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映画

2025年2月11日 (火)

「夏の庭 The Friends」

 相米慎二監督が亡くなったのは2001年、20年以上前になる。いまだ相米作品を熱く語る人は多い。海外での評価も広がっている。いくつかは4Kリマスター版ととなっている。

  そのデジタル化された「夏の庭 The Friends」をアートセンターで観てきた。30年ほど前、1994の作品である。

 この映画をわたしは観ていない。あのころは仕事で忙しかったので見逃した名作は多い。原作は、通勤電車の中で揺られながら読んだ記憶がある。

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 小学生の三人が、死に興味を持ち始める。死ぬとはどういうことか、人はどんなふうに死ぬのかといった疑問を抱く。近くの一軒家に住むおじいさんがもうすぐ死にそうだという声を耳にし、その家を見張ることにする。夏休み、サッカーの練習の合間に家を覗く。日々の行動を追う。最初は、見つかって追いたてられたりするが、そのうち、おじいさんの家に招かれるようになる。そして、荒れ果てた庭の草を抜き、花を植えたりするようになる。

 おじいさんから、戦争体験や家族のことなどを聴いたりする。

 おじいさん役は三国連太郎。共演者は、戸田菜穂淡島千景。ちょい役で鶴瓶、江本明なども出ている。

 相米監督作品には子役が多く登場する。子供のつかいかたがうまいと言われる。大の子供好きと思われるが、相米監督の弟子である足立紳は意外なことを語っている。映画の現場では子供たちとうまくいっていないというか、コミュニケーション不全のところがあった、と。

 子供たちとの会話がうまくいかない。ところが、撮影となるとそれなりの指示をして、できあがってみれば上手く子供たちの演技を引き出していた。

 そういうものなのか。クレーのカメラから俯瞰したショットが多い。子供たちは駆ける。走り回る。あらためて相米イズムを感じた。

 ついでのひとこと

 日本映画大学の卒業制作映画の上映会がイオンシネマであった。新百合ヶ丘ならではのイベントである。5本の短編(ドラマ2本、ドキュメンタリー3本)が上映された。驚いたのは、ドキュメンタリーの監督は全部中国からの留学生であった。二本は中国が舞台になる。

 映画大学の学生の半分以上は留学生だと聞いていたが、まさにそれを裏付けるような上映会となっていた。レベルは高い。卒業生は日本に残るか帰国するか知らないけど、どこでもきちんとした映画づくりができるんじゃないかな。基礎はしっかり身につけている。

 

2025年2月 3日 (月)

「リアル・ペイン」

 6年前、ポーランドに行った。ワルシャワと南部のクラフクを巡る一週間ほどのツアー。アウシュビッツは心に重かった。が、総じて楽しい旅行だった。

リアル・ペイン~心の旅~」をイオンシネマで観てきた。ポーランド旅行の話である。アメリカに住むデビットとベンジーはいとこ同士。30代。亡くなった祖母のふるさとを訪ねる目的でポーランドツアーに参加する。

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 デビットは妻と子と幸せな家庭を築いている。まじめな若者だ。一方、ベンジーは独身。陽気で自由奔放な生き方をしている。デビットはベンジーに振り回されることはあるが、仲はよい。上映5分ぐらいで二人の性格はわかる。

 ワルシャワでツアーメンバーと合流する。ガイドはイギリス人。老夫婦、未亡人、そしてルワンダの青年。ルワンダの大虐殺事件を体験し、のちにユダヤ教に入信した。

 列車で南に向かう。ベンジーは一等車に乗ることが気に入らない。強制収容所にいくのに豪華な列車に乗るのは抵抗がある言い、別車両に移ってしまう。デビットは仕方なしにベンシーにつきあう。ところが寝過ごしてしまう。あわてて降りて、反対車線の列車でもどる。なんとか無事ツアーメンバーと巡り会うことができた。

デビットはガイドに文句を言うシーンがある。史跡もいいが、そこに住む人たちの声が聞こえないとかクレームをつける。ガイドは困惑する。

 強制収容所跡地はアウシュビッツではない。別の場所。ここで亡くなったユダヤ人たちに思いを馳せる。ことば少なになる。気分は重い。リアル・ペイン、心に刺さる。

 その後、メンバーと別れ、祖母が住んでいた住居に向かう。

 車窓には広大な麦畑が広がる。この畑は国の東側にあるウクライナにつながっている。ウクライナでも同じような光景だろうと想像できる。しかしロシアの話題は出てこなかった。

 流れるのはショパンのピアノ曲。しょっちゅう聴こえる。日本人の耳に馴染んだ曲が多い。ショパンといえばポーランド、ポーランドといえばショパン、である。

 監督・脚本はデビットを演じたジェシー・アイゼンバーク。ベンジーを演じたキーラン・カルキンの情緒不安定な演技が印象的。「ホーム・アローン」の主役の坊や、マーコレー・カルキンの弟だそうだ。

2025年2月 1日 (土)

「オークション 盗まれたエゴン・シーレ」

 黄斑変性の手術を受けて1年半になる。歪みは8割方なくなった。2割は残っている。手術としては成功なんだろうが、視力は回復しない。眼底がでこぼこになっている。片目では新聞が読めない。見出しも読めなくなった。老化といえばそれまでだが、やっかいなことだ。

 昔の仲間と会食した折り、黄斑変性による歪みをエゴン・シーレの絵のようだと説明した。エゴン・シーレって誰か、だれも知らなかった。おまえら、絵画の教養はないのかと、毒づいてやった。スマホで、エゴン・シーレ 自画像、と入れてみれば、最初にヒットする絵がそれ。斜めからの画像だが、片目だけ大きい。これに鼻の下を異様に長くすると変形した画像になる。あるいは、クレヨンしんちゃんのママ・みさえ。大きな片目だけのイラストを想像してみていただきたい。そんなふうに見える。

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 で、話は変わって、映画。アートセンターで「オークション 盗まれたエゴン・シーレ」を観てきた。かつてナチスに奪われ行方知れずとなっていたエゴン・シーレの絵がみつかり、オークションにかけられるという内容である。

 エゴン・シーレの絵は「ひまわり」。ゴッホの「ひまわり」に触発され描いたとされるが、SOMPO美術館に展示されている「ひまわり」とはまったく異なる。ゴッホはひまわりをたくさん描いているからどのひまわりに触発されたのかはわからない。以前、オランダでたくさんのゴッホの絵をみた。ひまわりだけでも20以上あったような気がする。枯れたひまわりが多かった。

 映画は、労働者のアパートでエゴン・シーレの「ひまわり」が見つかったところから始まる。ナチスに奪われ、ながく行方がわからなくなっていたものだ。

  パリのオークションハウスで働く競売人のマッソンは鑑定を依頼され、元妻とともに労働者のアパートを訪ねる。贋作ではない。以前、そこに住んでいた家族が所有していたもののようだ。ナチスが奪ったものが、戦後、その住民の手に渡った。所有者はすでに亡くなり、遺族はアメリカに移り住んでいることがわかる。その労働者は、所有権を主張せず、前の所有者の遺族に譲りたいと言う。あれこれあって、マッソンはオークションにかけるところまでたどり着く。

 オークションなら欲の塊のような人物ばかり集まる。最初に見つけた労働者は幾分かの分け前を主張することができるが、無欲であり恬淡としている。無欲と強欲の対比が面白い。ついでに言うと、私も欲はない。欲はむかしに捨てた。

 サブタイトルにエゴン・シーレとあるが、代表作の「自画像」も「哀しみの女」も出てこない。

 

2025年1月30日 (木)

「雪の花」

 松坂桃李主演の「雪の花  ともに在りて」をイオンシネマで観てきた。

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 江戸時代の末期、福井藩でも天然痘が流行っていた。町医者の笠原(松坂桃李)は治療にあたっていたが治癒させることはできなかった。京都の蘭方医から、西洋では、種痘という予防接種で感染を防いでいるとのことを聞く。最新の医学であるが、それを行うには西洋から種痘の苗を取り寄せる必要がある。笠原は藩主や幕府の許可をえなければばらない。苗の入手に奔走し、ようやく許可を得ることができた。

 このあたりの史実は本で読んだことがある。映画はわかりやすい。説明的でもある。だけど、NHKの歴史ドキュメンタリー番組の再現フィルムを観ているようで、映画的なわくわく感はない。

 後半、牛痘のウミを子供に植え付けるなどとんでもないと抵抗があったり、子供を冬の山越えをさせなければならないなどの波乱がある。でも、ま、展開はわかっているので、ハラハラ感もない。登場人物は控え目で、礼儀正しい。ま、そうなんだろうけど。

 この映画のいいところは音楽である。気持ちよい。エンドロールで加古隆とあった。なるほどと納得。

2025年1月24日 (金)

「室町無頼」

 応仁の乱の5年ほど前の一揆を描いている。応仁の乱はよくわからない史実で、だらだら十年以上続いた。それ以前から飢饉や疫病で京都の町は荒れており、幕府はタガが外れていた。

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大泉洋が演ずるのは兵衛という牢人(浪人)。苦しい庶民は金を借りて暮らしているが、金貸しの取り立ては厳しい。さらに苦境に追いやられている。兵衛は無頼漢ではあるけれど、なにかと庶民の面倒を見ており、評判が良い。さらに、かえると呼ばれる少年・才蔵に武術の修行をさせる。

 兵衛と対立するのは、京都の治安を任されている道賢(堤真一)。前半は、この対立と才蔵の修行の様子を描いている。

 後半は一揆のシーン。これが迫力がある。民衆が松明をかざし、徳政(借金棒引き)を求めて京の町におしかける。「一期は夢よ ただ狂え 天下を燃やせ」とアナーキーな叫び声をあげて踊る。のちの、ええじゃないかを彷彿させる。

 活劇部分は、サム・ペキンパーの西部劇を思わせる。さらにマカロニウエスタンのようでもある。エンリコ・モリコーネの音楽が響いてくるような雰囲気。ちょっとワクワクする。

 ということで、終盤の一揆のシーンが面白い。大画面じゃないと味わえない。スカッとする娯楽映画である。

2025年1月14日 (火)

「シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録」

 昨年、唐十郎が亡くなった。その追悼で、唐十郎と劇団の活動を描いたドキュメンタリー映画がアートセンターで上映された。そんな映画があることは知らなかった。監督は大島新

 時代は2006年から07年にかけて。唐十郎は『海底二万哩』に触発された「行商人ネモ」の台本を書き上げ、それを舞台にする。そのプロセスである。

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 わたくしごと。『海底二万哩』を読んだのは小学6年のとき。なにかの賞品でもらった。ジュール・ヴェルヌの本はいくつか読んだが、最初に読んだ『海底二万哩』がいちばんおもしろかった。登場人物は潜水艦の艦長ネモ。唐のタイトルもそこから採られている。

 書いたシナリオは劇団員によって清書され、製本される。稽古は一見、和気藹々としている。唐はにこやかに笑う。唐の笑顔がいい。それが突然機嫌を損ね、怒り出す。すさまじい怒鳴り声。劇団員は震え上がる。が、怒りは長くは続かない。ふたたびもとの稽古に戻る。

状況劇場を解散した後の唐組。劇団員を20年も続けているベテランが二人いる。その二人が緩衝役となって、唐組をまとめている。メンバーの給料は安い。当て書き(出演者にあわせて台本を書くこと)の団員だけがもらえる。あとはちょろちょろ。俳優といっても大道具小道具、食事の世話などなんでも行う。そうやって舞台が作られる。

 大阪での公演初日までが描かれる。劇団運営とは大変なものだと思う。唐のようなエキセントリックなリーダーについていくは厳しい。しかし、団員は唐の魅力に引きつけられて組を離れられないでいる。それがなんとなくわかる。

 エンディングで、この映画は70パーセントがノンフィクションで20パーセントがフィクション、あとに10パーセントはどちらかわからないと字幕がでる。演出もあるってことか。唐の振る舞い自体が演劇的なんだと理解する。

唐は芝居という仮面を外されない人生を生きてきたのだろう。

 

2025年1月10日 (金)

「太陽と桃の歌」

 スペインのカタルーニアの農村。桃農園を営むファミリーの物語である。

 ずっとこの地で桃をつくってきたが、地主から収穫後に土地を明け渡すよう迫られている。その土地にソーラーパネルを設置しようとするのだ。父親は絶対反対だが、この際だから止めてもいいのではないかと思う家族もいる。桃農園の経営は大変である。鹿や兎による獣害がある。桃を仕入れる業者の値引き要請も強くなっている。このままでは成り立たなくなる。

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 そんな現状をドキュメンタリーのように映し出す。ファミリーのいくつかのエピソードを積み重ねていく。これといった展開、起承転結はない。

観客はただ農村風景や無邪気に振る舞う子供たちの様子や家族の諍いを眺めるだけである。

 緊迫するのは、卸売り業者への抗議集会ぐらい。トラクターで集まった農民は門前に桃をブチまける。いまの価格ではやっていけない。買い取り価格の値上げを要求する。これが効を奏するかどうかはわからない。桃は日本のものとは種類が違うようだ。固そう。生食よりジュースか缶詰用か。

 農地が工場用地になっていく光景はどこの国でも見られる。都市化が進めば、住宅地になったりするのは致し方ないだろう。ソーラーパネル程度ならいいのではないかと寛大な気持ちになってしまう。

 が、農業を考えれば背後に深刻な問題がある。日本の農地もずいぶん減った。農業従事者も少なくなった。酪農もやめる人が急増している。経営が苦しくなっている。輸入飼料の高騰である。円安が拍車をかける。なんとかしなければならないが、国の支援は乏しい。食料安保は重要といいながら、一方で軍需予算を大幅に増やしている。

2025年1月 7日 (火)

「キノ・ライカ」

 去年の年始め、カウリスマキ監督の「枯れ葉」を観た。冒頭、「竹田の子守唄」が流れる。この歌がフィンランドでも知られているのかと心に残った。

 アートセンターで「キノ・ライカ」を観てきた。カリウスマキたちがヘルシンキ郊外のカルッキラに映画館をつくるというドキュメンタリーである。監督はカリウスマキではなく、クロアチア出身のヴェリコ・ヴィダク。家族をともないこの地で一年ほどかけて撮影したという。

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 カーラジオ(それともテープ?)から流れる歌は日本語。男性が太い声で歌っている。「枯れ葉」と一緒。あとでわかったのだが、歌うは篠原俊武という人物。フィンランドに長く住んでいるという。カリウスマキの日本贔屓はこのあたりにあるかもしれない。

 カルッキラはかつて鋳物製造で栄えた街なのだが、いまは衰退している。老朽化した鋳物工場を改装して理想の映画館を作ろういうのだ。カリウスマキ自身も金槌を持つ。一心不乱に建てようとする雰囲気はない。しろうとの集まりだから完成までは時間がかかる。

 隣接した建物にはカフェもつくる。ワインも飲んだりしてゆっくり過ごせるようになっている。理想の空間である。採算にあうのかと考えてしまうが、それはそれ。なんとかなるだろう。ならなくなればまた考えればよい。うらやましい。そういうカフェで映画のおしゃべりをしてみたい。

 ジム・ジャームッシュが登場する。カウリスマキとは友人である。フィンランドを訪れたときの思い出を語る。カリウスマキが運転する古いキャデラックに乗る。屋根がない車。雪が降ってきた。

 この映画、そういえばジャームッシュの映像に似ているように感じる。アンドレ・バザン(映画評論家)がどうのこうのという会話も出てくる。わたしにとってはなつかしい人だ。

ということで、映画ファン、とくにむかしのヨーロッパ映画が好きな人にはぜひ観てもらいたい。

 ついでのひとこと

 映画館で映画祭仲間と出会った。「侍タイムスリッパー」を7回観たという。おもしろい映画だけど、短期間に何回も観るような映画ではないと思うが、はまっちゃったんだろう。もうひとり、駅近で仲間と会った。これから「パリ・テキサス」を観に行くという。渋いねえ。久しぶりに観るのはよい。

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 七草粥 

 きょうは七草粥の日。麻生区民館前の広場では、例年、七草粥が振舞われる。例年より人は少ない。直前まで雨が降ったせいだろう。

 縁起ものである。うまいものではない。

 

 

 

 

2025年1月 3日 (金)

「グランメゾン・パリ」

 料理をするシーンがある映画が好きだ。

 茹でたソーメンを冷たい水で洗うシーンとか、ナスやトマトを切って盛り付けるシーンとか。あるいは湯気がたつポトフとか。シズル感たっぷりの映像に惹かれる。

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グランメゾン・パリ」を観てきた。料理人を描いた映画だから、調理の場面はたっぷりあるはずだ。うまそうな、食欲をそそるシーンはいくつもあった。

 ただ、画像が鮮明でなかった。こちらが目がわるくなったこともあるが、それ以上に劇場の映写機の解像力が劣っているからだ。スクリーンの大きさに対応できていない。スぺクタルでないから大画面で映さなくてもよい。ミニシアター並みの小さな画面でよい。それなら鮮明な画面になるに違いない。映画館もスクリーンに耐えうるような高精度の機器にしたほうがよい。

 映画は、パリで三ツ星を狙うシェフ・尾花(木村拓哉)を中心としたストーリーである。テレビ版があるけれど観ていない。三ツ星がとれなければレストランを続けることができないという設定。尾花シェフはさまざまなトラブルが襲い、窮地に陥るというありふれたストーリーである。

  素材の熟成肉は思うように手に入らない。キャビアもそう。クルーの一人、韓国人の料理人は、悪い連中から借金の返済を迫られている。相棒とも言うべき倫子(鈴木京香)は尾花のもとを離れる。そこからのリカバリーである。

  ストーリーはわるくないのだが、やはり画面が・・・いまひとつである。

  料理は旨そう。年末年始、これといった料理を味わっていない。家人の料理は私向きなのだが、豪華ではない。たまには、奮発してフグなど。

 ついでのひとこと

 おせち料理はあまり食べなくなった。たくさんあると飽きる。市販のものは、しょっぱいし、味付けが濃い。

  で、朝はいつもどおり、きな粉をたっぷり入れたヨーグルトと野菜。昼はおせち。ごまめ(たつくり)が旨い。宮城から取り寄せたかまぼこもふわふわ。でも、数の子や伊達巻きは、いらない。

2024年12月28日 (土)

「チネチッタで会いましょう」

 チネチッタと聞けば、映画ファンは観なくっちゃとなる。ローマ郊外にある有名な撮影所である。数々の名作が生み出されてきた。

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 映画はこの撮影現場で始まる。著名な監督であるジョバンニのあらたな映画である。入れ込む監督の割には周りは冷ややか。主演女優が履いてきたミュールが気に入らない。この女優が演出に口をだす。プロデューサーは詐欺師だった。最高のパートナーと思っていた妻からは別れると言い出される。トラブルが続く。が、監督はめげない。

 ジョバンニの独りよがりの言動が可笑しい。しかしスタッフはなんとか監督の意に沿うよう手助けをする。うまく映画を取り終えることはできるのか。

 かなり荒っぽいつくりで観客を戸惑わせる。途中、スコセッシに電話をするとかのギャグが挿入される。映画愛にあふれていることはわかる。とりわけフェリーニ愛。設定にちかいのは「8 1/2」である。「甘い生活」のラストシーンも出てくる。

 撮影中の映画は、ハンガリー動乱の背景を描いている。フェリーニ映画を彷彿させるパレードのカットもある。

 監督はナンニ・モレッティ。「息子の部屋」が代表作だが、今回の映画は作風がかなり違う。喜劇タッチ。はちゃめちゃな部分もある。ウディ・アレンの作風に影響されたんじゃないかなとか、思ったりもする。

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