無料ブログはココログ

言葉

2026年1月 9日 (金)

ゴシゴシ、シャカシャカ シャコシャコ

 歯を磨く音はどう表現したらよいか。

 口にくわえるだけで歯が磨ける自動歯磨きが発売さるたとの新聞記事があった。毎日新聞の見出しは「ロボが歯をゴシゴシ」とあった。ゴシゴシには違和感がある

 ゴシゴシでは強すぎる、タワシで磨いているようなイメージ。歯の表面や歯茎を痛めてしまうのではないか。マンガで、シャカシャカとしていたのを読んだことがある。こっちのほうがよい。

260108115525448

 わたしはちょっと高い練り歯磨きを使っている。茶渋のような汚れがとれると、歯科衛生士に勧められて試供品をもらった。ブランド名はアパガード。ステイン(よごれ)がとれるような気がする。あらためてドラッグストアで買った。これが1000円以上する。練歯磨きにしては高すぎる。でも、汚れがとれるなら、それほど高いわけではない。しばらくしてピカピカになった。きれいになったと歯科衛生士にほめられた。

 ということで、後期高齢者とは思われないほどの若々しい歯になっている。健康面でほめられるのは口の中だけだ。

 朝夜、気持ちよく磨いているわけだから、音はシャカシャカだろう。他のオノマトペをさがしてみたら、シャコシャコがあった。こちらのほうがいいか。優しく磨いているような感じがする。少女が磨いているような・・・。

2026年1月 3日 (土)

ドッペルと粗忽長屋

  落第(留年)することをドッペると言う。学生のころ、よく使った。いまどきの学生が使うかどうかはわからない。落ちる、下降するといった意味だと思ってきた。

 ここ数年、ドッペルゲンガーということばを聞くようになった。留年のドッペるとは関係あるのか。たぶん、その派生語だろうと理解した。ところが、意味を調べてみると違う、

自分と同じ姿形の人物を見ること。自己像幻視。また、同時の場所で目撃される同一人物。」と新明解国語辞典にある。全然違う。語源的にも違うようだが、よくわからない。

260102124735607

  すこし考えてみた。ドッペルには二重という意味もある。落第なら二度同じ学年を繰り返すから二重。ああ、そうか、ドッペルとは英語だとダブルになる。ドッペルゲンガーは、自分自身に出会う、自分が幻覚的にあらわれることをいうのだから、二重、ダブルとなる。わたしは経験したことがないけど、そういう精神作用を言う。

  ここで、一転して落語のはなし。「粗忽長屋」という有名な噺がある。仲間から、お前の行き倒れの死体があるから引き取りに行けと言われる。わけがわからないけど、行ってみて、遺体を見ると確かに自分のようだ。遺体を抱き上げ、「確かにお前は俺だけど、抱いてる俺はいったい誰なんだろう」というのがオチ。ちょっとシュール。見事なオチである。

  そんなことを思い出した。これもドッペルゲンガーの一種じゃないかと、精神学者に訊いてみたい。どのように解説してくれるのだろうか。

2025年12月28日 (日)

 捨て鉢になるにはあまりにも・・・

 自暴自棄になることを「捨て鉢になる」という。投げやり、破れかぶれと同類である。にっちもさっちもいかなくなってどうにでもなれというという気持ちを表す。

 なぜ、鉢を捨てるのだろうかと、疑問が浮かんだ。調べてみると、いくつかいわれがある。

 修行僧が托鉢につかう鉢を捨てることからきているという。厳しい修業をギブアップしてしまう。

 もうひとつは、鉢は果つが変化したもの、やけっぱちのぱちと同じ。これに捨てるがついて、意味を強めた。

 ふーん、そうかと半分納得するが、半分は腹に嵌まらない。

251227130443014

 こんどは、チャットGPTに訊いてみる。

 捨鉢(シャハチ ステバチ)。修行僧が食べ物も命への執着さえ捨て、もはや托鉢の鉢すら不要と覚悟する境地。

  がけっぷちに立つ、究極の覚悟を意味している。こちらのほうが深い。説得力がある。

 それが、やけっぱちになるまでには、かなりの飛躍があると思うが、そのあたりはよくわからない。

すてばちになるには余りにも明るすぎる」という歌謡曲の一節を思い浮べる。タイトルは「銀座の雀」。森繁久彌や加藤登紀子が歌った。

 この歌、捨て鉢になるなと歌う。「赤いネオンのあかりさえ 明日の望みにまたたくのさ」と。希望を持とう、ということだ。

2025年10月12日 (日)

古老って、何歳から

 地域史の勉強グループに所属している。古文書を読んだり(私は読めないので教えてもらうだけ)、古老から話を伺ったり(オーラルヒストリー)するのが主な活動である。

 ちょっと気になった。古老と書いたが、古老とは何歳ぐらいからを言うのだろうか。けっこう年配を指す。イメージとしては80歳以上か。70代は古老には入らないような気がする。

 思い出したのが、初老。これについては以前書いたことがある。「新明解国語辞典」の初版(1972年)では「ふつう50歳前後を指す」と書いてあった。それが第四版あたりから「60歳前後を指す」に変わった。10歳引き延ばした。編集者の実感を反映している。まあ、妥当である。現在の第8版も同様である。

251010165554972

 「新明解」で古老を引いてみる。

 昔のことを知っている老人

 なるほど、うまい語釈だ。年齢を指しているわけではない。昔のことをよく知っている、生き字引のような老人を指す。年齢ではないけれど、老人でなければならない。あたりまえだが。

 若い人は知らないだろうが、と前置きしてしゃべることが多くなった。

 むかしの記憶が思い起こせないことが多くなったが、いざとなればスマホが助けてくれる。それなりの、いい加減な知識もあるけれど、昔のことなら語れる。

 まもなく、わたしは古老になる。

2025年9月28日 (日)

溶かす

 ギャンブルで負けることを、溶かすとか、とろかすと聞くようになった。

「一時間で8万円、とろかしたわ」など、金額が伴なって使われる。雪のように溶けてなくなるの意味である。ちょっと前までは聞かなかった。

 国語辞典を引いてみる。この意味は載っていない。新しい言葉や表現を積極的に採録している「三省堂国語辞典」にも載っていない。よく見たり耳にするので、次の改訂版ではたぶん採録されるだろう。

250926160622868

 溶かしても溶かしても止められないのを、ギャンブル狂とか、ギャンブル中毒、ギャンブル依存症とかいう。きちがいもあるが、マスコミでは使用禁止用語なので表立っては使われない。略して、キチ。「釣りキチ」ぐらい。なぜか「釣りキチ」はそれほどいけないこととは響かない。「釣りばか」もそうだ。漫画のタイトルだから、淫しても世間的には許されるようだ。

 わたしは、活字中毒気味だった。外出しても何か読んでいないと不安になった。必ず雑誌とか文庫本を携行した。本を開かないことが多かったが・・・。

 齢老いて目が悪くなったこともあり、読書時間は減った。集中力が減じた。読んでも、あたまに入らない。とろけるのは記憶である。

2025年7月18日 (金)

聞き違い

 耳が遠くなったわけではないけれど、聞き違うことが多くなった。老化のひとつか。

 相手がシュウマイの話をしていると思ったら、新米だった。シュウマイシンマイ、似ているけど、むかしは聞き違うようなことはなかった。

 こんな聞き違いをスマホのメモ帳につけるようにしている。以前、拡声器が核兵器に聞こえたことを当ブログに書いたが、それ以降である。

250717161445889

 マスタードがバスタオルに聞こえたことがある。字づらを追えばそれほど似てないけど。なぜかバスタオルに聞こえる。イントネーションが似ているからだろう。料理番組を見ていて、すりおろしたものが、じゃがいもなのか山いもなのか、わからないこともある。まぎらわしい。ま、漫才のネタになるかもしれない。

 こうした現象を、ことばに雲がかかっていると言う。齢とともに雲は濃くなっていく。

 もうひとつ。今朝、「御の字だ」を「おんなじだ」と聞き違えた。

 もう日常茶飯事である。

 

2025年6月12日 (木)

 べらぼう

 井上ひさしの『手鎖心中』を読み返した。50年以上前に読んだものだからほとんど憶えていない。ああ、そんなストーリーだったかと記憶はほとんど蘇らない。

 読み返したのは大河ドラマの「べらぼう」である。大河ドラマと重なる小説だからだ。こまかなことは省くが、山東京伝は60日の手鎖の刑をうけた。蔦屋重三郎は財産の半分を没収された。『手鎖心中』の主人公は戯作者になりたくて、自ら進んで手鎖となった。たった3日だったが。

 もっと大河ドラマのストーリーと重なるかとおもっていたが、そうでもなかった。

250607121718381

「べらぼう」の語源は、ご飯をヘラでのばして糊にするところからきている。ヘラでご飯をつぶすから穀つぶしと同じ。そんな蔑称。罵倒のことば。へらぼうでは軟弱だから、それを濁音にして「べらぼう」とした。

井上ひさしの文中では、「このべらぼうめ」を「こんべらばア」と江戸の言葉はせわしなく暑苦しいと書いている。「べらばア」である。

 江戸ことばに、「べらんめえ」がある。これも同じ語源である。

2025年4月23日 (水)

草W

「草w」という表現をご存じだろうか。若い人は知っている。高齢者は知る人は少ない。

 多くはインターネット上で使われる。笑いの意味。

「新明解国国語辞典 第8版」には載っている。

{俗に}笑い。ネットなどの書き言葉で(笑)い=waraiの略としてWが用いられ、それを並べると草や芝のように見えることから

250417152300677

 国語辞典に載っているとは知らなかった。同じく「三省堂国語辞典 第8版」にも載っている。こちらには「2010年ごろから」とある。かなり前から使われていたようだ。

 笑いを w とし。それをwwwとすると、草が生えているようにみえる。で、草にwをくっつけて「草w」 と表現するようになった。SNSを使わない人は何のことかわからないし、違和感を抱く。

 雑誌などの対談で、笑う表現を(笑)とすることが多い。これを「草w」 としたらどうなるのだろうか。最近、一例だけ見かけたが、例外だろう。でも、これからはどうなるかわからない。こういう表現は、SNS内にとどめて置いてもらいたい。

 ところで、草は植物以外で、民の意味で使われてきた。民草草莽などがそれ。名もなき民の群れを指す。

 

2025年3月30日 (日)

ふとしたゆらぎ

 宇宙物理学者の佐治晴夫さんは、宇宙の始まり、ビッグバンを次のように表現している。

「ふとした小さなゆらぎから、突如、火の玉が爆発するようにこの宇宙がうまれた」(続・宇宙のカケラ)

 ふとしたゆらぎなのだ。ふとしたとは、思いがけなくとか、ちょっとしたといった意味で、突然と言うときつすぎる、ふんわり、さりげなくといったニュアンスを感じる。

 宇宙の始まりをビッグバンということは知っている。ゆらぎが生じたからも知っている。

 でも、なぜとなると、そう表現するしかないのかもしれない。

250328150946264

ふとした病」を思い浮かべる。立川談志はこの表現を好んだ。脳梗塞とか心臓発作とかでなく、ちょっと病んであっけなく亡くなる。人知れずということもある。さりげなく現世におさらばする。談志はそんな死に方を望んでいた。実際はそうはならなかったけど。

 ふとした病、その病名を詮索するのはヤボである。宇宙のふとした揺らぎの原因を探るのもヤボかもしれない。神のきまぐれな差配としておこう。 

 ついでのひとこと

 写真は、ふと目を止めた花。ツツジのよう。が、ツツジにはまだ早い。スマホをかざして名前を読み取ろうとするが、決めかねている。ツツジのようなそうでないような。早咲きのツツジとしておこう。

2025年3月20日 (木)

 ルビ

癲狂院日乗』を読んで、車谷長吉の文章の、地を這うような妖しい雰囲気をあらためて感じた。念仏のようでもある。癖になる。で、『赤目四十八瀧心中未遂』を読み返した。

 ルビが多い。

 に「まち」とルビが振ってある。文春文庫の4ページには、4カ所の「市」がある。ふつう「まち」と読ませるなら、街か町である。それを「市」としているのは、車谷のこだわりである。

 関連して、市中はどう読むのがよいのか。市中引廻しは「しちゅう」と読むのがふつうである。だが、江戸時代は、まちなかいちなかとも読んでいた。どれでもよい。絵双紙に「しちう」と仮名が振ってあるものを見たことがある。

 しちゅうが優勢のようにも思えるが、俳句では、しちゅうとは詠まない。「まちなか」か「いちなか」である。夏目漱石に市中の俳句があったのを思い出した。調べてみたらすぐ見つかった。

 市中に君に飼はれて鳴く蛙

『四十八瀧』にもうひとつ興味を引くルビを見つけた。

 生霊に「いきすだま」と「いきりょう」のルビが振ってある。同じページ(p.104)にである。この使い分けが妥当か繰り返し読んでみたが、よくわからない。著者には意図があったのだろう。

 いきすだまのほうがいきりょうより呪いが強いようにも思う。六条御息所の生霊をちょいと思い出した。

250319082220442

 ついでのひとこと

  昨日の朝 新百合ヶ丘でも雪が降った。今年は、ちらつく程度しか降らなかったのに積もるような雪になった。ちょいと外に出ただけなのに傘は白くなった。

 我が雪とおもえば軽し傘の上  其角だっけ。

より以前の記事一覧