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言葉

2025年6月12日 (木)

 べらぼう

 井上ひさしの『手鎖心中』を読み返した。50年以上前に読んだものだからほとんど憶えていない。ああ、そんなストーリーだったかと記憶はほとんど蘇らない。

 読み返したのは大河ドラマの「べらぼう」である。大河ドラマと重なる小説だからだ。こまかなことは省くが、山東京伝は60日の手鎖の刑をうけた。蔦屋重三郎は財産の半分を没収された。『手鎖心中』の主人公は戯作者になりたくて、自ら進んで手鎖となった。たった3日だったが。

 もっと大河ドラマのストーリーと重なるかとおもっていたが、そうでもなかった。

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「べらぼう」の語源は、ご飯をヘラでのばして糊にするところからきている。ヘラでご飯をつぶすから穀つぶしと同じ。そんな蔑称。罵倒のことば。へらぼうでは軟弱だから、それを濁音にして「べらぼう」とした。

井上ひさしの文中では、「このべらぼうめ」を「こんべらばア」と江戸の言葉はせわしなく暑苦しいと書いている。「べらばア」である。

 江戸ことばに、「べらんめえ」がある。これも同じ語源である。

2025年4月23日 (水)

草W

「草w」という表現をご存じだろうか。若い人は知っている。高齢者は知る人は少ない。

 多くはインターネット上で使われる。笑いの意味。

「新明解国国語辞典 第8版」には載っている。

{俗に}笑い。ネットなどの書き言葉で(笑)い=waraiの略としてWが用いられ、それを並べると草や芝のように見えることから

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 国語辞典に載っているとは知らなかった。同じく「三省堂国語辞典 第8版」にも載っている。こちらには「2010年ごろから」とある。かなり前から使われていたようだ。

 笑いを w とし。それをwwwとすると、草が生えているようにみえる。で、草にwをくっつけて「草w」 と表現するようになった。SNSを使わない人は何のことかわからないし、違和感を抱く。

 雑誌などの対談で、笑う表現を(笑)とすることが多い。これを「草w」 としたらどうなるのだろうか。最近、一例だけ見かけたが、例外だろう。でも、これからはどうなるかわからない。こういう表現は、SNS内にとどめて置いてもらいたい。

 ところで、草は植物以外で、民の意味で使われてきた。民草草莽などがそれ。名もなき民の群れを指す。

 

2025年3月30日 (日)

ふとしたゆらぎ

 宇宙物理学者の佐治晴夫さんは、宇宙の始まり、ビッグバンを次のように表現している。

「ふとした小さなゆらぎから、突如、火の玉が爆発するようにこの宇宙がうまれた」(続・宇宙のカケラ)

 ふとしたゆらぎなのだ。ふとしたとは、思いがけなくとか、ちょっとしたといった意味で、突然と言うときつすぎる、ふんわり、さりげなくといったニュアンスを感じる。

 宇宙の始まりをビッグバンということは知っている。ゆらぎが生じたからも知っている。

 でも、なぜとなると、そう表現するしかないのかもしれない。

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ふとした病」を思い浮かべる。立川談志はこの表現を好んだ。脳梗塞とか心臓発作とかでなく、ちょっと病んであっけなく亡くなる。人知れずということもある。さりげなく現世におさらばする。談志はそんな死に方を望んでいた。実際はそうはならなかったけど。

 ふとした病、その病名を詮索するのはヤボである。宇宙のふとした揺らぎの原因を探るのもヤボかもしれない。神のきまぐれな差配としておこう。 

 ついでのひとこと

 写真は、ふと目を止めた花。ツツジのよう。が、ツツジにはまだ早い。スマホをかざして名前を読み取ろうとするが、決めかねている。ツツジのようなそうでないような。早咲きのツツジとしておこう。

2025年3月20日 (木)

 ルビ

癲狂院日乗』を読んで、車谷長吉の文章の、地を這うような妖しい雰囲気をあらためて感じた。念仏のようでもある。癖になる。で、『赤目四十八瀧心中未遂』を読み返した。

 ルビが多い。

 に「まち」とルビが振ってある。文春文庫の4ページには、4カ所の「市」がある。ふつう「まち」と読ませるなら、街か町である。それを「市」としているのは、車谷のこだわりである。

 関連して、市中はどう読むのがよいのか。市中引廻しは「しちゅう」と読むのがふつうである。だが、江戸時代は、まちなかいちなかとも読んでいた。どれでもよい。絵双紙に「しちう」と仮名が振ってあるものを見たことがある。

 しちゅうが優勢のようにも思えるが、俳句では、しちゅうとは詠まない。「まちなか」か「いちなか」である。夏目漱石に市中の俳句があったのを思い出した。調べてみたらすぐ見つかった。

 市中に君に飼はれて鳴く蛙

『四十八瀧』にもうひとつ興味を引くルビを見つけた。

 生霊に「いきすだま」と「いきりょう」のルビが振ってある。同じページ(p.104)にである。この使い分けが妥当か繰り返し読んでみたが、よくわからない。著者には意図があったのだろう。

 いきすだまのほうがいきりょうより呪いが強いようにも思う。六条御息所の生霊をちょいと思い出した。

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 ついでのひとこと

  昨日の朝 新百合ヶ丘でも雪が降った。今年は、ちらつく程度しか降らなかったのに積もるような雪になった。ちょいと外に出ただけなのに傘は白くなった。

 我が雪とおもえば軽し傘の上  其角だっけ。

2025年1月 5日 (日)

 谷川俊太郎 ふたつの詩

 年末、谷川俊太郎のアーカイブ番組をいくつか観た。

ぼく』という絵本の制作過程を描いたドキュメンタリーが印象に残っている。谷川さんの要望で絵を描き替えたりして、絵本の完成まで時間をかける。そのやりとりは面白かったが、それ以上に、自殺防止センターのベテラン相談員のことばが深かった。

「ぼくはしんだ じぶんでしんだ」という少年の自殺がテーマになっている。女性の相談員は、「わかる」とは言わないようにしていると語っていた。

 相手の気持ちに沿うように、わかるわ、と共感のことば発しがちになるが、それは違うというのだ。自殺しようとする人は、生と死のはざまでもがき苦しんでいる。せっぱつまって防止センターに電話をしてくる。それを聴きながら、薄っぺらな共感のことばを発してはならないということだろう。

 では、どう対応したらよいのか。番組はそこまで映してはいない。わたしにはわからない。どう答えたよいかわからない。番組を観てから、ときどき考えるのだが、うまく整理することはできない。ネガティブ・ケイパビリティということばが浮かぶ。

 フランクル、あの『夜と霧』の著者のことばを思い出す。フランクルは、自殺したい人に問う。問いはふたつ。あなたが死ぬと悲しむ人はいるか。やり残したことはないか。

 記憶はあやふやだが、たしかそう問うことで、フランクルは自殺願望者に対処した。

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 さて、もうひとつ谷川俊太郎ネタ。こちらは明るい。

 新潮社の「波」の一月号の「編輯後記」に谷川さんの詩の一部が載っている。「なんでもおまんこ「。へー、こんな詩も書いていたんだ。

 その一部、「なんでもおまんこなんだよ/あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ/やれたらやりてえんだよ/おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな」

 あけすけで明るい。このあとどう続くのかわからない。

 いま、このことばをつかうとひんしゅくを買う。でも、いいじゃないか、おおらかで。

 落語家の快楽亭ブラックは、いつも使っている。平気である。マイナーな寄席だから誰も文句をつけない。むしろ喜んで聴いている。おおらかで、よい。

 

2024年11月30日 (土)

はずい

 ことばは省略される。

「お求めになりやすい」が「お求めやすい」になって久しい。言いにくいからそうなるのは理解できる。今では、むかしは「お求めになりやすい」だったことを知らない人がほとんどとなっている。

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むずい」が「むずかしい」の省略と知ったときは驚いた。むずがゆいの意味と思っていたら、これが「むずかしい」のこと。そりゃおかしい。幼児がつかうのはよいが、大人がつかうのは変。ところが若者は平気でこの「むずい」を使う。アホかと思うが、だれも文句をつけない。

 テレビで「はずい」を聞いた。話の前後で、これが「恥ずかしい」の意味だとわかった。私はついていけない。

 就活とか婚活とか終活はわかるとしても、「恥ずい」はなかろう。若い人に「恥ずい」をつかうかと訊いてみた。聞くことはあるとの返事。使うことはあるかと訊くと、つかうことはないとのこと。

「すがすがしい」が、いずれ「すがい」などと表現されるようになるかもしれない。でも、スガイではあまり清々しくないかもしれない。

 

2024年10月 4日 (金)

CIVIL WAR

 映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」が封切られた。まだ観ていない。

 アメリカに内戦が勃発したという近未来の話である。国内の分断化が問題となっている現状をヒントにしたものと思われる。

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 civilとは、市民とか公共のという意味であるが、civil warとなると内戦を意味する。大文字でthe IVIL WARと表記すれば、アメリカの南北戦争を指す。

 スペインの内戦を、スペイン市民戦争と訳することが多いが、civilに引きずられて市民と表現する必要はない。スペイン内戦でよい。

 ついでにいうと、civil をどう翻訳するかは工夫がいる。たとえば civil engineering は、土木と訳するのが正しい。土木事業とか土木工学。公共のと意味合いである。

 話はちょっと飛ぶ。プーチンはウクライナ侵攻を、特別軍事作戦と名付けている。ウクライナとの戦争ではないと言いたいらしい。その根拠をさぐれば、汎スラブ主義、大ロシア主義に行きつく。あそこは元々ロシアの領土であって、それを取り戻すだけ。ロシアの領土内での戦いだから、いわば内戦、奪回軍事行動だと言い張っているのだ。

 その根拠は薄いが、プーチン以下汎スラブの信奉者はそう考えているらしい。内戦。civil war だから第三国はだ黙っとれ! というわけだろう。

 今、ウクライナは軍事的に劣勢であるようだが、ゆくえはわからない。停戦の兆しはない。戦争は長引くように思われる。

 

 

2024年6月14日 (金)

老聴の始まり

 耳がわるくなった。

  耳が遠くなったわけではなく、感度が鈍くなった。

  よくある例だと、ガザ地区が足立区に聞こえるような感度である。

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  北朝鮮がフンだのごみを積んだ風船を南に向けて飛ばした。対抗措置として韓国は拡声器による北への宣伝活動を再開させた。ぼんやりテレビを見ていたら、核兵器を配備したと聞こえた。驚いて、思わず腰をあげた。聞き違いだった。拡声器と核兵器、漢字で書くとまったく別ものだが、カナで書くとカクセイキとカクヘイキ、一字しか違わない。似ている。

 聴覚が若々しく敏感だったら、聞き違えることはない。歳だ、加齢だ。これも老聴というか難聴の始まり。

 ウサギとウナギを聞き違えたこともある。うさぎパイとうなぎパイ。

 ラジオを聴いていたら、仙台のだれだれと出てきた。しばらくして先代のだれだれだと分かった。仙台と先代は、カナは同じだが、アクセントが違う。それを平板に発音されたり、アクセント違いをされたりすると、こちらは聞き違いをしてしまう。これは老聴とは関係ないけど。

2024年5月 3日 (金)

野良グッピー

 野良グッピーというネット記事を見つけた。

 道路わきの溝で大量のグッピーが生息しているという。沖縄でのことだ。水槽で飼われていたグッピーを側溝に捨てたらしい。グッピーは熱帯魚だけど死なずに生き延びている。側溝を網ですくうと何十匹も獲れる。温暖化のせいだろう。多摩川にもグッピーが生息していると聞いたことがある。

 温暖化はさておき、生息する魚を「野良グッピー」と表現するのに引っかかる。野良といえば野良ネコか野良イヌしか思い浮かばない。野良グッピーが普通の表現となれば、多摩川あたりで大量に舞う外来種のインコは野良インコとなる。千葉のキョンも野良キョンとなる。

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 国語辞典で「のら」を引いてみる。新明解国語辞典。意外なことに最初に出てくる語釈は、ノラ猫とかノラ犬の「のら」ではない。 

  定職が無く遊び暮らすだけで、社会的には歓迎されない状態(にある者)

 不逞の輩。こういう意味でつかうことはほとんどない。

 のらは野良と漢字をあてる。もともとは畑、野原を意味した。野良仕事、野良着といった形で使う。その「のら」がおなじ発音である不逞の意味の「のら」と重なった、そう考えてよいのか。不逞ののらは「どら」と置き換えることができる。どら息子、ね。

 野生化したグッピーを野良グッピーと表現するのには抵抗があったからちょっと調べてみただけのこと。外来種だといって騒ぎたてることはない。メダカを追いやっているとの話もあるが、さて、どうか。

 狸や鳥のエサとなるから増えすぎることもなかろう。

2024年4月 7日 (日)

明鏡止水

 ひさびさに明鏡止水なることばを耳にした。

 自民党の裏金問題で、世耕議員が離党勧告をうけ、すかさず離党届を出した。いまの心境を問われ、「明鏡止水」だと答えた。

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 なんとも古臭いことばだが国語辞典には載っている。「新明解国語辞典第八版」にはこうある。

 心の平静を乱す何ものも無い、落ち着いた静かな心境。〔不明朗なうわさが有る高官などが。世間に対して弁明する時などによく使われる〕

 よく使われるってことはないけれど、宇野さんが首相を辞める時も明鏡止水を使ったのを思い出す。心穏やかでないけれど(心の中ではいらだっているが)、平静を装う。 大人げないふるまいはできない。で、明鏡という表現になる。心境を察するに余りある。

 振り返って、わが身。明鏡止水の心境からは程遠い。うるさい音に囲まれ、雑念が次から次へと涌いてくる。邪念も。 

 国語辞典に「明鏡国語辞典」がある。こちらは、何の邪念もなくうんぬんと普通の語釈。それでいいのだが、ちょっとものたりない気がしないでもない。

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