まちがっているかもしれない
哲学に可謬主義という考えがある。簡単に言うと、あらゆる理論は誤っているかもしれない。間違っていないかどうか、検証しなければならなし、反論には、きちんと反証しなければならない。しごくまっとうな考えである。可謬主義は反証主義ともいう。
絶対正しいということはありえない。ニュートンの万有引力もいつでもどこでも正しいわけではない。アインシュタインの相対性理論がその隙間をついた。
この可謬主義を俗っぽく実社会に反映させてみると、誰もが間違う。間違っていないなら、きちんと反証しなければならないということである。
なぜこんなことをもちだしたかというと、昨年、ようやく結審した袴田事件である。
検事総長のことばに違和感を抱いた。謝罪ではなかった。犯人は袴田被告に間違いはない。証拠には自信がある。検察が証拠をねつ造したという判断には不満がある。捜査に誤りがなかったけど、長く拘留され、裁判が長期に及んだことを考慮して上告をとりやめることにした。そんな趣旨だった。
強引に犯人に仕立て上げたという疑いもあるが、それは置いといて、間違っていたとは口が裂けても言えないらしい。長くなったから、ま、このぐらいにしたいとるわ、といったところ。だから謝ることもなく、上告を断念した、無念であると。
検事総長の発言からしばらく経ったが、こころのなかにこの発言がくすぶっているので、あらためてブログで書くことにした。
みずからの組織は無謬である。無謬でなければならないから無謬であると言い張るっているのだ。謙虚さが欠落している。
大河原化工機事件にもそんな匂いがする。検察の暴走だが口が裂けても間違っていたとは言えないらしい。これではふたたび同じような過ちを犯すのではないか。
過ちは誰もが犯す。誰だって間違う。間違いと指摘されたら、謙虚に検証する。反証できなければ間違っていると答える。
大仰に、正義を問うているわけではない。間違いはある。それに気づいたら素直にただすなり、謝ればよい。それだけだ。