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歴史

2024年11月10日 (日)

「十一人の賊軍」

  白石和爾監督の「十一人の賊軍」を観てきた。

 脚本家の笠原和夫が残したシノプシス(あらすじ)をもとに脚本にしたという。脚本は映画会社の対応に腹を立てた笠原がみずからのシナリオを破り捨ててしまったので幻となっていた。残されたシノプシスをもとにシナリオにした。いわば、笠原和夫へのオマージュ作品なのだ。

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 時代は戊辰戦争。薩長連合軍は長岡から新発田に向かった。新発田藩は会津と同盟を組んでいたが、なんとか薩長軍をやり過ごしたいと考えていた。藩は揺れる。城下が戦乱に巻き込まれるのは何としても避けたい。このあたりの歴史はややこしい。罪人(山田孝之仲野太賀たち)を決死隊として戦わせることで薩長の進軍を遅らせようとした。

 映画は、壮絶な斬りあいシーンを描く。流れるテーマは、そそのかし裏切り。つまり「仁義なき戦い」の世界と同じなのだ。メンツを重視し、戦う姿をみせながら、首をすくめる。

 ほうろく玉を投げて爆発させるなど、アクションは迫力があるのだが、画面が暗い。夜のシーンが多いせいもある。もうすこし明るく撮ってもらいたかった。見えないのは、こちらの目が悪くなったこともあるかもしれない。

 といったことで、そそのかし、あげくは罪人たちを殺してしまうという仁義なき藩の政略を描いている。生き残るため、小国はこうするしかなかったという物語でもある。

 家老(阿部サダヲ)は長岡のようにならなかったことに満足するのである。

 

2020年2月14日 (金)

登戸研究所  「雑書綴」の展示

 登戸研究所に行ってきた。

 ご存じだろうが、ここでは戦前、毒物・化学兵器の研究、風船爆弾の開発、偽札製造などが秘密裏に行われてきた。終戦によりその資料は消却・破壊されたので(桜を見る会の名簿をシュレッダーにかけるようにと形容してもよいのだが)、活動資料はほとんど残されていない。

 ところが、30年ほど前、そこで働いていた女性(和文タイピスト)がタイプ資料を持ち出していたことがわかった。極秘の文書ではなく、日常の、たとえば依頼文書などを「雑書綴」としてまとめて保管していた。登戸研究所の闇の部分(ほとんどが闇の中だったが)を明らかにする貴重な資料となった。

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 登戸研究所資料館は、小田急線生田駅から徒歩で15分ほど、坂道を登ったところ、明治大学生田キャンパスの敷地内にある。

 話はちょっと飛ぶ。数年前、ここで働いていた高齢女性の話を伺ったことがある。麻生区岡上に住むその女性は、挺身隊として登戸研究所で働くことになった。ひたすらミシンを踏む作業。職場の雰囲気はよかったが、ここで働いていることを人に話してはいけない、家に調査が来て、どこで働いているかと問われても、知らない、わからないと答えるようにと釘を刺されたそうだ。また、自分の職場以外の建物に立ち入ってはならないと、きつく言われたが、給料はほかで働くよりもよかったそうだ。

「雑書綴」の女性もそんな雰囲気の中で働いていたのだろう。

 この資料については、いずれ図録や研究書籍として発表されることになるとのことである。

 ついでのひとこと

ここでは風船爆弾の模型(1/10程度)も展示されている。むかしその仕組みを調べたことがある。あれは、単純にして精巧なからくりである。もちろん電動ではない。

風船は紙でできている。何枚もの和紙をこんにゃく糊で貼り合わせたもの。触ると丈夫な布のようである。 

2019年11月 1日 (金)

黒人奴隷 400年の歴史

 アメリカの一部の教科書に、黒人はアフリカから移民労働者としてアメリカにやってきたと記述するものがあると、ワイズマンの「ニューヨーク公共図書館」で知った。奴隷じゃなくて移民ではずいぶん印象が違う。歴史をゆがめている。ま、歴史を都合よくゆがめた教科書はどの国にもあるけれど、それはさておいて。

 アフリカから初めて黒人が奴隷としてアメリカに連れてこられたのは1619年8月だそうだ。ちょうど4百年前になる。日本だと家康が亡くなり二代将軍秀忠の時代になった頃だ。

 奴隷制度をめぐって南北戦争が起きたのは1861年。その翌年がリンカーンによる奴隷解放宣言である。250年ぐらい奴隷として扱われたことになる。しかし、奴隷の実態が変わったわけではない。その後も差別はずっと続いた。

 黒人奴隷と言えば、綿花を摘むシーンを思い浮かべるが、それは労働のひとつにすぎない。摘まれた綿花は糸にされ、織られて縫製される。その過程でも主要な労働力となった。産業革命以後、紡績工場はフル操業となり、夜間も操業された。電球はまだない。エジソンが電球を発明したのは19世紀末。その間はランプだった。灯し油は鯨油。北アメリカで石油が発掘されるまでは鯨油が主な灯りの原料だった。

 徳川時代の後期、日本近海にクジラのあぶらを求めてアメリカの捕鯨船が頻繁にやってきたのはご存知だろう。それが幕末の開国につながった。

 アメリカの教科書の話題から、黒人奴隷の歴史をちょいと振り返ってみた。過酷な長時間労働を強いられたのは産業革命下のヨーロッパだけでなく、アメリカもそうだった。

 ところで、アメリカの新20ドル札の肖像画(写真)が黒人女性になると発表されていたが、新札の発行が延期されることになった。理由は不明。取り消しになったわけではない。 

その女性はハリエット・タブマン。奴隷解放に尽力した。奴隷制のある南部から北部に逃れたが、南部に戻って黒人奴隷の北部への脱走に力を尽くした。

 ネットを見ていたら、新札の想像図が載っていたので、転載してみた。

Harriettubman1  ところで、クンタ・キンテって、知ってる? 知らないか。ま、知らなくてもいいや。 

 

2018年2月16日 (金)

 丸山教の歴史

 

 小田急線(南武線)登戸駅近くに(向ヶ丘遊園前からのほうが近い)、丸山教の本院がある。

 むかし、ときどきその前を歩いていた。丸山教という宗派の名前は知っていたが、どんな宗教なのかは知らなかった。明治期には宗徒百万人を越す大きな組織だったと聞かされた。すごい数だ。ちょっと調べてみた。写真は本院。

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  冨士講を基にしている。細かなことは省くが、地道に信仰の道を歩んでいたが、明治政府による神仏分離などの宗教政策により、淫祠邪教として丸山教(まだ教とまでは至っていなおらず、丸山講といったほうが正しい)の教祖は拘引された。信心放棄を強要されるが、他の宗派と一緒になることで宗教活動が公認され、登戸に丸山教会本院を置いた。以後、信徒は増えていった。まじめで地道な宗教である。

 明治16、7年の不況(いわゆる松方デフレ)で地域の農民は苦境に立たされることになった。農産物価格の下落(たとえば繭は60%ほど下がった)により食い詰める農民が多発した。

多摩地域の農民は政府の政策、富国強兵策などに反発し、反政府的な立場をとるようになった。それと呼応したのが丸山教である。農民の気持ちとリンクすることになり、信徒は増えていった。明治25年には全国の信徒は百万人を越したといわれる。

 政府や地方自治体はこれを危険思想と見なし、大弾圧を加えた。ときには一揆的な騒動となったようである、詳細は不明である。以後、弾圧により丸山教の勢いは衰えていった。

 で、以下は連想である。

麻生区には廃仏毀釈による首なし地蔵が多い。当コラムでも紹介したことがあるが、あれは麻生区黒川にある(写真参照)。黒川の住民のほとんどは丸山教の信徒であった。

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  ひょっとすると地蔵さんの首は廃仏毀釈当時ではなく、もう少し後、丸山教の騒動の際に切り落とされたものではないか。誰がやったかは不明。そんな歴史の穴がある。

 まったくの仮説である。ちょいと連想しただけだが、どこかに古文書でも残っていないものかと思っている。

 言い忘れたが現在の丸山教の信徒、一万人ぐらいと言われている。 

2017年9月 2日 (土)

人殺しいろいろ

 映画「関ヶ原」の字幕は西暦になっている。天正何年ではなく1600年というぐあい。ちょっと違和もあるが、わかりやすい。

 家康は関ヶ原の三年後、幕府を開く。そして十数年生き、1616年に没する。

 この1616年には世界史上重大人物が亡くなっている。シェークスピアである。

 シェークスピアの生誕年と没年は覚えやすい。シェークスピアをかじったことのある人なら知っているであろう。「人殺しいろいろ」である。つまり1564~1616。家康とシェークスピアは同時代を生きた。(家康の生誕は1543年。家康の方が20年ほど長生きをした)

 戦国から江戸時代の頃、イギリスはエリザベス一世の時代であった。グローブ座で「ハムレット」などが演じられていた頃、日本は戦乱期であったが、芸能面では出雲の阿国が人気を集めていた。これが歌舞伎の原型となるわけだから、共通点がないわけではない。

 1616年に没した人物でもうひとり有名人がいる。セルバンテスである。スペインはレコンキスタ(イスラム支配から脱した)以降、キリスト教文化を開花させる一方で、世界の覇権国となった。16世紀から17世紀にかけた頃が繁栄のピークとなり、その後、没落していく。「ドンキホーテ」はそんな時代の作品である。

 1616年は特別な年というわけではないけれど、こうして歴史を横に並べてみると、違った風景が見えてくる。

 世界史いろいろである。

2017年7月 1日 (土)

黒川の首なき石仏

  

 梅雨の合間、黒川に行ってきた。

 黒川は川崎市最北部にある静かな地域である。里地・里山が広がり、自然散策にはもってこいの場所である。新百合ヶ丘から歩くと一時間ほどかかるが、近頃はもっぱら小田急多摩線を利用している。

 黒川駅から15分ほどのところに毘沙門天堂がある。あることは知っていたが、どこにあるのかわからなかった。廃仏毀釈により首がもがれた石仏というか野仏があるというので、ぜひ見ておこうと思い、出かけた。

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  地図上ではどのあたりかわかるが、見あたらない。写真の真ん中あたりに細い道を見つけた。草をかきわけ進むと小さな鳥居があった。そのわきに石仏が並んでいた。

 これが首なし石仏である。これが石仏なのかと思う。写真では見にくいが、右側の石仏の胸のあたりに右手の指があることがわかる。なるほど首がもぎれている。

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  明治初めに、廃仏毀釈があったことは誰もが知っているが、細かなことはよくわからない。背景には明治政府の宗教政策があるが、各地で一斉に起きたわけではない。さみだれ的に多発した。強弱がある。個別に、誰が指導し、だれが実行したとなると不明な点が多い。

 どの宗教、宗派が標的になったかというと、真言宗や神仏習合的な寺院が多いが、これも地域差がある。

 わからないが、結果として、仏教を押しやり、日本は国家神道の道を歩むことになった。

 廃仏毀釈は歴史の転換期における集団ヒステリーのような現象であるが、その背景には明治政府の明確な意図があったと考えてよい。

2016年8月 6日 (土)

 蹴鞠と崇徳院

 

 京都の白峯神宮が修学旅行の生徒でにぎわっていると、昨日の「日経新聞」のコラム「春秋」に書いてあった。

 ここには怨霊として畏れられた崇徳上皇が祀られているが、にぎわいは上皇とは関係ない。元々は蹴鞠の宗家・飛鳥井家の邸宅で、鞠の守護神の小社が建てられていた。そんな由来から上達や勝利を祈って球技の選手が訪れているのだそうだ。ふーん、そうなんだ。

 蹴鞠はともかくとして、崇徳上皇は保元の乱の敗北で讃岐に流された。夜叉のごとく朝廷を呪い憤死した。死後は怨霊として畏れられることになった。

 慶応4年、明治となる直前、明治天皇(まだ天皇にはなっていなかったが)は、讃岐に使いを出した。崇徳上皇ことが気になっていた。そのときに奉じた祝詞がなかなか興味深い。

 簡単に言うと、鎮魂、たましずめである。上皇を七百年間讃岐にとどめおいたことを詫び、京都への還御を乞いた。そして、このあとがおもしろいのだが、上皇の霊が陸奥出羽の賊徒を鎮め、朝廷を護ってくれるよう祈願している。

戊辰戦争はまだ続いている、というより最中である。上皇が朝敵につかないよう、鎮魂のついでにお願いした。ちょっと虫がいいような気もするけど、ま、祝詞とはそういうものだ。このあたりのことは、谷川健一の『魔の系譜』をお読みいただきたい。

 で、京都の白峯神宮が建てられた。

 讃岐の白峰宮には、ずいぶんむかしだが訪れたことがある。京都は行ったことがない。今度、行ってみるか。蹴鞠の碑とやらも見てみよう。

 オリンピックのサッカーは武運つたなく初戦は敗けてしまった。サッカーファンの皆々さんよ。今からここに詣でれば、いくぶんのご利益はあるかもしれませんぜ。

2016年4月21日 (木)

戦国時代の大地震

  

きのうの続き。

 『理科年表』から戦国から江戸時代にかけての地震をいくつかピックアップ。

 1596年9月1日(旧暦:慶長元年閏7月9日) この日の大地震で高崎山など崩れ、八幡村杵原八幡社拝殿など崩壊、海水が引いた後大津波が来襲し、別府湾沿岸で被害、大分などで家屋はほとんど流失。「瓜生島」(大分の北にあった沖の浜とされる)の80%陥没し、死708という。

 その4日後。

1596年9月5日(旧暦:慶長元年7月13日) 畿内:京都では三条より伏見の間で被害が最も多く、伏見城天守大破、石垣崩れて圧死約500。諸寺・民家の倒潰も多く、死傷多数。堺で死600余。奈良・大阪・神戸でも被害が多かった。余震が翌年4月まで続いた。

 秀吉が亡くなる2年前、関ヶ原の合戦の4年前である。秀吉は伏見城にはいなかった(いたという説もある)ようだが、肝をつぶしたに違いない。

秀吉は地震にはついてない。これよりちょっと前の1586年1月18日(旧暦:天正13年11月29日)、マグニチュード7.8の大きな地震があった。畿内から東海、飛騨にまで被害が及んでいる。阿波でも地割れを生じ、余震は翌年まで続いた。

 時期としては、小牧・長久手の戦いが終わってまもなくのころ。この戦いは半年以上続いた。秀吉、家康どちらが勝ったともいえず、一応の停戦となった。秀吉は改めて陣を立て直して、家康征伐にむけて10万の大軍を準備し、宣戦布告した。

3万程度の軍だった家康は秀吉の攻撃におびえたが、攻め込む矢先、この地震が起きた。大垣にいた秀吉の軍勢は多大な被害をうけ、家康攻めを断念せざるを得なかった。家康は胸をなでおろした。歴史の事実である。

 もし、この地震がなければ徳川は滅んでいたかもしれない。

2016年4月20日 (水)

400年前の熊本地震 

  

 このたびの熊本地震、専門家は想定外云々と語っている。

 首を傾げる。そんなことはなかろう。大きな断層が走っている。過去にも大地震はあったはずだ。

理科年表』をチェックしてみた。あった、あった。

1625年7月21日(旧暦:寛永2年6月17日) 地震のため熊本城の火薬庫爆発、天守付近の石壁の一部が崩れた。城内の石垣にも被害、死約50。

 今回、熊本城の城壁が崩れた。天守閣の屋根瓦も落下した。似ている。400年前にも同様な地震が起きていたのだ。

  ちょっと前、「ブラタモリ」で熊本城を採りあげたそうだ。残念ながら見逃した。熊本城が頑丈な造りであったことを紹介していたという。ああ、なるほど、この熊本地震があったから、より頑丈な造りにしたのだろう。

 

さて、気になるのは、今後である。余震は収まっていない。震源は断層に沿って西から東に向かっている。豊後から伊予へと続いている。

伊予での大地震の時期が早まったとする見解を述べる地震学者もいる。

 断層は熊本、豊後から伊予へとつながり、四国を横切り、奈良まで行き、そこから京都に続いている。戦国時代から江戸時代にかけ、この断層に沿って大きな地震が頻発している。

 気になる。

2016年1月31日 (日)

シーボルト  ことしは没後150年

 

 歴博と人文研共催のシーボルト・シンポジウムに行ってきた。テーマは「シーボルトが紹介した日本文化」

 シーボルトといえばシーボルト事件が知られている。多くの人は、幕末に禁制の日本地図を国外に持ち出したことで国外追放になったオランダ人(実はドイツ人)という程度の知識しかもっていないが、日本医学への貢献のほか、日本文化の研究や西欧への紹介ですぐれた業績を残している。とりわけ植物の収集や博物学的研究は目を見張るべきものがある。

 追放後30年、禁を解かれ再び長崎にやってくる。ふたりの息子も引き連れて。この息子たちも日本と諸外国との友好に寄与した。そして日本で生まれた娘に再会する。

 このあたりのことは、吉村昭の『ふぉん・しーぼるとの娘』に詳しい。小説ではあるけれど、綿密な調査と資料を駆使しての内容だからノンフィクションと考えてもよい。

 

 ことしはシーボルト没後150年(明治維新の2年前に亡くなった)になる。シーボルトの業績を紹介する展示会が各地で予定されているそうだ。

 長崎にある「シーボルト記念館」を見学するのもいい。ここにいけばシーボルトの足跡も業績もよくわかる。

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