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2025年6月

2025年6月30日 (月)

腰が痛い!

 腰をやられた。いわゆるギックリ腰というやつ。

 背伸び運動の最中、突然、腰に痛みが走った。それほど強い運動をしたわけではないが、グサッときた。5年ほど前にもなったことがある。一週間ほどで痛みは和らいだ。今回も同じようなものとおもっていたが、そうはいかなかった。

 朝、床から起きられないというか立ち上がれない。動くと痛みが走る。妻に手助けしてもらって起きあがることになった。立っていれば痛みは少ない。座っていても同じだが、いざ立ち上がろうとすると、イテテテとなる。痛みを感じないような姿勢を探しながらゆっくり立つ。動作がスローモーになる。もどかしい。困ったものだ。

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 病院には行っていない。あそこは長時間待たされる。痛み止めの貼り薬か塗り薬を処方される程度だから、いまのところ行くつもりはない。

 薬局でバンテリンを買ってきた。いかほどの効果があるかわからない。テレビコマーシャルを見ると、名前はバンテリンだが、バンテヤリンと聞こえる。バンテヤリン、なんでやねん

 ゆっくり歩くようにしている。炎天下を、杖をついてぎこちなく歩いている。炎天の杖・・・俳句ができそうだが、やめておく。

 

 

2025年6月28日 (土)

「でっちあげ」

 イオンシネマで、三池崇史監督の「でっちあげ~殺人教師と呼ばれた男」を観てきた。

 副題でわかるように、とんでもない教師だとマスコミの餌食とされ、追い詰められていく事件を描いたものだ。20年ほど前、実際に起きた体罰事件をベースにしている。

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  綾野剛演じる小学校教師・藪下は、家庭訪問した教え子の母親・氷室律子(柴咲コウ)から、息子が暴力を振るわれた、混血を理由に人種差別を受けたと抗議される。そんな事実はないと否定するが、律子は校長のところに押しかける。ことを荒立てたくない校長や教頭は薮下にまずは謝罪するよう迫る。説明会の折、それに近いことをしたと謝罪したのだが、新聞や週刊誌が報道することになり、とんでもない事態となっていく。

 律子は息子がPTSDになっているとか損害賠償せよと訴える。教育委員会は藪下に6か月の勤務停止とする。それほど調べもせずに。窮地に立たされた藪下はぼろぼろになりながらも、弁護士を捜し、裁判に臨む。弁護士は、事実も証拠もないことを調べあげ、これはでっちあげだと反証する。といったストーリー。

 ダレる場面はない。このあたりは三池監督の手腕だろう。それにしても柴咲コウの演技がすごい。目つきがするどく怖い。名演である。

 薮下の妻役はいかにも優しそうな木村文乃。この役を柴咲がやり、木村を律子にしたらどんなふうになるのだろうかと想像してみた。ありえない。でも、おもしろい。

 人柄のよさそうな弁護士役の小林薫も印象に残る。儲け役。

 ほぼ実話という。きちんと調査・取材をしないマスコミ、丸く収めたいだけの校長や教育委員会、そうした姿を静かに批判している。

2025年6月26日 (木)

五木寛之の講演

 五木寛之の話を聴いた。

 新聞通信調査会のシンポジウム。基調講演が五木さんの「新聞と私」。これを聴くために日比谷まで出かけた。

 92歳になる。とてもその歳とは思われない。矍鑠たるものである。

 6紙を購読しているという。じっくり1時間かけて読む。新聞とのつきあいは配達から始まった。学生時代、住み込みの仕事についた。業界紙を配送するする仕事で、これがきつかった。学業どころではなかった。やがて業界紙の記者兼編集者となった。その後、小説家となり、新聞にも連載小説を書くことになった。

 ブロック紙や地方紙に連載した「親鸞」が印象に残っているのだそうだ。東日本大震災があった時期と重なる。河北新報などが発行できなくなったが、被災地では「親鸞」が読みたいという声があり、新聞社はなんとか輪転機を回すよう力を注いだ。わずかな紙面だったが、連載は読者のもとに届けられた。支援はモノだけではなかった。

 現在は、現在もというべきか、日刊ゲンダイの連載「流されゆく日々」を続けている。日刊ゲンダイはサラリーマン向きの夕刊紙。「夕刊フジ」は休刊となったが、こちらは健在。何十年にわたっての連載している。ギネス級だが、実際、長期連載でギネス認定されているのだそうだ。原稿のストックなし。毎晩書いて新聞社に送るのがルーティーンになっている。

 はあ、すごい。わたしが働いた年数より長い。

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 写真は講演の折、ホワイトボードに書いたもの。直筆。父親から聴いていたことばだそうだ。

  「君看よ双眼の色、語らざるは愁い無きに似たり」

 その二つの眼の色を見なさい。なにも言わなければ憂いがないように見えるでしょう。語らないのではなく、語れない、それほど深い憂いがあるのです。じっと耐えていくと・・・・。そんな意味である。

 ということはさておいて。久しぶりに「日刊ゲンダイ」を読んでみたくなった。あの、色っぽく、下品で、毒々しい紙面を。ただし、電車の中では読めない。エロじじい! という双眼の視線が気になる。まだ買ってない。

2025年6月24日 (火)

ブリコラージュ

 インドネシアの工場に赴任していた人がこんな話をしていた。

 現地従業員は修理がうまい。ちょっとした故障ならたちまち直してしまう。部品がなくても何かで間に合わせてしまう。修理技術は日本人より優れている、と。

 そうなのか。思い出したのが、ブリコラージュ。文化人類学の用語だが、「まにあわせ」とか「寄せ集めでつくる」といった意味である。文明が進んでいないところでは、ものを修理するにしても部品や適当な材料がない。すると、身近にある材料でたちまち直してしまう。そういう知恵が働く。

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 現在の都会人は自転車のパンク修理ができない。自転車屋に持ち込めばたちまち修理してくれるから、修理技術は不要である。昔は違う。自転車屋がなければ自分で修理するしかない。田舎ではパンク修理用のゴムとか糊をあらかじめ準備しておいて、パンクしたときは自分で直した。DO IT YOURSELFである。

 田舎は不便だけど、不便ならなんとか別のもので間に合わせる知恵が働く。便利だと直す知恵(ブレコラージュ)を失ってしまう。ちょっと寂しい気もするが、まあ、そういうものなのだろう。 

 人間は文字をもったことで、記憶力を著しく失った。神話は、口述で引き継がれてきた。なみなみならぬ記憶力で。

 現在は、スマホでなんでも調べることができる。百科事典も辞書もいらない。翻訳機の精度がさらに増せば、外国語の知識もいらなくなるかもしれない。

 そうなんだけど、それでいいのか。老人は疑問に感じながら、新聞を読む。若い人は新聞なんてと思っているに違いない。

 

2025年6月22日 (日)

「ルノワール」

 イオンシネマで「ルノワール」を観てきた。

 監督は早川千絵。前作「PLAN75」が面白かった。テーマもそうだが、挿入歌「りんごの木の下で」が印象に残っている。

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 主人公は小5の少女・フキ(鈴木唯)。父親(リリー・フランキー)はガンで入院中。母(石田ひかり)は仕事や家事、そして病院通いで忙しい。フキは周辺とは馴染めないでいる。友達がいるが、引っ越ししてしまう。フキは寂しさを感じながらも、それなりの感性で生きていく。この年代の子の多くは自分をうまく表現できない。ちょっともどかしいが、幼いころはそんなものだ。

 時代は20年ほど前。いや、もっと前か。スマホはない。テレビもブラウン管式。唯は電話のマッチングサービスを試したりする。

 父親と競馬場に行くシーンがある。笠松競馬。ああ、ここは岐阜だとわかる。川は木曽川。フキは動物の鳴き声のマネが得意だ。メーとかヒヒーンと鳴く。映画のタイトルは、印象派のルノワールから採っているのだが、それほどの意味はない。ならば「ヒヒーン」としてもよかったのではないかと思う。

 映画の展開に明確な起承転結はない。フキのこころの動きを描写することがメインになっている。ドラスティックな展開はない。それでよい。ひと夏でフキはずいぶん成長したのではないかと思わせる。観客にはよくわかる。それを明確に描いていないところがよい。

 ついでのひとこと

 今年も半分過ぎようとしている。

 今年観た映画のベストワンをあげると・・・。

 洋画  「エメリア・ペレス」

 邦画  「国宝」

 年間ベストワンになるかもしれない。

2025年6月20日 (金)

『去年、本能寺で』

「トップガン マーヴェリック」を観たのは3年ほど前だ。戦闘パイロットを養成する内容だが、実際の爆撃シーンもある。これが面白い。とあるならず者国家がウラン濃縮をしようとしているのでそのプラントを爆撃するシーンがある。プラントは地下深くにあるので通常のミサイルでは届かない。で、第一の戦闘機で穴をあける。第二弾でその穴の中にミサイルをぶち込んでプラントを破壊する。

 荒唐無稽のストーリーだが、いま、イランでそれが実行されるかもしれない事態となっている。第一弾をバンカーバスターという。フィクションが現実となりつつある。

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 話はかわって、円城搭の『去年、本能寺で』を読んだ。一瞬、降りてきた妄想を膨らませてフィクションに仕立て上げた小説である。「去年、マリエンバードで」という映画がむかしあった。それと関連があるかと思ったがまったくなかった。

「トップガン」は想定した事態に対応する兵器開発をベースにしているから、半分現実的である。こっちの小説は妄想、奇想天外な短編小説集である。

  AIとかネット用語がでてくる。リカレントニューラルネットワークとかパーセブトロンとか、わけがわからない。目くらましである。たとえば、坂上田村麻呂は黒人という設定。タムラマロはアテルイと対峙する。ま、どうでもよいが、そういうことである。

 信長は本能寺のあと、光秀や秀吉を振り返る。もちろん死後の信長の霊というかバーチャルな存在である。秀吉の朝鮮出兵をバカなと吐き捨てる。光秀はどうか。あるときは才知を発揮するが小心者であると。

 歴史をそんなふうに妄想する。ま、風変りな歴史小説である。

 ついでのひとこと

 光秀は、本能寺の変の前の連歌会で、「ときは今 あめが下知る 五月かな」と詠んだ。これをめぐって、謀反の決意を表したとする解釈がある。解釈は面白いが、さて・・・。

 ときは、なのか、それとも土岐なのか。朱鷺としてみてはどうか。妄想は飛ばせる。

2025年6月18日 (水)

「未完成の映画」

「未完成の映画」

 新型コロナウイルス感染はまだ続いているけれど、気にするほどの感染症ではなくなった。症状も軽い。ウイルスもヒトと折り合いをつけてきたのだろう。

 コロナには感染しなかった。それほど厳重に感染防止をしたわけではなかったが、幸いなことである。今はマスクはしない。病院に行くと、マスクをしろとスタッフから言われる。仕方なしにマスクをするようにしている。

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 ここにきて、新型コロナを扱った映画が上映されている。「新世紀ロマンティクス」はゼロコロナ下の中国を描いていた。「フロント・ライン」はダイアモンド・プリンス号の騒動をベースにしている。「未完成の映画」は感染が始まったころのビル封鎖を描いている。中国映画である。アートセンターで観てきた。

 10年前に中断された映画を完成しようと監督はスタッフやキャストを呼び寄せる。撮影が再開される。2020年の春節(旧正月)までにはクランクアップする予定だったが、新型ウイルスの感染が噂されるようになり、事態は急変する。撮影現場のビルが封鎖されてしまうのだ。出ることも入ることもできなくなってしまう。

 主演のジャオは新婚。妊娠していた妻は無事出産するが、妻子に会うことはできない。唯一のコミュニケーションはスマホのビデオ通話である。不自由だが、スマホがあってよかった。

 後半になると、縦型の映像が多くなる。スマホの動画である。映画自体がドキュメンタリータッチなのに、さらにドキュメンタリー感が深まる。実際に映された映像をつかっているのかもしれない。

 封鎖は武漢から始まったが、あれ、どのぐらい続いたのか忘れてしまった。のちに大々的な都市のゼロコロナ政策につながっていく。自由を奪う強引なやり方だった。

 李文亮という医師の写真も出てくる。コロナ感染の広がりを最初にSNSで発信した人である。そんな医師がいたことを思い出す。しばらくしてその医師も感染して亡くなった。

  やがてコロナはいくぶん治まる。武漢では、清明節(4/4)の日、信号を3分間すべて赤にして、コロナ被災者を追悼したという。この映画でそれを知った。

 映画は混乱の様子を伝えているだけだが、引き付けられる。東京フィルメックスで観客賞を受賞したのもうなずける。

 コロナ禍の記憶も薄れつつある。ウクライナやパレスチナの戦争に世の関心は移っていった。トランプ関税もあるし、備蓄米騒動もあるし。

2025年6月16日 (月)

退屈の楽しみ方

 常設の寄席にはたくさんの芸人が登場する。面白いものもあればそうでないものもある。つまらない芸が続くと、退屈で退屈であくびがでる。その前に眠くなる。

 吉川潮が、色川武大に退屈の楽しみ方を教わったと新潮社の「波」で書いていた。

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「退屈を楽しむにはもってこいの寄席が名古屋にある」と誘われたそうだ。翌月、一緒に名古屋の大須演芸場に出かけた。次々と登場する芸人の話術や曲芸はおもしろくもなんともない。

 すると武大センセイは、「その芸人がつまらなくとも、どんな人生を送ってきたかを想像したり、芸と関係ないことを妄想したりする。そうするとだんだん退屈がたのしくなってくる」と語ってくれた。

 なるほど。いい話だ。売れない芸人は稼ぎが少ない。生きていくのがやっとの暮らしだろう。どんな人生だったのか、これからどうなるのか、ちょいと想像してみる。わるくない。それも人生だと考えることもある。

 私など、 つまらない落語だったりすると、ちっとも上手くなってねえじゃないかと腹立たしくなる。そういうときは、この芸人はいずれブレイクするとか想像してみる。うーん、ムリだろうな。ま、化けることはない。歳をとると、生活保護を受けているんじゃないかと思ってしまう。

 退屈すれば眠くなる。眠気に耐えることはない。あくびをして、眠ればよい。そう思えば心地よい。

 

2025年6月14日 (土)

「新世紀ロマンティクス」

 コロナ前は毎年のように中国に行っていた。日本の戦後成長期のようなエネルギーを感じた。2008年のオリンピック前、北京の地下鉄は2路線ぐらいだったと記憶しているが、たちまちのうちに東京のような複雑な路線となった。今はそれ以上の路線網になっているのではないか。

 ジャ・ジャンクー監督(「長江哀歌」などで知られる)の「新世紀ロマンティクス」をアートセンターで観てきた。2001年の山西省大同から映画は始まる。

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 炭鉱で栄えた街だが、いまは衰退しつつある。三峡ダムの建設が進み、出稼ぎや移住が多くなっている。チャオの恋人ビンもその一人。出かけた後、ビンからの連絡が途絶える。チャオはその行方を追って、経済特区である珠海まで追いかける。

 こまかな説明はない。かつての映像や歌が流れるだけで、セリフは少ない。よくわからない。前半というか3分の1ほどは退屈に感じた。中盤となってようやく事態がわかる。

 地方から都会に出稼ぎに行くといった設定の映画やドラマはいっぱいある。これもそのひとつといえばそうなのだが、現在(2022年)を描いた部分がおもしろい。

 コロナ禍、ゼロコロナ政策を静かに描く。今となってみれば、その描写は皮肉に映る。

 もうひとつ、AIロボットが接客するようになっている。チャオが寂しそうな顔をすると、ロボットはマーク・トウェインのことばで反応する。「人類は効果的な武器を持っている。それは笑いだ」。

 なるほど、ここでマーク・トウェインか。魯迅でも毛沢東でもなく。ちょっと笑える。

 で、どうなるのか。どうあろうとも、時代がどう流れようとも、ヒトは生きていく、そんな姿を描いている。

  さらに10年後、20年後となれば、どのように変貌しているのだろうか。

  映画がはねると、雨はやんでいた。

 

2025年6月12日 (木)

 べらぼう

 井上ひさしの『手鎖心中』を読み返した。50年以上前に読んだものだからほとんど憶えていない。ああ、そんなストーリーだったかと記憶はほとんど蘇らない。

 読み返したのは大河ドラマの「べらぼう」である。大河ドラマと重なる小説だからだ。こまかなことは省くが、山東京伝は60日の手鎖の刑をうけた。蔦屋重三郎は財産の半分を没収された。『手鎖心中』の主人公は戯作者になりたくて、自ら進んで手鎖となった。たった3日だったが。

 もっと大河ドラマのストーリーと重なるかとおもっていたが、そうでもなかった。

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「べらぼう」の語源は、ご飯をヘラでのばして糊にするところからきている。ヘラでご飯をつぶすから穀つぶしと同じ。そんな蔑称。罵倒のことば。へらぼうでは軟弱だから、それを濁音にして「べらぼう」とした。

井上ひさしの文中では、「このべらぼうめ」を「こんべらばア」と江戸の言葉はせわしなく暑苦しいと書いている。「べらばア」である。

 江戸ことばに、「べらんめえ」がある。これも同じ語源である。

2025年6月10日 (火)

「国宝」 歌舞伎世界を描く

 李相日監督の「国宝」を観てきた。李監督はこれまでしっかりした映画を作ってきた。私の好みだ。今回は歌舞伎界を描いている。主演は吉沢亮横浜流星。やや吉沢亮のウエイトが高い。

 やくざの組長が抗争で殺され、その息子、15歳の喜久雄(吉沢亮)は歌舞伎役者の花井半二郎(渡辺謙)に引き取られるところがエピローグ。半二郎の息子・俊介(横浜流星)とともに役者修業に励む。厳しく躾けられた。二人はよきライバルであるとともに親友であった。

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 半二郎が事故で出演できなくなる。「曽根崎心中」のお初の役を息子ではなく、反対する声を押しのけ、血ではなく芸だと喜久雄に決める。これが波乱となって、俊介は姿を隠す。どさ回りの役者となっていた。

 それから8年、といった具合で、二人の明暗が描かれる。生々流転。運命がサニーサイド、ダークサイドとなって入れ替わる。

 俊介は歌舞伎に復帰するのだが、糖尿病で足を失う。喜久雄は親がヤクザだったことが週刊誌であばかれマスコミの餌食になってしまう。

 そうした事態を乗り越え、「曽根崎心中」のお初徳兵衛演ずることになる。

 いろいろあるから書ききれないし、備忘のため書き留めておきたいところだが、複雑であって書ききれない。吉田修一の原作を読めば理解しやすいかもしれない。

 重厚な映画である。二人の女形の演技はすばらしい。カメラワークもみごとである。 とりわけ後半の「曽根崎心中」の場面がよい。お初の足に触れて心中を無言で受け入れる天満屋の段が見どころ。

 文楽や歌舞伎ファンにはとくにおすすめ、歌舞伎を知らない人はリアルな歌舞伎をみたくなるだろう。いずれ配信でと思っている人がいれば、それはやめておいた方がよい。ぜひ映画館で。

 

2025年6月 8日 (日)

 鶴川寄席 扇遊・鯉昇二人会 

 鶴川寄席 扇遊・鯉昇二人会 

 前回に続けて落語である。入船亭扇遊・瀧川鯉昇二人会に行ってきた。

 二人とも七十を過ぎた。ベテランであるけれど、芸は若々しい。仲もよい。二人でよく飲む。地方で、千鳥足で歩く姿を見かけたとかいった話を聞く。肩を組んでいたとか。

 鶴川での二人会は今回で5回目になる。しおりにはこれまでの演目が書かれている。全部、聴いていると思うが、忘れてしまっている噺も多い。ま、そういうものだろう。そのとき、笑っていれば、それでよい。

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 今回の演目

  扇遊  天狗裁き

  鯉昇  武助馬

  鯉昇  長屋の花見 あじさい

  扇遊  たちきり

 鯉昇さんの噺の登場人物は、人生に力の入らない連中ばかりである。そういう噺を得意としているともいえる。ぼんやり、いい加減な人物にたっぷりクスグリを入れ込んで客席の笑いを誘う。手慣れたものだ。「武助馬」の主人公など冴えない役者人生をあゆんできた。芝居で馬の後ろ足をやるのだが、その役に満足している。その生き方がぼんやりしていてうらやましくもある。

長屋の花見」の花見は、桜ではない。季節を紫陽花の咲くころとしている。これなら桜の季節以外でもやれる。

 扇遊さんの「たちきり」は長い噺である。しっとりした人情もの。というより純愛もの。通常の寄席ではあまりやらない。独演会でやることが多い。しかも三味線が入るから、出囃子をテープ(CD)でやるような落語会ではできない。

 柳家さん喬が得意とする演目である。さん喬ほどしっとりではなく、扇遊さんは、さらりとした味わいで演じる。過度に客席のこころを鎮めるようなことはしない。

 ということで、それぞれ味わいのある噺だった。

2025年6月 6日 (金)

生田寄席 橘家圓太郎

 生田寄席、今回は橘家圓太郎独演会である。前座の開口一番はなし。いきなり圓太郎師匠が高座にあがった。

 そのわけ。最近、落語協会では入門が少なくなって前座も忙しい。さがしたのだが、みつからない。で、二つ目で真打昇進間近の柳家小はぜに頼んだとのこと。小はぜは小田急線沿線柿生近くに住んでいる。

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今回の演目。

  圓太郎  馬の田楽

  小はぜ  高砂や

  圓太郎  かんしゃく 

  圓太郎は、かつてはアスリートだった。トライアスロンを趣味としていた。当時は締まった体形だったが年とともに太ってきた。腹は出た。が、その分、声に張りが出てきた。10年前より声の通りがよい。響きもよくなった。声を張り上げるような噺が似合う。今回の「かんしゃく」など、かんしゃくを起こして怒鳴り散らす社長さんが主人公だからお手のもの。もってこいの声の響きで、迫力がある。うるさいほどとも言える。

 マクラは最近の社会情勢やLGBTなども巧みに採り入れ、バランスのとれた中身にしている。さすがベテランの味である。

 小はぜは、繰り返すが、来年真打昇進となる。芸はしっかりしているから、安心して聴いていられる。今晩、師匠とともに真打昇進にあわせてあらたな高座名にするかしないかを決めるそうだ。真打披露の準備は着々と進んでいる。

 会場に蚊がいた。蚊取り線香を焚くことになった。もう夏だ。園太郎はマクラでこんな川柳を披露していた。

 けぶくともやがて寝やすき蚊遣りかな

 なるほど。風流だねえ。覚えておこう。

2025年6月 4日 (水)

「ガール・ウィズ・ニードル」

 アートセンターで「ガール・ウィズ・ニードル」を観てきた。デンマーク映画なのかな。

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 時代は第一次大戦が終わったころ。カロレーネは兵役についている夫の帰還を待ちながら縫製工場で働いている。夫からの便りはない。工場経営者から言い寄られ妊娠してしまう。結婚を望むが、男爵である家系ゆえ、結婚を断念させられる。工場も辞めさせられる。慰謝料や養育費をもらえばいいじゃないかと思うがそうならない。当時はそんなものだったのか。夫は帰還するが、顔に大傷を負っていた。それもあって、彼女は夫を追い出してしまう。

 やがて出産。ひとりで育てることはできないので砂糖菓子屋を営む女に赤ん坊を託する。女は養子縁組のあっせんもしていた。さらにその菓子屋で雇ってもらう。その女には養子について秘密があった。カトリーネは女の行動をいぶかしむようになる。そして、その秘密を知ってしまった。驚愕の事実だった。

 この秘密が恐ろしい。ここからがすごいんだが、言うことはできない。この続きは映画を観てのお楽しみと、講釈師のようなに語るしかない。

 映像は古臭いむかしの映画を観ているよう。音響も不気味。モノクロのような画面は暗い世相を映し出している。

重苦しい。20世初め頃の話だが、中世を思わせる。十字軍から帰還した傷病兵がフリークスのように見世物小屋で働いたり、共同浴場も20世紀を連想させない。

 実際にあった事件に触発されてつくられたという。フーン、こんなことがあったのかとしばらく席を立てなかった。しばらくといっても数秒だが。

 

2025年6月 2日 (月)

「ヒマラヤ杉は知っている」

 明治大学生田校舎で開かれた朗読劇を観に行ってきた。キャンパスにある登戸研究所資料館主催のイベントである。タイトルは「ヒマラヤ杉は知っている」。

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 戦前、陸軍登戸研究所が生田キャンパスの敷地内にあったことはあまり知られていない。今は小さな資料館がその歴史を伝えている。

 登戸研究所では、秘密裏に風船爆弾の研究や偽札が製造されていた。資料館はその歴史を伝えている。小さな施設だが、中身はぎっしり詰まっている。

 以前、ここで働いていた女性の話を聴いたことがある。挺身隊としてミシンばかり踏んでいたとか、ここで働いていることをひとにしゃべってはならないときつく言われていたとか、居心地はよかったとか、細かなことまで聴けた。

 今回の朗読劇はその歴史をわかりやすく紹介したものである。キャンパスに植わっていた大きなヒマラヤ杉が研究所や戦後のキャンパスを見下ろしていたといった内容になっている。

 新校舎建設により伐採された杉の木はテーブルなどに加工された。新たにヒマラヤ杉の苗が別の場所に植えられるということである。

 川崎市多摩区には資料館だの記念館が多い。登戸研究所資料館近くには、民家園、藤子・F・不二雄ミュージアム、岡本太郎美術館などなどある。近いけど、一日では回り切れない。

 ついでのひとこと

 備蓄米をめぐって大騒ぎとなっている。マスコミは小泉劇場。あの米、たしかに安いけど供給量には限界がある、ならば4000円の米と半分まぜあわせて5キロ3000円で売るような手があると思うが、そんな声は聞こえてこない。どうして?

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