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2025年12月

2025年12月30日 (火)

「石炭の値打ち」

 ことし最後の映画はケン・ローチ監督の「石炭の値打ち」。ケン・ローチ監督ファンは多い。アートセンターの客席はほぼ埋まった。

 50年近く前の1977年、テレビ用に制作した映画である。上映時間は168分。途中休憩がある。今どきの映画からするとそれほど長いわけじゃないけど、年寄りにはトイレタイムがあるのはありがたい。

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 舞台はイギリス、南ヨークシアの炭鉱。炭鉱ものといえば、落盤事故とか閉鎖による労働争議がテーマになるものが多い。今回の「石炭の値打ち」は二部構成となっており、二部が落盤事故を扱っている。

 一部は、1976年、チャールズ皇太子が視察に訪れたときの話。なにせ皇室メンバーを招くのだから準備は大変である。炭鉱労働者は経営者を冷ややかに眺めたりするだけだが、経営側は大わらわとなる。花を植えたり、ごみの始末をしたり、ペンキを塗ったり、修繕をしたりする。ちょっと笑えるが、いずこもそんなものか。そうした姿を淡々と描いている。

 二部は、落盤事故そのもの。爆発が起き。8人が坑内に取り残される。安否不明。懸命の救出作業が始まる。幹部社員、救助隊、家族の動きを映し出す。

 一部も二部もドラマチックには描かない。非常事態であるけれど、救出劇を感動的には映し出さない。静かである。このあたりが、ケン・ローチ風。

  労働者をみつめるまなざしが優しい。経営者側の人間も悪役にしてはいない。そほあたりの視点がケン・ローチの持ち味だとあらためて感じさせてくれる;

 ついでのひとこと

 ケン・ローチの名が知られるようになったのは、アイルランドの内戦を描いた「麦の穂をゆらす風」以降である。それ以前も多くの映画をつくってきたが、日本ではあまり知られていない。

 川崎市ミュージアムでは初期のケン・ローチ作品を収集してきた。ときどき上映会を開いていた。わたしはそれをいくつか観てきてきた。それが2019年の台風で水没してしまった。ダメになったのか修復可能かどうかはわからない。

2025年12月28日 (日)

 捨て鉢になるにはあまりにも・・・

 自暴自棄になることを「捨て鉢になる」という。投げやり、破れかぶれと同類である。にっちもさっちもいかなくなってどうにでもなれというという気持ちを表す。

 なぜ、鉢を捨てるのだろうかと、疑問が浮かんだ。調べてみると、いくつかいわれがある。

 修行僧が托鉢につかう鉢を捨てることからきているという。厳しい修業をギブアップしてしまう。

 もうひとつは、鉢は果つが変化したもの、やけっぱちのぱちと同じ。これに捨てるがついて、意味を強めた。

 ふーん、そうかと半分納得するが、半分は腹に嵌まらない。

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 こんどは、チャットGPTに訊いてみる。

 捨鉢(シャハチ ステバチ)。修行僧が食べ物も命への執着さえ捨て、もはや托鉢の鉢すら不要と覚悟する境地。

  がけっぷちに立つ、究極の覚悟を意味している。こちらのほうが深い。説得力がある。

 それが、やけっぱちになるまでには、かなりの飛躍があると思うが、そのあたりはよくわからない。

すてばちになるには余りにも明るすぎる」という歌謡曲の一節を思い浮べる。タイトルは「銀座の雀」。森繁久彌や加藤登紀子が歌った。

 この歌、捨て鉢になるなと歌う。「赤いネオンのあかりさえ 明日の望みにまたたくのさ」と。希望を持とう、ということだ。

2025年12月26日 (金)

「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ」

 年末は暇だ。会合も忘年会も終わり、大掃除ぐらいだろうが、大した掃除はしない。年賀状書きも止めた。

 となると、映画。正月映画は暮れの内に観ることになる。

 さして興味はないのだが、かといって見逃すのも面白くない。「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ」を観てきた、ジェームス・キャメロン監督は「アバター」に賭けているように力を注いでいる。

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 蒼い肌の先住民ナヴィが暮らす星パンドラに、地下資源を求めて地球人が襲撃するというストーリー。地球軍は人間とナヴィのアバターを作って潜入させる。荒唐無稽な話だが、展開は単純、原住民と侵略者との闘いである。

 上映時間は長い。3時間半近い197分。先に観た「女性の休日」は71分だから2時間違う。1時間ぐらいカットできるとおもうが、眠くはならなかった。みどころは最後の30分。激しい戦いが続く。地球軍はノルマンディ上陸作戦のような大量の兵器で襲う。ナヴィは海洋生物、怪獣にまたがって迎え撃つ。これが迫力がある。CGを駆使した画面は流れるように美しい。このシーンだけでも、観る価値がある。すげえ、のひとこと。

 ハリウッド映画の常道となるが、家族愛、家族の絆を押し出している。そのあたりは、わたしなどうんざりするのだが、ま、文句を言うほどではない。家族愛は、そうありたい理想でもあるのだから。

 

2025年12月24日 (水)

「女性の休日」

 ある女性に「御主人はいかがされてますか」と問うと、「あれは主人ではありません。パートナーです」ときっぱり返された。しばし絶句。「パートナーですか、たいへん失礼しました」とかろうじて答えた。そうか、そうなのかと、男女平等なのだと、わずかばかり納得した。

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 アートセンターで「女性の休日」を観てきた。アイスランドはジェンダー平等先進国である。それがどのように実現されたかを描いたドキュメンタリーである。

 客席は8割が埋まった。ほとんど女性。男性は10人もいない。ま、そうだろうと納得する。

 1975年にさかのぼる。アイスランドはその他のヨーロッパの国と同様に男女差別の国だった。家事は女の仕事とされ、仕事の現場でも差別され、低賃金だった。

 この現状を打破しようと女性たちは異議をとなえるようになった。強硬派はストライキを主張したが、多くはそれに反対した。ストライキでは人は集まらない。多くの人が参加できるよう休むこと、休日をとることを選択した。集会に参加するか、話し合いの場をもつとか、ゆるやかな運動にした。

 10月24日が実行日となった。夫は戸惑いつつもパートナーの休日を受け入れた。皿洗いをするとか子供の世話をするとか、あるいは仕事の現場に赤ん坊を連れて行くとか。90パーセントの女性が運動に参加した。工場や公共機関の機能はストップした。

 この日をきっかけに、女性の地位向上とか新たな働き方の取り組みが始まった。映画は、その後の改革を紹介している。それほどうまくいったのかと疑問もわくのだが、結果として男女平等は進んだ。

 この映画からアリストパネスの「女の平和」を連想した。女性のセックスストライキというかサボタージュが、夫たちの、アテナイとスパルタの戦いを収めたというギリシャ喜劇である。映画評をいくつか目にしたが、「女の平和」に言及するものはなかった。

 ふーん、この国の文化度は低い。だから、と言いたいこともあるが止めておく。

2025年12月22日 (月)

ダイキチー KOMEHYO

 買取りの新聞折り込みが目立つ。テレビCMでもイッコーの「ダイキチー」がうるさい。あれで、商売になるのかと、疑問に思っていたのだが、実際にはちゃんとしたビジネスになっていることを知った。

 一週間ほど前の日経新聞が、中古市場は91兆円という記事をのせていた。中古のブランドバックや高級時計のビジネスが広がっている。海外から客がたくさん押し寄せている。

 日本の中古品に偽ブランドはほとんどない。新品同様に手入れされている。爆買いというほどではなかろうが、値が張るから結構な市場規模になる。

 メイド・イン・ジャパンではなく、ユースト・イン・ジャパンなのだ。

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 中古品というと、コメ兵を思い出す。古着ショップである。名古屋の大須、大須演芸場のちかくにコメ兵があった。むかしはダサい古着ショップだった。いらんものはコメ兵へがキャッチフレーズだった。それが東京に進出し、垢抜けした店構えの店に変身した。

 新聞チラシもおしゃれ。店名はKOMEHYO。50年以上前のコメ兵を知っている人間には驚きである。

 私の頭の中を、戦後の、70年ぐらい前の大須観音界隈の賑わいがクルクル回っている。

 

 

2025年12月20日 (土)

「エディントンへようこそ」

 2020年5月を思い出すと、気分が重くなる。非常事態だか緊急事態が宣言され、移動が制限されたり、施設が閉鎖されたりした。病院への見舞いもできなかった。ひどかった。のちに中国はゼロコロナ政策をとった。あれよりはマシだったけど、いくらパンテミックとはいえ、もっと冷静な対応があってもよかった。世の中が異常なパニックの中にいた。

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エディントンへようこそ」を観てきた。2020年5月のアメリカ西部の田舎町を舞台にした映画だ。

 エディントン市長とジョー保安官(ホアン・フェニックス)はマスクをするかしないかで対立する。保安官は市長選挙に立候補する。市は他の問題でも揺れている。警官による黒人男性圧殺事件により「ブラック・ライブズ・マター」運動が広がっていた。

 ジョーは権威をもって対処する。ところが家庭となると、妻は精神が不安定な状態にあり、妻の母親も陰謀論にとらわれている。近隣住民も悩ましい。ジョーの行動を撮影し、SNSで拡散する。そうこうしているうちに、市長とその息子が射殺される。犯人は?

 後半となるとよくわからない。あやしい人物が見え隠れする。ジョー保安官の混乱もある。どどっと混沌とした世界となる。そして、ジョー保安官は発熱し、咳が止まらなくなる。映像は現実なのか、ジョーの幻覚なのか。

 もういちど観てみないとわからないのか、観てもわからないのか、わからない。

 ことの大小はあるが、あの数年はみな世界中が精神を病んでいた。陰鬱としたナーバスな空気が支配していた。おかしな時代だった。

2025年12月18日 (木)

「落語家の業」

 快楽亭ブラックという落語家がいる。寄席には出ない、テレビにも出ないから知名度は低い。出ないというより、出禁である。一部のマニアックなファンによって支えられている。

 かつて、ギャンブルで2000万ほどの借金が露見して、師匠・立川談志の逆鱗に触れ、立川流を追い出された。弟子にも借金をさせて返済に走るようなこともあった。それが薄暗い路地裏に生息する小動物のように生き延びてきた。

 言ってみれば、路地裏芸人、地下芸人である。

 もともと、落語はうまい。その芸に惹かれるファンも多い。路地裏ではコンプライアンスは緩い。毒舌を吐きながら笑いを取ってきた。

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 その快楽亭ブラックをとりあげたドキュメンタリー映画「落語家の業」が上映されている。ユーロスペースまで出かけて観てきた。ばかばかしくて面白かった。

 こまかなことは省く。名古屋の大須演芸場が差し押さえになった事件がある。それにブラックは絡んでいる。このエピソードが映画の見どころである。税務署の執行官による強制執行の直前、高座にあがり、実況中継をした。このシーンは以前、ネットでみたことがある。鈴々舎馬るこがビデオを回した。念のため言っておくが滞納したのは席亭であってブラックではない。ブラックは面白がって高座にあがった。執行官の真剣な顔つきが可笑しかった。こういうのを笑いにしてしまうのが、ブラックの芸風である。

 大病をしたがまだ生きている。路地裏の小さな寄席で、テレビでは見せられないような落語を演じている。

 上映がおわると、めずらしく拍手と笑いが起きた。

2025年12月16日 (火)

セイノカミ 屋根吹替

 セイノカミは地域によって呼び名がちがうが、道路ばたに置かれた石像である。道祖神のひとつ。岡上にあるセイノカミの石像の屋根を吹き替えるというので、行ってみた。

 岡上では、どんど焼きをセイノカミと読んできた。石像は、辻とよばれる交差点の脇に置かれており、その近くでどんと焼きが行われてきた。それで、どんと焼きもセイノカミと呼ばれるようになったものと考えられる。地域によって謂われはあるようだが。

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 写真は吹き替え前のもの。去年の12月に吹きかられたもので屋根の藁は茶色になっている。もともとは五輪塔だったが、それが崩れて路ばたに置かれていた。それを横にしたまま祀ったもので、それに屋根が葺かれるようになった。

 引き換え作業は簡単。藁や支える柱もとっぱらう。新しい柱で支えをつくり、藁で屋根をつくる。手順は簡単だけど、けっこう手間がかかる。

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 わたしは途中で失礼した。

 岡上、川井田地区のどんど焼きは1月24日午後3時、和光大学前のたんぼで行われる。諸事情あって、ここでのどんど焼きは、最後になるかもしれない。ぜひお出かけいただき、どんど焼けを楽しんでもらいたい。

2025年12月14日 (日)

鶴川落語 正蔵・喬太郎

 ここ数日、ひどく寒い。風が冷たい。木枯らしとはこういうものか、夏の長い猛暑で忘れてしまっていた。温かくして出かけたが、手袋の指先から凍えていく。ホカロンを持ってくればよかった。

 鶴川落語。今回は林家正蔵、柳家喬太郎二人会。人気の噺家だからチケットは早々に完売となった。どんな演目になるか。年末だから、「芝浜」とか「掛取り」が定番となるが、ま、やらないだろうな。

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 今回の演目

  正蔵    雛鍔

  喬太郎  紙入れ

  喬太郎  時そば

  正蔵   浜野矩隋

 鶴川での喬太郎のマクラは、決まって箱根そばネタである。箱根そばは小田急沿線にある立ち食いそば屋。ここのコロッケ(カレーコロッケ)をかけそばに乗せる。この組み合わせがいい。タマゴでもかき揚げでもない、トッピングの意外な組み合わせを語る。何度も聞いた。マンネリだけど、ま、いいか。喬太郎自身は箱根そばより、小諸そばの方が好みらしいが・・・。

 そこから、すんなり「時そば」に入った。喬太郎らしいひねりがあるかと思ったが、古典噺どおりの展開、オチとなった。

 正蔵は「浜野矩隋」。先々代の円楽が得意としていた。現在よく演じられるかどうかは知らない。たまに聴くことがあるからそこそこにはやられているのだろう。

 腰元彫りの彫師の噺である。矩隋が名人と言われるまでになるかを描く。父親に負けないほどの彫りの技術を身に着けるが、その前に母親は自ら命を絶ってしまう。

 ちょいとトリビアな話題となってしまうが、母が死ぬのはかわいそうだと死なせないストーリーもある。こっちの方が多いやり方が多くなっているような気もする。

 正蔵は、簡単に命を絶つストーリーとしている。本来のやり方である。悲劇的な雰囲気はなかった。悲しくもない。正蔵のホンワカしたキャラがストーリーをやわらげているのだろう、持ち味である。

 ところで、今回、「マッテマシタ」とか「タップリ」と声をあげる客がいた。やたら声をあげる。うるさいほど。

 やめてもらいたい。一回で十分。励ましの掛け声になっていないことが、わからんのかねえ。

 

2025年12月12日 (金)

国民の不断の努力

 ノ―ベル平和賞の受賞式がノルウェイのオスロで行われた。念のために言っておくと、スエーデンのストックホルムではない。受賞者の、ベネズエラのマチャドさんは間に合わなくて娘さんが受賞の演説を代読した。

私たちは民主主義を当たり前だと思っていた。それは誤りだった。ひどい誤りだった

 民主主民主主義はもろい。油断するとたちまち軍部が政権を握ったり、選挙結果をゆがめてしまったりする。自由だの民主主義は吹き飛ばされてしまう。そんな趣旨だった。

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 浮かれていると簡単に足をすくわれてしまう。思い出すのは日本国憲法の第12条である。同様の注意を促している。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。

 自由は不断の努力があって保持される。そうじゃないと危うい。憲法議論で、12条など見向きもされなくなっているが、重要な条項なのだ。

 朝日新聞は、独裁体制国家が民主主義体制を上回ったことを伝えている。信じられないが、独裁体制の国が91,民主主義体制の国が88になっているのだそうだ。

 1989年、ベルリンの壁の崩壊をきっかけに非民主主義の体制は激減すると思っていたのだが、現実にはそうはならなかった。自由は後退し、独裁国が増えていった。

 ベネズエラも独裁体制の国になってしまった。アメリカをはじめとする諸外国の圧力によって今後どうなるのか、どういう方向に進むかはわからない。見守るしかない。

 自由とか民主主義は、国民の不断の努力がないと保持できない。さしあたっては、それを心に刻み付けておこう。

 自由や民主主義が危うくなる予兆はある。それについてはいずれ書く。

2025年12月10日 (水)

「佐藤忠男、映画の旅」

 映画評論家の佐藤忠男さんが亡くなって三年たつ。しんゆり映画祭ではずいぶんお世話になった。上映作品の解説、座談など登場いただいた。佐藤さんの追悼イベントとして「魔法使いのおじいさん」の上映を企画した。佐藤さんが生涯で観た映画の最高傑作と語っていたインド映画である。フィルムは川崎市ミュージアムにあることがわかった、ところがこれが上映できないと言う。19年の洪水により、フィルムは水没。修復作業も進んでいないという。残念。もう一か所、持っているとの情報もあったが、上映権がないとのことで、結局断念した。

 佐藤忠男、映画の旅」をアートセンターで観てきた。ドキュメンタリーである。とりわけ、アジア映画への傾倒の部分に力点を置いている。なぜアジア映画だったったか。佐藤さんは明確に答えてはいない。たまたまアジアだったと言うしかない。

「🅼法使いのおじいさん」の映像が一部流れる。映像もよいが、音楽もリズミカルでよい。そこに惹かれたのか。素朴さが広がる。

 ぜひ、アートセンターで上映してもらいたい。

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2025年12月 8日 (月)

「ペルリュー 楽園のゲルニカ」

 第二次大戦中、ペルリュー島でも激戦があった。サイパン、硫黄島ほど知られていないが、大激戦であった。日本軍は1万以上の犠牲者を出し、生き延びた軍人は数十人ほどと言われている。

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 その激突を描いたアニメ映画「ペルリュー 楽園のゲルニカ」を観てきた。原作は漫画。そんな漫画があることを知らなかった。映画にするにあたって、実写の劇映画ではなくそのままアニメにした。劇画の映像化。その方が安上がりだろうし、原作のイメージが保てる。アニメの画像がなめらかな仕上がりになってないのは、ま、予算の都合だろう。だからといって映画の質が落ちているわけではない。

 主人公の田丸一等兵は絵が上手い。漫画家志望である。ならば、文章も書けるだろうと、功績係を命じられる。功績係とは、亡くなった兵士の活躍ぶりを讃える手紙を書く担当である。どのように死んでも名誉の戦死となる。

 米軍が上陸し、戦闘は激烈を極める。多勢に無勢。米軍の軍事力にはかなわない。勇猛に戦ったが、たちまち蹴散らかされる。島のほとんどは占拠され、戦闘は止む。

 わずかばかりの敗残兵は残された食料やヘビなどを捕獲して生き延びる。終戦となるが、それを知らない。米軍が捨てた雑誌では戦争が終わったという記事を見つけるが、それは偽情報だとする意見もあり、投降はしない。米軍の食料テントから盗み出してきた缶詰などで終戦後二年ほどを生き延びた。

 このあたり、今年観た「木の上の軍隊」と重なり合う。

 が、ここからが違う。どのように戦争が終結したかを兵隊たちが納得したか、伏線は田丸一等兵の才能というか趣味の絵である。ネタバレになるからこれ以上は書かない。

 なるほどねと、納得できる。うまい。

 サブタイトルの「楽園のゲルニカ」は、どういう意味か。ペルリューは楽園の島だったが、ゲルニカの町のように大爆撃を受けたということか。いらないかも。

2025年12月 6日 (土)

配慮が足りない

 目が悪くなった。これについては何度も書いてきたから詳しいことは省くが、視力が落ちると同時に明暗にも弱くなった。

 外に出れば、まぶしい。ツバのある帽子が必携。帽子は忘れやすいと言われるが、忘れることはほとんどない。まぶしいから帽子をかぶっていないことに気づくからだ。ただし、夜は別。

 暗いところも見えない。自分では気づかなかったが、若い人がかなり薄暗いところでもすいすい歩いているのを見るようになったからだ。軽い鳥目。可視領域がせまくなっている。

 映画館の休憩中の場内は暗い。美術館の展示ルームも暗い。しゃれたレストランもムードをだすつもりか、暗い。廊下や階段がロウソクの明かり程度になっているところもある。これは困る。

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公共施設などは障碍者への配慮を義務づけられるようになった。車椅子スペースを置くとか、段差をなくすとか、手すりをつけるとか。視覚障碍者、聴覚障碍者への字幕や音声サービスも充実するようになった。それはよいが、まだまだ不十分である。目がわるくなってみると、合理的配慮とやらが全然できていないことに気がつく。

 足元がわかるような照明にしてほしい。いちいち文句を言うのもアレだから、アンケートではその旨を回答するようにしている。この気持ちは健常者、若い人にはわからないだろうが、ちょっと耳を傾けてもらいたい。それが合理的配慮だ。

 さしあたって、今は、懐中電灯を携行するようにしている スマホのライト機能ではまったくたりないんだよね。

 脚下照顧。

2025年12月 4日 (木)

かみわざ

 寄席の色物に紙切りがある。人間ざわとはとても思えないほどうまい。たいしてうまくない切り手もいるけれど、林家正楽は別格だった。惜しいことに昨年亡くなってしまった。至宝だった。今年、林家二楽が亡くなった。正楽に劣らずうまくなっていた。二楽は先代正楽の息子である。早晩、正楽を継ぐものと思っていたのに・・・。紙切り界はナンバーワン、ナンバーツーを失ったわけだ。

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 演芸評論家の吉川潮が雑誌「波」に追悼文を書いている。

 どうやって紙切りの修業をするか。まず、師匠(先代正楽)がお手本の馬を切る。それをまねて切る。何十枚も切る。ようやくお手本に近いものが切れると、こんどは走っている馬を切る。さまざまな馬の形を切ると、次は牛になる。続いて十二支、ライオン、象などになる。動物が終わると、ようやく人物になる、といった調子。

  ふーん、そうなのか。習って、習って、習って。そうやって、腕を磨いてきた。並みの修業でない。ハサミセンスもいるだろうが、お客さんからのリクエストを聞いて、さらっと藤娘だの相合傘が切れるようになるまでにはさらに時間がかかる。職人技、神技である。

 二人は抜きんでていた。紙切りをやる芸人はそこそこいるけれど、正楽、二楽のレベルには達していない。あと何年か、待つしかない。

 それまでは、AIロボットがチャカチャカチャカと切るなんてことがあるかもしれない。

 

 

2025年12月 2日 (火)

「兄を持ち運べるサイズに」

 中野量太監督の、初期の短編映画をいくつか観たことがある。「湯を沸かすほど熱い愛」より前である。

 焼き場とか葬儀場のシーンが多いことに気付いた。「湯を沸かすほど熱い愛」のラストも、焼き場ではないけれどそれに近い。当人が気づいているかどうかはわからないけど、葬儀とか死の意識が映画に反映している、ように感じる。で、新作の「兄を持ち運べるサイズに」にも、それらしいシーンがあるんじゃないかと予測した。

 アートセンターで観てきた。

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 疎遠だった兄(オダギリジョー)が亡くなり、滋賀に住む理子(柴咲コウ)は多賀城に向かう。元妻の加奈子(満島ひかる)とともに葬儀を執り行う。

 葬儀のシーンがある。骨上げのシーンもしっかりある。わたしはウフフと笑った。やっぱりな。

 兄は中学生の息子と暮らしていた。とりあえずは児童施設に入れる。加奈子はシングルマザーとして娘とつましく暮らしている。

 兄は、ダメ男だった。母に無心し、その死後は理子にも無心するようになっていた。住んでいたアパートは荒れ放題。その始末を加奈子とともにした。死んでも迷惑をかける兄だった。

 兄が幻覚というか幽霊のようにあらわれる。怒りはある。一方で、どこまでも憎めない存在であることがわかる。

 といったストーリー。家族がテーマである。家族の絆という表現はよく使われる。絆とはあたたかいつながりであるが、しがらみ、首枷でもある。たとえば、家出はその首枷からのがれようとする行為である。

 中野量太監督は家族のつながりを描く。あったかいほうね。疎遠で嫌いだった兄を許す。でも、生きていたらどうかはわからない。

 今年、「でっちあげ」という映画があった。柴咲コウの教師を追及する演技が印象に残っている。目つきが怖かった。「兄を持ち運べるサイズ」ではメガネをかけたふつうの主婦の姿だった。その差に驚く。俳優だからどんな演技でもできるのだろうが、その違いがおもしろかった。

 

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