男、用心棒というかガードマンを派遣する。

 結婚解消、あるいは離婚の説得な難航する。アニーを押さえつけるが、アニーは蹴とばしたり大声で叫んだりして抵抗する。このあたりがドタバタで笑える。そのすきにイヴァンは逃げ出し、行方不明になってしまう。親もプライベートジェットで駆けつけることになる。そんなお話。

 あ、そうか、これは落語の世界だと気づいた。アニーは遊女。イヴァンは大店の若旦那。軟弱で勘当予備軍。用心棒たちは店の番頭、使用人といったところ。骨格は同じである。

 若旦那は軟弱だから、遊女と遊ぶのは好きだが、親は怖い。ひたすら逃げ回ることになる。アカデミー賞なんてのはどうでもよい。古典噺のひとつのバリエーションだと思って、笑えばよい。そんな映画だ。

  落語には「木乃伊取り」という噺がある。説得に出向いた番頭らは説得できずに、遊郭にとどまってしまう。木乃伊取りが木乃伊になる。「アノーラ」も、風俗キャバレーに御曹司をさがしにいくが、そこで遊び惚けてしまうなんて展開も面白いとおもう。

 作品賞受賞には首を傾げるが、主演女優賞は妥当。アニーを演じたマイキー・マディソンがすばらしい。はつらつとした演技は印象に残る。

 

2025年3月 2日 (日)

「ゆきてかへらぬ」

 中原中也と小林秀雄は仲が良かった。ところが中原中也と同棲中の女優・長谷川泰子が中原と別れ、小林秀雄のもとに去ってしまったという有名な話がある。中也の自堕落な態度に泰子が嫌気がさしたとか、小林が略奪したとか諸説ある。真偽はわからない。文壇ゴシップである。今ならマスコミで大騒ぎになるとか、SNSでフェイク情報が飛び交うことになるかもしれない。どうでもいいことだが。

 その中原中也、小林秀雄、長谷川泰子の三角関係を描いた「ゆきてかへらぬ」をイオンシネマで観てきた。中也を木戸大聖、小林を岡田将生、そして泰子を広瀬すずが演じる。

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 監督は根岸吉太郎。久々の監督作品である。前作がなんだったか思い出せない。

 泰子を中心に描かれる。泰子は年下の中也を可愛がる。中也は自分の世界を持っているから泰子にぞっこんとなるわけではない。あれこれあって、結局、中也と別れ、小林と暮らし始める。中也はそれを怒ったりしない。かといって泰子をあきらめるわけではない。しばしば小林宅を訪れる。三人で遊びに出かけたりする。ああ、これは「ジュールとジム」だなと昔のフランス映画を思い浮かべる。広瀬すずはジャンヌ・モローである。

 泰子はひどく神経質なところがあり、ヒステリックな行動にでたりする。男二人はとまどうが、二人がつっかえ棒のようでないと泰子のこころはしずまらないと小林は分析する。一人が欠けてもだめなのだ。

 中也が夭逝することはご存じだろう。そのあたりまでが描かれる。映画はアルカイックである。悪く言うと古臭い。コキュなんてことばも飛び出す。死語に近い。今では時代が大正から昭和にかけてだから、わざとそうしたのかもしれないけど、年寄りの目からもそう思う。行儀がちょいとよすぎる。いっそロマンポルノのように仕立ててもお面白かったのに。

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