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読書

2024年2月13日 (火)

菜の花忌シンポジウム

菜の花忌」のイベントに行ってきた。場所は文京区のシビックホール。

 今回で27回になるという。今年初めて参加した。昨年は抽選ではずれた。ことしのシンポジウムのテーマは『街道をゆく』。 

 このシリーズは43冊になるのだそうだ。そんなに出ていたのかと驚く。「週刊朝日」に連載中にいくつかは読んだ、あとは数冊しか読んでいない。

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  今回のパネリストは、今村翔吾岸本葉子磯田道史。そして司会は古屋和雄。みな、全部か、だいたい読んでいるようで、今村さんは、中学生のころ全部読んだんだそうだ。すごい。

 司馬遼太郎は、当然のことながら予備知識を詰め込んでから目的地に行った。現地を歩くとその予備知識が崩れていく、それが愉しいと語っていたという。なるほどと思う。現地でなければ味わえない空気がある。

 司馬遼太郎は周辺部を歩いた。たとえば琵琶湖の周辺とかスペインのバスク地方とか。そのあたりに司馬遼太郎の文化観があると。いったことが話し合われた。

深く広い内容だったが、簡潔に紹介するのは難しい。この様子は4月にNHKで放送される(たぶんEテレ)、それをご覧いただきたい。

 菜の花がステージいっぱいに飾られていた。なんとなく葬式のようでもあるが、ま、追悼忌だからそれでよい。

 司会の古屋さんは元NHKのアナウンサー。今回、著作の一部を朗読した。これがよかった。一級の朗読。さすがである。

2024年1月28日 (日)

『鬼の筆』

 日本を代表する映画脚本家と言えば、橋本忍と笠原和夫の二人を挙げたい。人によって好みはあろうが、五人を挙げろといえば二人は間違いなく入る。

『鬼の筆』はその橋本忍の評伝(春日太一がインタビューをまとめたもの)である。サブタイトルは「戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折」となっている。

「羅生門」「生きる」「七人の侍」と並べただけで、すごい脚本家なんだとわかる。

 橋本忍には『複眼の映像』という自叙伝がある。これを読んだのは20年近く前のことだ。おもしろかった。主要なところは何度も読み返した。

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 黒澤明監督の三作品は、小國英雄、黒澤明、橋本忍で書いている。それぞれの役割があった。黒澤と橋本がまず書く。小國はじっとしているだけ。できあがった原稿を小國が読み、疑問点をあげたり、いくつか指摘する。小國がダメ出しをすればただちに原稿を破り捨て、黒澤と橋本が書き直す。そんな関係だった。

 のちに、三人にだれがどこまで書いたかを問うと、それぞれ違う答えが返ってくる。記憶にズレがある。真相はわからない。「羅生門」の原作である芥川の「藪の中」と重なる。藪の中なのだ。このあたりは興味をそそる。 

 橋本忍はのちにプロダクションをつくる。「砂の器」「八甲田山」などを製作する。

 橋本作品で印象に残るのは回想シーンである。この回想がうまい。「生きる」では最初の方に通夜のシーンがある。ここで主人公の人となりや行動を明らかにしている。映画の全体像がわかってしまうのだが、観客を引きつけるうまい方法である。著者(春日)は回想シーンを入れることで、観る人を説得してしまう橋本の豪腕さを評価している。

砂の器」では、音楽会と父と子の旅と捜査会議を重ねて映し出す場面がある。主題歌「宿命」が流れる。コンサート、刑事たちの動き、父と子のシーンを重ねて映像にしている。ここが感動的なのだ。日本映画の中でもとりわけ傑出したシーンといえる。この部分を競輪のラスト一周、まくりだと、競輪狂でもある橋本は語っている。競輪ファンならよくわかる。

このシーンは「仁義なき戦い 頂上作戦」のラストに匹敵する。印象に残る。

 挫折についてもふれておかねばならない。「幻の湖」がずっこけたことだ。三時間の大作だが、内容がよくわからない。平坦で退屈。歴史的な不入りとなった。大いなる挫折であった。しかし、その後も、脚本を映画化している。

と、ここまで、書いたところで次の予定を思い出した。書き足したいことがあるが、やめておく。

 ついでのひとこと

 紙切りの林家正楽さんが亡くなった。紙切りといえばこの人だった。76歳。アタシよりずっと上かと思っていたら同い歳だった。

 正楽の名跡を継ぐのは林家二楽だろう。そんなに先ではない。

2024年1月 6日 (土)

『悪逆』

 目が悪くなり、本を読むペースが落ちた。長時間の読書も目が疲れる。以前より時間はかけられない。長編小説は読むのをよそうと思うのだが、ついつい手を出してしまう。

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 黒川博行の『悪逆』は550ページを越す。ちょっと前なら1日100ページペースで読んだが、今はダメ。それでも10日ちょっとで読み終えることができるが、そうもいかない。外出などで読めない日もある。年末年始をまたいでようやく読み終えた。

 黒川作品は面白い。バディものが多い。今回は二人の刑事が主人公だが、犯人の動向も織り込んでいる。

 車のナンバーを巧妙に書き換えるところから始まる。犯人は周到に準備し、金持ち宅に侵入する。あらっぽい手段で金の延べ棒の在処を聞き出し、被害者を射殺する。現場に証拠品は残さず、防犯カメラのカードもたたき壊す。拳銃や衣類も見つからぬように捨てる。証拠品はない。

 この犯人をふたりの刑事が追う。手がかりがない。あらたに似たような事件が起きる。被害者に共通するのはまともに稼いだ金ではない。サラ金で不当に稼いだ金、マルチ商法、新興宗教。表に出せない現金や金の延べ棒を秘匿している。これを狙った犯行だった。

 盗ったのはインゴットのない金塊。 換金しなければならない。警察は、そこから犯人像を絞り込んでいく。偽ナンバーもNシステムによる解析から車を特定する。この追及プロセスがおもしろい。最新の捜査技術や紹介され、手抜かりはない。

 二人の刑事の会話は、黒川作品にしてはユーモアは抑え気味。そうしたわけはあるだろうが、ファンとしてはもっとハチャメチャであってもよいと思う。

 この手のものでは、犯人が逃げ切るのを期待することもある。本書もそうだ。

映画なら、逮捕寸前、あるいは逃亡寸前でエンドマークがでるものもある。映画「太陽がいっぱい」のラストのような・・・。と書いてはみたものの、若い人は「太陽がいっぱい」を知らない。

2023年12月26日 (火)

『仁義なきヤクザ映画史』

 ヤクザものは映画に欠かせなかった。1963年から72年まで、東映は235本の任侠映画を製作したという。隆盛を極めた。この頃がピークであった。

仁義なきヤクザ映画史 1910-2023(渡辺彰彦)を読んだ。映画史というからには時系列に書かれているかというとそうでもない。第一章と二章(全十八章)は最近の「すばらしき世界」「ヤクザと家族」「孤狼の血」といった映画である。ヤクザ映画というイメージから外れるものもある。

 映画は社会世相を反映する。暴対法ができて20年以上経つ。ふつうの市民感覚からすると暴対法の運用はちょっとやりすぎの感があるけれど、暴力団が弱体化していったのは事実である。

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 で、さかのぼると、ヤクザ映画は国定忠治や清水次郎長から始まっている。忠治ものは次第に廃れ、次郎長一家ものが盛んに作られるようになった。忠治に子分はいたものの最後は独りになる。次郎長ものは組という組織であって、大政・小政そして石松など発展性というか強い枝葉がある。映画にしやすかった。

 といっても、はぐれもの(一匹狼もの)が廃れたわけではない。独りがもてはやされる時代もくる。長谷川伸の世界がそれで「沓掛時次郎」などは何度も映画化されることになった。テレビでは「木枯らし紋次郎」が人気を博した。

 ヤクザ映画史を俯瞰すれば、個(弧)と組織の繰り返しである。観客は世相を反映するように、あるいは個人の好みで映画館にかけつけた。休日は、映画を観てからパチンコという行動パターンがあった。これは独身男。女性はどうしてたんだろう。

 実録ものがはやった時期がある。戦後の暴力団を描いたもので、実録を謳うからには暴力団幹部にインタビューしたり折り合いをつけたりする必要がある。そこから癒着や葛藤が生まれる。本書ではそのあたりをしっかり書き込んでいる。さらに、在日とか被差別といった人たちを巻き込んでいった経緯も興味深い。

 書き出すときりがない。在日とか被差別問題も取り上げたいがやめておく。本書には、小林旭、中島貞夫、加賀まりこをはじめ何人ものインタビューが載っている。これがおもしろい。

 それにしてもヤクザ映画は廃れた。暴力団の組長が組織を外れてラーメン屋をやるとか、しのぎはシラスの密漁とか、多くが窮地に追い込まれている。これが現状。これではスカッとしたヤクザ映画は生まれない。

 かつてヤクザ映画専門の映画館があった。新宿昭和館。今は、姿を変え、ミニシアターになっている。健さんはいない。

 ついでのひとこと

 27日と28日、BS12で「日本侠客伝」をやる。主演は健さん。

 

2023年12月 2日 (土)

 憂き世 浮き世

死生観を問う』の続き。

 後半で「浮き世」いついて紙面を割いている。

 現世を浮き世という。憂き世と表現することもある。ことばのなりたちからすると、憂き世の方が早い。国語辞典で確かめてみると、憂き世、つらい、はかない世といった意味で使われた。それが浮き世と表現されるようになった。憂きは後退し、享楽的でふわふわしたニュアンスが強くなる。江戸時代に顕著になるが、もっと前、西行(鎌倉時代)にも浮き世的な表現がある。

 浮き世には憂き世の意味も含まれているから、どうのこうのと区別することもない。

 ニヒリズムと似ている。ニヒリズムは虚無主義と訳されることは多いが、それはちょっと違うと考えてきた。ニヒリズムにはダークサイドとサニーサイドがある。

 ダークは虚無でよいが、明るいニヒリズムもある。現世を俗世として受け入れ、明るくふるまう。ときに享楽的で達観したような部分もある。

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 本書のフォロー範囲はひろい。夏目漱石や長谷川伸にも言及しているが、ここではそれは省いて、わたしなりの想いを記しておく。

死後の救済や永遠の生命といった信仰は別にして、永遠とか、はるかかなたの世界を夢見ることで安らぎを感じるとか、幸せでありますようにと念じることで安らぎを憶える。それが、現代的な死生観ではないか。

  本書では、浮き世を表現するものに「閑吟集」の「一期は夢よ ただ狂へ」を挙げている。その狂った先にある虚しさや哀しみをやわらげるものが要るのだろうと思う。

 

2023年11月28日 (火)

『死生観を問う』

 浄土とか常世と呼ばれるものは西の方にあると信じられてきた。西方浄土であり、海の彼方か陸続きかはともかくとして西の方角である。

 なぜ西なのか。おそらく夕陽と関係があるのだろう。夕陽が沈んでいくシーンはなんとも美しい。太陽がわずかに動いていることがわかる。陽は沈み、やがて陽の光は衰え、暗くなっていく。そこになんとなく永遠を見る。浄土とストレートにつながっていくかどうかは個人の思いだろうが、方角としては西だろう。金子みすゞは、昨日流した燈籠は西へ西へと海と空のさかいまでと書いている。

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 島薗進の『死生観を問う』を読んでいる。目が悪くなったので、読むスピードも読書にかける時間も減った。ゆっくりである。この本は朝日新聞の月刊誌「一冊の本」連載されたものをまとめたものである。連載中に読んでいるが、ほとんど忘れてしまっている。記憶に残っているのは少ない。

 詩歌や古典物語を手がかりして、日本人の死や生についての思い、死生観を解説したものである。多岐にわたっているが、本書の趣旨からすると隅っこになるが、ひとつだけ記しておく。

万葉集にある大伴旅人の酒を詠んだ歌である。雑誌で読んだときはこういう歌もあるのかと笑ってしまった。

 この世にし楽しくあらば来む世には虫にも鳥にも我はなりなむ

 輪廻などどうでもよい。酒を飲んで楽しければ来世に蠅になろうが雀になろうとかまわない。さあ、飲もう、といったところか。現世を肯定する。そういう死生観もあるということをこころに留めておこう。

  きょうはここまで。書きたいことはまだある。続きは近いうちに。お勧めの一冊です。

2023年11月16日 (木)

『いまだ人生を語らず』

 四方田犬彦はアタシより5つ若い。しかし、これまでの活動や業績は多岐にわたって深い。本書は、これまでなにをし、なにを読み、なにを考えてきたか、人生の後半を記した随想である。

 思索は著作としてまとめられるが、途中で中断したものも多い。それを紹介している。力不足で書きあぐんでいるうちに時が過ぎていまったと記しているが、そういうものだと思うし、著作は多ければよいというものではない。

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 山折哲雄について記した部分が面白い。山折哲雄は宗教学者である。あるとき、四方田は山折に会いに行く。山折から親鸞を読んだことがあるかと問われた。『歎異抄』だけと答えると「あんな短いものはだめ。死後、弟子がまとめたものにすぎない。『教行信証』を奨めた。五十二歳のときまとめた大著。どんな極悪人でも救済されるなら、どんな条件のもとにおいてかという難問を解き明かそうとしたものだ。

 それから十年。『教行信証』を読み、著作を出して再び会いに行った。すると、親鸞の本当の境地は、八十歳以降に執筆した和讃、妻あてに書いた手紙を読み解かねば親鸞のことはわかりませんとのつれない返事。みごとに肩すかしをくらった。

 これまでの人生で、幸運だったこと、後悔したことを簡単にまとめている。これも面白い。

 重篤な病にかかり大手術をしている。さらりと書いているが、大変だったと思う。本書のタイトルは『いまだ人生を語らず』だが、たっぷり人生を語っている。

 ついでにひとことだけ記しておきたい。気になるのは文体である。

「わたし」が多い。引用すると。

「わたしとはわたしの記憶だ。はたしてそう断言してしまっていいのだろうか。わたしは考えるのだが、わたしの内側にあって、わたしがどうしても考えることのできない部分もまた、強烈にわたしを作り上げているのではないか。わたしはその懸念から自由になることはできない。」

 数行の文章に7つも「わたし」が出てくる。くりかえして読でみると、半分以上「わたし」は不要である。アタシならこんなわたしが繰り返される文章は書かない。けれど四方田はわたしわたしと書く。彼と我のあいだにきちんと線引きをしたいのだろうか、わからない。

2023年11月 3日 (金)

校閲について 二冊の本

 校閲について書かれた本を二冊、図書館で借りて読んだ。

校閲至極』と『本にあたる』。毎日新聞校閲センターのメンバーがもちまわりで書いたものと、単行本の校正に携わる女性が書いたもの。いずれもコラム集である。

 校正と校閲、どう違うか、辞書にあたってもよくわからない。区別しなくてもいいと思うが、校正は印刷されたゲラともとの原稿が違っていないか、誤字脱字などをチェックする。校閲は内容が間違っていないか百科事典を開いたり、専門書で確認したりする。その程度の違いがあるような気もする。

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 雑誌の編集に携わったことがある。校正ではいくつものミスをしでかした。それはともかくとして、当時、出張校正とやらで大日本印刷に月一度出かけた。この場合、出張校閲とは言わない。校正は短時間で済まさなければならない、校閲は広くて深い。多少時間的余裕がある。

 どちらの本も興味深いエピソードで綴られている。おもしろい。そこからひとつだけ紹介しておく。『本にあたる』から。

 原稿と実際の場所(地図で確認した)が違っている。訂正を著者に伺うと、直さないでほしい、自分の記憶の中ではそうなっている。間違いだとしてもそのままにしておいてもらいたいとの返事。「書いたときの流れを尊重してもらってこのままとした」。著者は福岡伸一さん。 

 なるほど、そういうこともあるか。

 ついでのひとこと

 東京新聞の一面コラム「筆洗」に次のようなくだりがあった。

古典落語「反魂香」はおなじみだろう。

  落語マニアならともかく落語ファンは「反魂香」を知らない。寄席で掛かることは少ない。お馴染みではない。間違っている。でも、直すべきかどうかはわからない。著者に訊いてみるしかない。

2023年10月28日 (土)

『日没』

 岩波書店のPR誌「図書」10月号は、桐野夏生の『日没』について3人の文章を載せている。文庫本発売にちなんだ小さな特集である。

桐野夏生の『日没』は読んでなかったし、その本すら知らなかった。岩波は今回の文庫化を新聞広告でも大きく採り上げている。それほどの小説かどうかはわからないけど、その広告に乗せられて読んでみた。

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 マッツ夢井は風俗小説、エロ小説を書いてきた。その小説が政府は気に入らないようで、文化文芸倫理向上委員会から呼び出しを受け、療養所に収監されてしまう。不道徳だとする市民の告発があっての処置ということだ。逮捕ではない。逮捕なら裁判所で審議されるが、収監には法令はない。簡単な尋問があるていどで、もちろん弁護士も介在しない。世の中から失踪したような扱いを受ける。飯はまずい。野菜は萎れたブロッコリーだけ、人間扱いされない。

 収容所での暮らしが続く。理不尽である。逮捕なら逮捕状があり、容疑者の人権が守られるような手だてがあるが、ここではない。世間は、行方不明になったていどの情報があるだけでいずれ忘れ去られていくだろう。

 騒がれないうちに自由がゆっくり狭められ、気づいた時には身動きできないほど精神が縛られていく、そんな社会は恐ろしい。

 ディストピアを描いている。スターリン獄だってもうすこしまともな扱いを受けてシベリア送りになるのだろうが、出口なしである。転向するか自殺するか、都合が悪ければ殺されるか。収容所は崖があって飛び込むのはたやすい。

 読んでいて、息苦しくなった。ハッピーエンドはあるのか。もっと明るい小説が読みたくなる。

 桐野夏生の小説では最初に読んだ『顔に降りかかる雨』が印象に残っている。ずいぶん前だ。作者が女性とは読み終わるまでわからなかった。感性も文体も男っぽい。などと言うと、昨今の風潮、男女差別だと批判されるかもしれない。

2023年10月20日 (金)

『夢ノ町本通り』

 いま、沢木耕太郎の新刊『夢ノ町本通り』をほぼ読み終えたところ。

 本通りはメインストリートではなく、ブックストリート。本にまつわるエッセイである。

 わたしはずっと沢木耕太郎を読んできた。50年以上前の「月刊エコノミスト」に連載ノンフィクションでその名を知った。誠実さと素直さというか、ほどよい緩いさが読んで心地よかった。文章はわかりやすい。ああ、いい書き手だなと感じていた。

 のちに同い歳であることを知った。1970年4月、沢木はたった一日で会社をやめた。こちらは、60半ばまで会社にしがみついた。彼我の差は広がっていった。

 そんなことはどうでもよい。もどって本書。写真は新潮社の雑誌「波」の表紙。本書を特集しているわけではないが、載せておく。

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 山本周五郎について多くのページを割いている。

 沢木は山本周五郎の短編集のアンソロジーを編んでいる。わたしはその文庫本を本屋で見かけたことがある。山本周五郎ならけっこう読んでいるので、この文庫本を手にすることはなかったが、沢木が山本周五郎の大ファンであることがわかった。

 たぶん本書に収められているのは、その文庫本の解説ではないかと思う。本書には初出一覧が載っていないからわからない。これは出版社として不親切である。それはともかくとして、かつて短編を読んでいるからといって、しっかり覚えてはいない。大半は忘れてしまっている。

 もういちど読み返したいものもある。沢木は、「松の花」に登場するやすを「一丁目一番地のひと」としている。一丁目一番地とは、中心であり、基本になる女性ということだ。

「松の花」は『日本婦道記』に納められている。いまどきの感覚からすれば古くさい、男女差別があるなどと批判されるような部分がある。が、これが歴史であり、そういう道徳律があることも知っておいたほうがよい。

 読みたいと思った本がある。『死のクレバス』。山岳ノンフィクションである。もしこの本を読まなかったら、『』を書くことはなかったと書いている。ふーん、そうなのか。生と死、そして選択といったものがテーマになっているらしい。

 

 

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